第2話 小烈士の武 その2

 山に入って一日目。

 日が暮れる頃には、烈心の足は棒のようだった。

 足の速さだけは了壇と比べても勝っていたが、長距離走の経験は乏しい。内傷による虚弱は、持久力不足にも表れていた。

 それでも走れるだけ走って、百里以上は移動している。


 了壇ならあるいは追い付いてくるかもしれないが、足腰の弱りに悩んでいた父親と一緒であればそうそう追い付いては来ないだろう。

 そんな事を考えながら速度を緩め、駆け足になる。日が沈みかけて、見通しが大分悪くなったためだ。


 嘗ては十分に整備されていたこの辺りの道も、英紗との折り合いが悪くなって以降はやはり手入れもされていない。

 古城のある山はまだ先であるが、既に道はでこぼこになっていた。


「朝までにどこまで行けるやら」


 独り言ちた烈心の遥か前方で、かすかに光が揺れた。

 僅かに上り傾斜がついてきた道の先、林の中に人がいるようだ。

 直感的に、そのまま遭遇しない方がよさそうだと感じた烈心は、そっと近づきつつ、聞き耳を立てる。

 しばらくにじり寄れば、かすかにだが人の声が聞こえて来た。



「本当に博寿真露だとして、値はどのくらいになる?」

「一滴で金七斤は下るまい」

「ほほほっ!そりゃたまんねぇな!」


 馬鹿でかく下卑た笑い声がこだまする。

 やはり野営しようとしている者達が居た。声からして五、六人は居そうだが烈心からは全員の姿が確認できない。


「木は一本だろう?どれだけ採れるもんなんだ?」

「既に一匙分程が王室に送られているそうだからなぁ…」

「聞く所によれば、博寿真露は水晶の杭を打って出来た穴からしか滲まんらしい。

 それが、一昼夜で凡そ一匙分になるという話だが、全部でどれだけ出て来るかは、木が蓄えた霊気次第だそうだ」

「それじゃ何か、場合によっちゃもう一滴も出て来ないなんて事も……」

「そん時は木を切り倒して売り捌くだけよ。素材としてもまぁまぁ値が付く」

「なら、搾り取った上でたたっ切るのが正解か?」

「後から来る連中が一滴も取れねぇようにならぁな」

「ハハハ!!そうなりゃ値段も吊り上げられるかも知れねぇな」

「ついでにみぐるみも剥げば両得ってもんよ」


 役に立ちそうな情報はあったが、正直聞くに堪えない。

 烈心は胃がむかむかとしてくるのを感じた。

 彼の人生において幾度か遭遇した類の人種である。恐らく、最初は赤ん坊の時。

 僅かに背中の傷がむず痒くなった気がしたが、構わずその場を離れる。


 あまり誇れた話ではないが、幼い頃の烈心はさらに体が弱く、山入りは危険を伴った。

 蛇蝎犬狼の類のみならず、時として魔獣が出没する事もある深い山林に、子供が単独で入るのはまさに自殺行為であった。

 それでも烈心は鍛錬と、その日の生きる糧を得る為に、無理を通した。


 そうする内に自然と身に着いたのが、所謂軽功と気配遮断の技術である。

 これは殆ど独学による物で、高水準とは言えなかったが、内功が極めて少なかった幼い烈心の存在感は野生動物の勘すらも誤魔化せるほどの結果を出したのだ。


 今では山林を動き回る烈心の身のこなしは一段上の成纏境地の武人を上回っていた。


 ただしそれも、やはり長時間維持出来るものではない。


「……がは……ぐっ……!」


 枝から枝へと移ろうとする烈心の胸に鈍い痛みが生じる。嗚咽と共に胃の内容物がせり上がるのを感じるが、ここで吐き戻す訳にはいかない。

 進行方向が同じ以上、後を追ってくる形になるさっきの一行に痕跡を残してしまう。警戒を強められるだけならばいいが、足を速められれば追い付かれる危険があった。


 烈心は上を向きながら必死に口を押え、せり上がる物を押し留めた。


「ちくしょう……!」


 数十秒後、手の離れた口からは思わず恨み節が出た。


 夜を徹して進まねば恐らく先回りは出来ない。だが、それだけの体力が今の烈心には残っていなかった。

 東悟や了壇と一緒なら、あの一行は何とか抑えられたかも知れない。だが、博寿真露の価値がそれほど高いのであれば、恐らくそれを求めて山に入ったのは彼等だけではない。

 中には、東悟以上の高段者が居る可能性もある。ならば一番確実なのは、速度に頼っての先行策だと烈心は考えた。


 烈心はそうした、考える力にも長ける方である。幼い頃から肉体を鍛えつつ、脳内は常に思案思索を続けていた。

 大賢人のそれではないが、勘働きの良さに加えて、よくよく考えたそれを迷いなく実行するという思い切りの良さがあった。


