サイドストーリー:キングの失墜
俺の人生は、常にイージーモードだった。
生まれつき恵まれた容姿。親から受け継いだ、それなりの資産。そして、欲しいものはすべて手に入れてきたという、揺るぎない自信。女なんて、少し甘い言葉を囁き、ブランド物の一つでも買い与えれば、面白いように落ちてきた。俺は自分の人生のキングであり、世界は俺を中心に回っていると、本気で信じていた。
月詠詩織も、そんな俺のコレクションの一つに過ぎなかった。
素朴で、少し垢抜けないところがあったが、そこがまた庇護欲をそそった。彼氏がいると聞いたが、そんなのは何の障害にもならない。むしろ、人のものを奪うという背徳感が、遊びをより刺激的にしてくれた。案の定、彼女は数回食事に誘っただけで、あっさりと俺に体を許した。
「玲さんのほうが、ぜんぜんすごい……」
ベッドの上で、俺の腕の中で喘ぎながらそう囁く詩織を見て、俺は優越感に浸っていた。彼女の彼氏とかいう男は、確かどこかのIT企業に勤める、地味で冴えない奴だったはずだ。そんな男に、俺が負けるはずがない。詩織は早晩、彼氏を捨てて俺に乗り換えてくるだろう。まあ、そうなったらそうなったで面倒だから、適当にあしらって捨てるだけだが。
詩織の彼氏が失踪したと聞いた時も、俺の心は少しも痛まなかった。むしろ、好都合だとさえ思った。これで邪魔者はいなくなった。泣きついてくる詩織を慰めながら、その体を好きにできる。なんて簡単なゲームだろうか。
そんな傲慢な日々が、永遠に続くと信じて疑わなかった。
あの日、一本の電話がかかってくるまでは。
「皇くん、ちょっといいかな」
役員フロアから内線で呼び出された俺は、何かの褒賞かと胸を躍らせていた。社運を賭けたECサイトプロジェクトは、俺の指揮と、外部から引き入れた『K』という天才エンジニアのおかげで順調に進んでいたからだ。
しかし、重厚なドアを開けた先で俺を待っていたのは、賞賛の言葉ではなかった。会議室の長テーブルには、役員たちが険しい表情で居並んでいた。その場の異様な空気に、俺の背筋を冷たい汗が伝った。
「皇くん、君に聞きたいことがある」
人事担当役員が、氷のように冷たい声で口を開いた。
「君は、会社の顧客データを、競合である『モード・クリエイト社』に横流ししたのではないかね?」
「……は?」
何を言われているのか、一瞬理解できなかった。顧客データの横流し?俺が?馬鹿馬鹿しい。そんなリスクを冒すメリットが、俺にあるわけがない。
「何かの間違いです!俺がそんなことをするはずがありません!」
思わず声を荒らげた俺に、役員は一枚の書類を突きつけた。そこには、俺の社用PCから、見慣れないIPアドレスへ、膨大なデータが送信されたことを示すログがびっしりと印字されていた。そして、そのIPアドレスの所有者は、間違いなくモード・クリエイト社だった。
「これは……!何かの罠です!俺はハメられたんだ!」
必死に無実を訴えるが、誰も聞く耳を持たない。それどころか、次々と俺にとって不利な証拠が突きつけられていく。私的な飲食を経費で落としていたこと。部下の手柄を横取りしていたこと。それらは事実だったが、こんな情報漏洩の疑いに比べれば些細なことのはずだ。しかし、役員たちの目には、俺が普段から素行の悪い、信用ならない人物だという確信の色が浮かんでいた。
その日のうちに、俺はプロジェクトから外され、自宅待機を命じられた。
何が起きているんだ?誰が、一体何のために?
