第1話 小烈士の武 その1
「諦めろ。とは言うまい」
昼の少し前、隣町の道場にまで足を延ばした烈心は、奥に座す年老いた道場主と膝を突き合わせるように話し込んでいた。
「お前の武に対する真摯さは、我が弟子らにも見習わせたいほどじゃ。が、そればかりでは限度がある」
この道場主も、今でこそこうも親身に語りかけてくれるが、かつては烈心を鼻で笑う一人であった。
先程までその弟子達が早朝の稽古に勤しんでいた道場にはまだかすかに熱気が残っており、当然彼等の師であるこの老人の身体からも煙る様な気勢が放たれ、空気の揺らぎとなって可視化されていた。
この近郊では名の知れた使い手である。若き日には天下百名手に名が上がった事もあった程だが、隣国・英紗との小競り合いでの無理が祟って境地を伸ばし切れなかったという過去がある。
この世界における武の境地は大別すれば七つの段階に分けられる。
下から、錬戴(れんたい)、成纏(せいてん)、顕真(けんしん)、元梁(げんりょう)、霊祭(れいさい)、界命(かいめい)、そして超常の境地である星神(せいじん)となる。
界命境地以下に関しては、さらに前期・中期・後期と分けられており、一般に達人とされるのは元梁境地以上の武人である。
その元梁境地の後期にあるのが、この道場主・宗東悟であった。
「お主の内傷はあまりに深い。赤子の時に受けた傷が命を奪わなかっただけ奇跡なのじゃ。養生に専念し、これ以上の無理をするな」
言葉の通りである。烈心はかつて、集落が野党に襲われた際に槍を背に受け、瀕死の重傷を負っている。
その時の傷が内傷となるばかりか丹田をも傷付けており、内功を鍛える事がほぼ不可能な状態なのだ。
「重々承知しています。ですが、無理はしておりません。ほどほどに外功を鍛えているだけです」
これは言葉通りではない。内功の絶対的不足をどうにかして補わんと過剰なまでの鍛錬を続けている烈心の筋骨は、常人のそれよりはるかに鍛え抜かれている。
だがその鍛えられた筋骨は、内傷を負って弱った臓器で支えられるようなものではなく、肉体の不均衡は烈心を日々蝕み続けていた。
「口の減らなさは父親譲りだな。儂とて、お前の為にならん事を言っているつもりはない」
「心得ています。老師の教えが無ければ、もっと早くに死んでいてもおかしくはありませんでしたので」
「であれば、抑えろという理屈も分かっておろうに」
嘆息し、懐から小瓶を幾つか取り出して見せた。烈心が毎日の様に常用するこれらは、近隣の山野から採れる薬草類から東悟が錬丹した物である。
当然、根本的な治療薬としての効果はなく、烈心自身の回復力を補助する程度の代物でしかない。
「これらの丹薬ではこれ以上の効果は望めんだろう。丹田の修復を果たす程の代物はこの頃出回りが無い。
帝都の伝手も当たってはみたが……」
稀少な霊薬や、上質な丹薬があれば短期での回復も望めるが、それらは総じて高価に過ぎる。
平均年収の数倍ならばまだマシで、家一軒を超す値が当たり前の世界であった。
「老師の御厚情には感謝しております。しかし、俺は武を諦めて木石の様に過ごすくらいであれば死んだ方がマシだと考えています」
「で、あろうな。その理由も分からんではない」
東悟は烈心の瞳の奥に鋭い光を見ている。まぶしい朝焼けのそれのようで、思わず目を細めてしまう。
「父の武魂を探し出し、取り戻すまでは死に切れません」
口にした物の、それを認めるのは同時に父の生存の可能性を諦める事でもあった。
生きた人間から武魂を取り出す術はなく、継承は即ち先達の死を意味している。
「武魂……か。あれはそこそこできる男ではあったが、まさか武魂を遺しているとはのう」
武魂。
それは、武人が己の武功を極め、招式が魂にまで染み入った結果生み出される物。
この世界の武人はその境地の高さもさる事ながら、生涯を通していくつの武魂を成し、その身に宿せるかが重要な強さの指標となる。
そして武魂は、その主である武人が命を落とした時、この世に遺される事がある。いわば、技と志とを後代に託すのだ。