 しかし、常にそれが良い結果を招くとも限らない。

 よりにもよってそれがこの時であるのは、烈心にとっては運のない事だった。


「……!!」


 呼吸を整え、何とか次の木へと移れるかと思った烈心の背筋にひやりとした汗が伝った。


 何者かの気配。

 いや、正確には気配は隠されている。隠されながらも存在している何かを、確かに烈心は感じ、本能的な怯えを自覚した。

 経験からそれを魔獣に近しい何かと判断するものの、腑に落ちないとも思った。こうも巧妙に気配を隠す魔獣が存在するのかという疑問である。

 魔獣の知性は乏しく、おしなべてその気性は荒々しい。なのにあるべきもの、獣臭や息遣いはおろか移動や活動の痕跡……何もない。


 驚く程近くに居る筈の何かの気配を感じ取りながらも、烈心はそれを確認する事は出来なかった。

 違和感は恐怖へと変わり始め、冷や汗はその量を増やす。



 しかしやがて、その違和感はぷっつりと途絶えるように消えた。


 またその不気味さに烈心は息を吞んだが、確かに周囲には何も、誰も居ない。

 生息が報告される獣達の気配さえないという不自然さも気にかかるものの、足を止める猶予が無いのも事実である。


「行くしかない」


 己を納得させて、烈心は寄りかかっていた大木の幹を蹴った。微かに枝葉の揺れる音だけがその場に残る。



 暗闇の中で、その微かな音を聞きながら横たわっていた何者かが、ゆっくりと目を開ける。


「騒がしくなってきたな」


 そう口にして、僅かに頭を動かした。


「……何やら懐かしい気配がしたが――」


 言い淀んで、また目を伏せる。


 そんな筈はあるまい。と思考をやめ、その何者かは間を置かずまた寝息を立て始めた。





 さらに三十里程を移動して、いよいよ山道が険しくなり始めた所で烈心は足を止めた。

 限界が近い。これ以上不眠で進みつづけるのは不可能だった。

 後方から追ってくるような気配もない。あの一行はそれほどの速度を出していないのだろう。

 こうなると残るのは前方にさらに先行した誰かが居るという可能性だ。


 正直、それは烈心にとっては致命的だ。ここで休む必要もあるし、速度を上げるのも難しい。

 もし先んじた誰かが居たとすれば、追い越せるかどうかは彼我の速度差と自分の体力次第である。


「誰も居てくれるなよ」


 祈るような気持で口にした。分厚い獣の皮を用いた靴にも穴が開きかけていて、中の足は豆が潰れているのが分かる。

 微かなせせらぎの音を頼りに藪の中で歩を進めながら、竹の水筒を空にして、干し肉を嚙み千切る。

 水を汲み終えたら一眠りしたい。どこか良い場所を見付けねば、とぼんやりした頭で考えていた烈心の足が、何かに引っかかった。


 完全なる油断によって烈心の身体は地面に倒れ伏して、持っていた干し肉入りの革袋が草むらの中に転がった。


「あぁ……」


 疲れ切った表情で体を起こしながら、自分の足先の方を見る。


「は?」


 女の子だ。女の子が倒れている。


 年の頃は十三か十四。行き倒れにでもなったのか、薄汚れた女物の衣服に、頭巾から僅かに見える肌は死人と間違いそうな色をしていた。

 呼吸はある様なので、やはり行き倒れか?と烈心は向き直って、慎重に手を伸ばした。


「おい、大丈夫か?」


 返事は期待しなかったが、そう声をかける。

 当然のように返事はなく、弱々しい呼吸音だけがした。

 助け起こす前に傷等がないかを確かめるべく頭巾をめくり、手が止まる。


 艶のある赤い長髪が露になって、烈心は困惑した。

 英紗人の特徴であるそれに驚きはしたが、まずは救命が優先である。

 頭部や顔、首回りに異常が無さそうなのを確認して、次に全身を目に収める。そうして気付いた違和感。


「この子、足が……?」


 着物の下には履物を履いていた様子のない、ほっそりとした――細すぎる脚。

 汚れも傷も殆どなく、山道を歩いて来たとは思えない足先の様子に、烈心はまた困惑した。


 そしてすぐ、少女の懐に押込めらるように仕舞われた獣除けの香袋の存在にも気付く。


 もしやと思い立ち上がろうとした烈心の動きは、石の様に固まった。


「妙な動きをすれば首を跳ねる」


 細身の、しかし鋭く伸びた剣の刃の冷たさがある。


「何者だ。天遊の役人はまだ町を出ていない筈だ」


 声の主の殺気の凄まじさが、刃の冷たさを一層増しているように感じられた。間違いなく、烈心が今までに出会った事が無い領域の達人である。

 極度の疲労に加え、背後を取られた経験の乏しい烈心の思考は鈍り、返答に窮した。