混乱する頭で思い浮かんだのは、『K』と名乗るあのエンジニアだった。そうだ、あいつだ。あいつがプロジェクトに参加してから、すべてがおかしくなった。あいつが俺のPCに何かを仕込んだに違いない。
だが、顔も素性も知らない『K』と連絡を取る術は、すでに失われていた。
数日後、会社から懲戒解雇の通知が届いた。俺の人生は、俺のプライドは、音を立てて崩れ始めた。
だが、地獄はまだ始まったばかりだった。
解雇のショックから立ち直れないでいる俺の元に、内容証明郵便が次々と届き始めた。差出人は、詩織以外に俺が付き合っていた女たちだった。
「結婚詐欺で訴える!」
「精神的苦痛に対する慰謝料を支払え!」
なぜ、今になって一斉に?タイミングが良すぎる。まるで、誰かが裏で糸を引いているかのように。
彼女たちに送られたという、俺の浮気の証拠。それは、俺のスマートフォンの中にしか存在しないはずの、プライベートな写真やメッセージのやり取りだった。
俺のスマホが、ハッキングされている……?
その事実に気づいた時、全身の血の気が引いた。背後には、俺のすべてを知り尽くした、得体の知れない敵がいる。そいつが、俺の人生を計画的に、そして徹底的に破壊しようとしている。
訴訟費用と、次々と認められていく慰謝料の支払いで、俺の貯金はあっという間に底をついた。親に泣きついても、「お前の不始末だろう」と冷たく突き放されるだけ。住んでいたタワマンも追い出され、みすぼらしいワンルームのアパートに転がり込んだ。再就職しようにも、情報漏洩の末に懲戒解雇されたという悪評は業界中に広まっており、どこも俺を雇ってはくれなかった。
日雇いの肉体労働で、その日暮らしの食い扶持を稼ぐ。それが、かつてキングだった俺の成れの果てだった。汗と泥にまみれ、疲れ果ててアパートに帰る。コンビニの安い弁当をかき込み、安酒を呷る。鏡に映るのは、覇気のない、汚れた中年男の顔。俺は、いつからこんな風になってしまったんだ?
ある雨の日の夜、俺は安酒を片手に、ぼんやりと昔のことを思い出していた。
詩織とのこと、彼女の彼氏のこと……。
そうだ、あいつだ。詩織の彼氏。名前は確か……天羽、だったか。IT企業のエンジニア。
その瞬間、雷に打たれたような衝撃が全身を貫いた。
『K』
神凪と名乗っていた、あの天才エンジニア。
あいつの卓越したスキル。俺のPCやスマホをいとも簡単に掌握し、完璧な証拠を捏造し、俺の人間関係を裏から操る。そんな芸当ができる人間がいるとすれば……。
「……あ、あもう……?」
震える声で、その名前を口にする。
そうだ。天羽。あいつだ。俺が、あいつの女に手を出したから。だから、あいつは俺に復讐したんだ。一年半という時間をかけて、じっくりと、確実に、俺のすべてを奪うために。
俺が軽い遊びのつもりで壊したものが、あいつにとっては世界のすべてだった。だから、あいつは俺の世界を、同じように、いや、それ以上に無慈悲に破壊し尽くしたのだ。
「う……ああ……あああああああああっ!」
遅すぎた真実にたどり着いた俺は、狭いアパートの部屋で、獣のように咆哮した。恐怖と、後悔と、どうしようもない絶望が、濁流のように俺を飲み込んでいく。
俺は、とんでもない化け物を敵に回してしまったのだ。
イージーモードだったはずの俺の人生は、いつの間にか、絶対にクリアできないヘルモードへと書き換えられていた。そして、そのゲームマスターは、俺が破滅していく様を、今もどこかで冷たく笑いながら眺めているに違いない。
雨音が、まるで俺を嘲笑うかのように、汚れた窓ガラスを激しく叩きつけていた。もう、俺に逃げ場はない。この地獄から抜け出す方法も、もうどこにもない。
俺はただ、床に突っ伏し、壊れた人間のように泣きじゃくることしかできなかった。
失ったものの大きさと、これから永遠に続くであろう暗闇の深さに、ただ打ちのめされながら。
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