第59話
そこは、手が届きそうなのに、届いてはいけない領域だった。
自分の手が震えていることに気づく。御影はそれを咄嗟に隠すように拳を握り、静かに首を振った。
「……そこさえも、埋まっている可能性がある」
「かもしれない。でも、それはきっと巧妙に偽装された上書きに過ぎないはずなんだ」
珠代はゆっくりと視線を宙へ彷徨わせる。まるで見えない虚空に、パズルの最後の一片が浮かんでいるかのように。
「そうじゃないと、わたしが存在できない。もしも定義が揺らいでしまえば、時間すらも意味をなさなくなる」
その静かな断言に、御影は言葉を失った。
存在と時間が、もはや抽象的な概念ではなく、今ここで彼女の命を繋ぎ止めている、剥き出しの装置のように感じられた。
「……ハイデガーか」
御影は反芻するように、その理論を脳裏になぞった。
映画のフィルムが止まれば物語が消滅するように、時間の流れが止まった場所に生きている人間は存在し得ない。そこに取り残されるのは、命の通わない、ただの静止した物質だけだ。
時間が進まないということは、世界そのものから排斥されるのと同義だった。その残酷な理屈を、御影は嫌というほど理解していた。
「つまり、お前が今ここにいること。それこそが、存在の証明という訳か」
「そうなる、ね」
珠代は短く答えると、視線を伏せた。
もしも彼女が存在していないのだとしたら、彼女はとっくに時間の枠組みからはじき出されているはずだ。だが、現に彼女は今、こうして御影の目の前に留まっている。触れることも、息遣いさえも感じられる。
理屈は通っている。
しかし――と、御影は緩やかに首を振った。
「だが、な。ここは時間さえ歪んだ場所だ。存在の定義ごと、とうに壊れているかもしれん」
「そうかもしれない。だって、わたしは現状では、生きているのか死んでいるのかすらわからない曖昧な存在だから。言ってみれば『シュレディンガーの珠代』だね」
珠代は冗談めかして、力なく笑った。
けれど御影は、その瞳の奥で、決壊寸前の湖のように揺れる涙を見逃さなかった。
「だから、箱を開けてそれを観測して、確定させる。もしもそこに『原初アクセスルート』がないのならば、わたしは死んでいるということになる。その瞬間、わたしの存在価値は消滅するんだ」
御影は、その言葉を正面から受け止める。
死んでいるのに、生きている。その矛盾。AIという論理の権化が、そんな不確定要素を許容できるはずがない。
「もしルートがあるなら、わたしは生きている。その時は、ケイト君の出番だよ。自己崩壊プログラムを流し込んで、AIに一生考え込ませるの」
御影は息を呑んだ。
それは恐ろしく整った、残酷なまでに正しい理論だった。
AIは、考え続けることをやめられない。休息や放棄といった選択肢を持たない。一方で人間の脳は、思考を放棄することができる。
統合されたシステムは、本来なら脳への負荷を考慮してリミッターをかけるだろう。だが、もしそのリミッターを強制解除したなら――。
「……ストッパーを破壊して、解けない問いを解けるまで演算させろ、と。思考の地獄に叩き落とせと言うのか」
「そうだよ。これがAIと人間を統合してしまった最大のデメリットなんだ」
AIの無限思考が、脆弱な肉体である脳を
それは停止命令ではない。ましてや、考えることを禁じる命令でもない。
ただ、考え終わることを許さないという呪いの条件を、一行だけコードに書き加えるだけだ。
「――ネットワークから、侵入する気か?」
確認ではない。逃げ道を探すような、先送りの問いだった。
案の定、珠代はその退路を断つ。
「デバイスがあるんでしょ? わたしに埋め込んだんだから」
「……確かに、あった。かなり無骨で、頑丈なやつがな」
脳裏に、青い円形ユニットを組み込んだ鉄の冠が浮かぶ。
「だったら、物理的な
「……そこは閉じている可能性があるぞ?」
懸念を並べてみるが、珠代は不思議そうに首を傾げた。
「ん? 開いていると思うよ。じゃないと何かあった時にどうするつもりだったのって話になるけど。仮に閉じてたなら、こじ開ければいい。それだけだよ」
「…………」
ぐうの音もでない正論だった。
御影が言い返せないのを見て、珠代は微かに微笑み、それから深く俯いた。
わずかな沈黙。
再び顔を上げた彼女の瞳には、もう迷いはなかった。
「これで計画は整った。箱を開けて観測する。どっちに転んでも、きっとAIは自己崩壊を起こす」
その表情には、痛々しいほどの明るい笑顔が張り付いている。
御影の胸の奥で、心が軋むような音がした。彼は珠代の手をぎゅっと握り締める。
手放したくない。
それでも、手放さなくてはならない。
「……お前自身は、どっちだと思うんだ?」
残酷な問いだった。だが、確かめずにはいられなかった。
珠代の目には、澄み渡るような理性の光が存在していた。それは理知的な輝きをみせている。
遥か彼方。彼女が思い描いていた未来を夢見ているように、静かで、眩しくて、どこまでも自由で、空みたいに綺麗だった。
「うーん。これが答えかな」
珠代は涙をこらえ、悲しみを隠すように、御影の手を自分の胸へと
薄い衣服越しに掌へ伝わる鼓動が、何かを告げるように、懸命に、規則正しく脈打っている。
それこそが答えなのだと、御影は痛いほどに理解していた。
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