優れた武魂を受け継ぐ事が出来れば、同程度の境地において優位に立つばかりか、時として高段者にも勝る事がある。
故に、この世界では武魂の価値はかなり高い。
「父の武魂は折れた剣の切っ先に宿り、何者かに奪われた……と手紙にはありました。
もしそれが悪用でもされていれば、父も安らかに眠る事は出来ないでしょう」
烈心の懸念は杞憂というには現実的過ぎた。武魂には武人が長い年月をかけて培った物を、それよりはるかに小さな労力で得られるという側面がある。
手段を問わずこれを得ようとする者も居れば、奪われる事を恐れてひた隠しにする者、逆に自ら明かして誇る者……様々だ。
「……八年じゃぞ。悪しきにしろ、善きにしろ、もう何者かに用いられておる事は確実であろう。
殺して奪い返しでもするのか?」
「――手紙には、その武魂は息子である俺にしか扱えない物だ。と書かれていました」
ぴくり、と東悟の白い眉が動く。武魂が人を選ぶという事は、ない話ではない。ふさわしい技量や才能が無ければ我が物と出来ないのが武魂の道理である。
しかし烈心の言い様は、まるでその武魂はに別の理屈が働いているかのように聞こえる。
「初耳じゃが」
「黙っておりました。ですがそろそろ、家を出る頃合いかと思いましたので」
「その体で旅に出ると申すか」
声色がきつくなった。怒気を孕んでいる。父親の飲み仲間であった縁から目をかけて来た小僧であるが、随分と生意気になった物だと感じていた。
「今のお主の境地は、概ね錬戴境地の中期か。
うちのバカ弟子共の半分は勝てんかも知れんが……並以下の内功を外功と技の精度で補うのも、そろそろ限界であろう」
「真気を用いれば、もう少しは」
「まだ死にたがるか!!!」
一喝された烈心の息が止まりかける。姿勢を正しながら、烈心は深々と頭を下げる。
真気とは、生物が生まれ持った生命力その物とも言える純粋な気を示す。これを使うのは、武人にとっては最後の手段に近い。
覚悟を示したつもりの烈心に対し、東悟はそれを軽率と断じて諫めたのだ。
「御厚情と御教示により、今日まで長らえました。恩返しもままならず汗顔の至りではございますが」
「よさんか。そう大した事はしておらん」
実際の所、この道場主は烈心に武を教えはしなかった。少しばかりの錬丹の知識で健康の維持を図り、体の使い方を説いてやった程度である。
後は烈心が道場を覗き見て、勝手にやった事である。それが八年近く続いて、気付けば小僧は偉丈夫となっていた。
「見てくればかりは立派になりおったが……」
言葉に詰まる。容貌はさる事ながら体格にも恵まれた方である。武の才能も、並程度ではないのだ。故に惜しい。
「長い旅になれば、先に体が悲鳴を上げるぞ」
しわがれた声が、一層弱々しい。
「はい……」
全て覚悟の上。最早口にする必要すらなかった。
烈心の身体は、決して生涯治らないようなものではない。適切な治療を行い、五年か、遅くとも七年も過ごせば治る見込みがある。
しかしこの青年はそれを待てはしない。待っていてはならないという気がしている。
何か確信めいた物さえあった。
「明日には発つつもりです」
「若い者は、待つという事を知らんなぁ……」
明日と言いつつ、烈心の背にはすでに荷物が纏められている。話の流れ次第ではそのまま去るつもりでいたのだろう。
諦めの境地に達した道場主は、最早苦笑するしかなく、脇に置いていた小瓶をまた摘み上げる。
「気休めにしかならんが、もう少し用意する。必ず寄りなさい」
烈心はまた深く頭を下げた。
が、突如としてその頭から破裂音がした。
床に顔を打つか否かの所で烈心は手をつき、体を起こして怒声を発した。
「了壇!なんだいきなり!!」
道場主の息子であり、烈心の友人の一人である若い男が、荒い息を整えている。
宗了壇は烈心より六つ上であったが、まるで同い年の様な付き合い方をしてくる男だった。
それを、精神年齢が同じだと評したのは東悟だが、烈心が実年齢より高く、了壇が少し低いせいだとまでは解説しなかった。
