憧れへの境界線

@moti_atuta

第1話 完結

「フランス産の認定発酵バター使用のこちらのスイーツ、東京初上陸しました。」と朝のニュースが告げた高校時代、茨城のリビングの薄いカーテン越しに差す光と共に、その言葉はどこか遠い海へと届く放送のように響いていた。画面の向こうで行列をつくる東京の人々は、私が感じる風とは少し違う温度を帯び、自分が育った水とは別の水脈の中で生きているように見えた。交わされる会話でさえ、同じ日本語のはずなのに、どこか別の言語として耳に届く。東京へは、地続きであるはずなのに、心の地図では別のページに印刷された国のようだった。


そして年月は流れ、大学進学で気付けば私はその“別ページ”の中で暮らすようになった。ある午後、立ち寄った街角に、あの日ニュースの中で輝いていた店がいつもの景色のように立っていた。見上げれば看板はあのときと同じ色をしていて、遠くて触れられないと思っていたものが、急に手の中に掴まされたような気がした。風の質が違うと思い込んでいた場所は、深呼吸一つで自分の体温へ溶け込んでいき、水の質は合わないと思っていたのに気付けば喉の渇きを自然に潤していた。異国の言語のように聞こえた雑踏の音も、いつしか生活のBGMになっていった。


そんな日々を経た今、視界のさらに遠くには、また別の風が揺れる場所がほんのりと輪郭を浮かべている。そこでは、まだ触れたことのない空気や、飲んだことがない水の透明さや、まだ舌に乗せたことのない言語が街を満たしている。その別の風が揺れる場所は、かつての洋菓子屋に抱いていた感覚と驚くほど似ている。

触れる前は大きく見えるのに、少し近づくだけで輪郭がやわらぎ、こちらへ歩み寄ってくるような気配を帯びている。そして、触れた瞬間に急に身近な音を立て始め、気付けば馴染みの空気となる。

そう思うと、次に触れる風もまた、気付けば私の暮らしの中で当たり前の顔をして吹いていくのだろう。





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