「お、俺は……」


 言いかけた所で、膝が抜ける。すでに限界に達していた烈心の身体は、この緊張に耐えられなかった。

 剣を突きつけた相手の意識がすでにない物と悟って、男は溜息をつく。


「ようやく獣を追い払った所だというのに、荷物が増えるとは」


 愚痴っぽい言い草であるものの、敵意はない。



 やがて意識を取り戻した烈心の前には、焚火に向かう赤毛の男の背中があった。


「……うっ」


「もう少し横になっていろ。お前さん、前から頭をぶつけたぞ」


 言われながら額をさすろうとして、貼り付けられた膏薬の存在に気付く。


「あ、あの」


「俺は姜朴天という」


 先に返事をして、男は火にかけていた小鍋から中身を掬い上げた。

 歩き出した先に横たえられた少女を見付けて、烈心は己よりその少女を案じた。


「その子、毒に」

「分かるのか。ああ……厄介な奴でな」


 言いながら、少女の身体を優しく起こして背をさすってやる。


「父はここだぞ。蓮香」

「……ち、父上……」

「獣共はとりあえず大丈夫だ。まずはこれを」


 弱々しく口にした少女の瞳の色は、やはり英紗人の特徴である灰色がかったものだった。

 差し出された器に口をつけ、薬らしきものをゆっくりと飲み下す。


「ありがとうございます」


 器を返しながら丁寧に礼を言い、やがて気が付いたように烈心の方を見る。



「あの、そちらの方は?」

「ああ、隠していたお前を偶然見付けたお人だ。名は何というかね」

「黄烈心です」


 言いながら首を垂れる。厄介になったのだと気付いて、驚きより申し訳なさが勝る。


「おお、良い名だな。して烈心君、なぜこんな山に?」

「……恐らく、同じ物を探してかと」


 少し言い辛そうにする烈心の姿に、納得したように朴天は頷いた。


「君も苦労しているようだな。丹田に及ぶ内傷とは」


 先程のやりとりで、朴天の境地は相当の物だと理解している。見透かされるのも当然だった。


「英紗からいらしたのですか?」


 単刀直入に聞く。朴天はやりにくそうにしながらも、事情を明かす事にした。


「ああ。この子を連れて、一年と少し前から人を探していた。

 しかし見ての通り、道中で厄介な毒を受けてな。特に足を悪くしてしまったのだ」


 蓮香の顔が曇る。


「申し訳ありません。私がこんな事になってしまったばかりに、国許にも戻れず……」


 足を悪くしたその後、恐らくこの父は娘を背負って旅をしていたのであろう。

 英紗人、それも達人である事が知られれば、捕われて獄に繋がれる可能性が高い。その危険を冒しての道中はさぞ苦労があったに違いない。


 烈心の方まで泣き出しそうになったのを見て、朴天は慌てて話を切り替えようとする。


「よせよせ、お互い、望みをつないでここまで来た身であろう。見通しは悪くない。

 霊薬の存在は確かなのだから、この苦労も限りのある事だ」


「え、ええ。しかし……」


 烈心の顔色は晴れない。体調の事もあるが、それ以上に気掛かりなのが、道中聞いた言葉だ。


「その霊薬、量がどれだけあるか……」

「むう」


 一つ呻いて、朴天は頭をかいた。博寿真露については、蓮香の足を治す術を探す中で十分に調べた内に含まれる。

 正しい道具を使って手順を踏み、それなりの時間を待って、分泌されるのを待つ代物だ。


 後に続く者達がいる以上、すぐに持ち出せる量が足りないとなれば、争いになる。

 恐らく、今あるのは一人分あるかないか。二人の懸念は共通していた。


「天遊の皇室が博寿柳を管理下に置こうとしているのは確かだ。遅くとも三日もすれば兵を連れた役人が到着する。

 それを刻限として、多くて二人分……そもそも我々は正確な博寿柳の位置を知らない訳だ。探す手間も時間も要る」

「やはりそうですか」

「幸いにして、博寿柳は背が高い上に青白い葉をつける。目立つ事この上ない。二日使って見付からんという事は無いだろう」

「いえ、すでに三十里ほど先に、話を聞きつけた野党の類が来ていました」

「であれば、刻限は一日削れたと見るべきか……」


 荷袋を漁りながら、朴天は何かを思案する。


「烈心君」

「は、はい」

「一先ず昼飯にしよう。君も碌に食っていないだろう」


 そんな場合ではない、と言いかけた烈心だが、腹の虫の方もそんな場合ではないと言い返してきた。


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