体つきに関しては六尺ある烈心よりさらに大きく力強い。日に焼けた健康的な顔色から白い歯をのぞかせたその表情は、駆けずり回った疲労を滲ませながらも笑っているようだった。
「ま……間に……合っ、たっ……ぜ」
たった今烈心の頭をシバいた、皴の寄った紙束を叩きつけらるように床に広げ、一呼吸おいてから了壇は声を上げる。
「博寿真露が出たぞ!!」
「何と!!!」
東悟の目がカッと見開かれる。
「博寿真露とは、何でしょう?」
状況をつかみ損ねた烈心の声色は間の抜けたものだった。
「知らねぇのかよ小烈士!」
小烈士とは烈心の渾名である。
折り目正しく正義感が強く、困っている人を放っておかない彼の性格を表す――しかし体の弱さから不自由している様をほんの少し皮肉った、そんな渾名だ。
「樹齢百年を超す博寿柳の幹から滲みだす、一滴で腐り落ちた手足すら生やして癒すと言われる霊薬だよ!」
了壇はしわくちゃの紙束を広げ、大急ぎで書き付けた内容を反芻する。
決して整理されたとは言えない内容であるが、出所は関所の役人からである。
「どこからそんな……この辺りに博寿柳なぞ生えてはおらんはずだが?」
稀少な木であるし、普通の柳と違って背は高くまっすぐに伸び、枝葉だけがしだれている上に葉は青白く広い。という非常に目立つ形の木だ。
訝しげに東悟は顎をしゃくり、しかし期待のまなざしを烈心に向ける。
「あるいはお主の内傷も治り切るやも知れんぞ」
頭をさすりかけていた手を戻して、烈心は神妙に確認した。
「それほどの効能が?」
「うむ。最後に聞いてから三十年近くにもなる。出た。という事は、既に真偽は確かめられておるんじゃろう?」
「おう、皇室に献上されたらしい。本物に違いねぇよ!」
誇らしげに腕を組んでいる了壇であるが、聞いていた東悟の眉間には皴が寄る。
「糠喜びをさせるな。ならばいずれかの御料地から出たのであろう。民草に縁があるはずもない」
「いや、それがな」
厳しい父の言葉を遮る。興奮の為か、常ならしない話しぶりで了壇は続けた。
「こっから南西に三百里ほど先の古城あたりから出たって言うんだ。最初に見つけたのが測量の役人だったから、そのまま採った分を帝都に送ったらしい」
「あの辺りか。放棄されて久しいのは確かじゃな……」
三十年近く前の事を東悟は思い出す。自身が死にかけた紛争もその古城を中心にしていた。以来、この天遊帝国と英紗国の折り合いは悪いままだ。
「了、英紗との国境線を超えてはいないのか?」
「そこは問題ないな。何十里かはこちら側だったみたいだぜ」
「ならば、誰の物という事もあるまい」
戦後、古城とその一帯は再建されずに放棄されたままだった。
荒れに荒れたが故に難所となり、侵攻を妨げる障壁として一定の効果が出ているというのは皮肉である。
「三百里ばかり散歩に出るとするか」
言いながら腰を上げ、東悟はにやりと笑う。
「おうよ!そうこなくっちゃなぁ!」
了壇も床を蹴り飛ばす勢いで立ち上がった。
「ちぃとくらい出発がずれ込んでも構わんよな?小烈士」
そう尋ねられて、別の答えが出る筈もない。
「ああ。山には慣れている」
先程までよりは、烈心の顔も幾分晴れやかである。
「噂が広まれば争いになりかねん程度には貴重な代物じゃ。夜までに発たねばならん」
「おう、準備してくるぜ!!!」
それぞれ自室へ向かったであろう親子の背を交互に目で追っていた烈心であったが、数拍置いて、また深々と頭を下げる。
「少々買い足しとかにゃならんな。とりあえず昼飯でも――」
数分の後に戻った了壇は、そこに居た筈の友人を見失って、道場の隅から隅を見回す。
見る見るその顔に赤みが増して、怒りと共に喉を鳴らした。
「あのクソ真面目が!!親父ィ――!!!!」
母屋に向かって声を張り上げる了壇。
それが聞こえたのかどうか、既に街を抜けつつあった烈心は「悪いな」と小さく呟いていた。
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