第三章:再現の算法 -Replication Algorithm-
第17話
モニターの光がわずかに揺れ、室内の空気が静かに止まった。御影は煙草の煙を深く吸い込み、そのままゆっくりと吐き出す。肩の力を抜きながら、息を整えた。
隣に座っている戸羽も、ただ黙って画面を見つめ、言葉を待つように姿勢を正している。その無言の空間の中で、二人の呼吸がわずかに交錯し、時間が少しずつ流れ始めた。
≪prompt = "おはよう珠代。気分はどうだ?"≫
≪response = "うーん、……まだ眠いかも。ショウ君も、君も……ずっと研究室に……いるし。"≫
御影はキーボードの上に指を置き、ログの動きを確認した。返答が表示されるたびに、画面の光が御影と戸羽の顔を交互に照らす。戸羽は腕を組んだまま、落ち着かない様子で文字列を追う。
「……癖は出てるが、なにか違うな。もっとこう、自然に話すのかと思っていた」
御影は短く息を吐き、煙草の灰を落とすと、眉を寄せた。
「想定内だ。生成モデルの初期学習では、こうした挙動はよく見られる」
御影は短く言い放つと、再び手元を微かに動かし、表示される文字列を追った。規則正しく吐き出される反応は、どこか均一すぎるようにも感じられる。初期学習ではもっと揺らぎや偏りが見られるはずだ。だが、それが見当たらない。
≪prompt = "それは悪かったな。戸羽にも言っておくよ"≫
≪response = "こんな……にかわいい彼女、……を放っておく、ショウ君の、……事なんか知ら……ない。"≫
文字列が一文字ずつ表示され、間の微妙な遅れがログにも現れる。AIの解析エンジンは意味を取ろうと必死に働いているが、まだ不安定だ。
戸羽は眉をひそめ、肩の力を抜きつつ、視線を画面に固定している。その仕草に焦れが滲んでいた。
「そんなものか......。だが、どうにもな」
腑に落ちないという表情のまま、戸羽は眉を寄せていた。御影はその様子を横目で見ながら、煙草を咥え直し、ゆっくりと息を吐き出した。
「まだ学習は途中だ。記憶の蓄積も、音声もまだ完成していない。言ってみれば、このAI――タマヨは生まれたばかりなんだ」
言いながら、進捗データへと視線を向ける。少し――いや、明らかに早い。
御影はすぐに意識の端でその考えを否定した。設備が違うのだ、と。大学とは比較にならない処理能力。そう思い込めば、腑に落ちるはずだった。
だが、画面の片隅でログが一瞬、不自然に跳ねた。まるで戸羽が何か言葉を発する直前に反応したかのように、半拍だけ早い揺れ。腑に落ちない、違和感が存在している。しかし、その瞬間にはすでに画面は元の動作に戻っていた。
「……だが、学会のデモだともっと普通に喋ってただろ?」
思わず息を吐き、気のせいだったのだろうと自分に言い聞かせていると戸羽の声が低く割り込んだ。御影はその問いに少しだけ考え込み、言葉をゆっくりと選びながら答えた。
「それは、完成形だからだ。あれはチューニングが終わった後の姿。今ここにいるのは素体に近い。歩き方から教えないといけない状態だ」
「生まれたばかり、か」
戸羽は画面を見つめながら、指先でテーブルの縁を叩く。言葉が届くまでの間が、どうにももどかしいようだ。その手のひらに見えない力が込められているように感じた。
「……そう言われりゃ、まあ……そう見えなくもないな」
不満げな表情を浮かべながら、戸羽は短く息を吐く。その仕草に、御影は少しだけ目を細めた。戸羽の不安がどこから来ているのか、少しだけ理解できたような気がした。それを見た御影は立ち上がり、デスク上のマイクに手を伸ばした。ジャックを差し込み、接続ランプが緑に点灯するのを確認する。
「文字だけだから、そう見えるのかもしれん。声があれば、多少は変化するだろう」
御影はマイク設定ウィンドウを開き、聞き取り用の小さなスイッチを一つずつ入れていく。
雑音を抑える機能や音量の感度も調整する。どれもまだ不安定で、タマヨには負荷が大きいが、会話を試すには避けられない作業だ。
画面上の波形が微かに揺れ、椅子の軋む音や空調の音までが波形として表示される。タマヨはそれらを『言葉かもしれない』と認識し、解析を開始する。しかし、その結果はまだばらばらで、意味のつながりが乏しい。会話に至るまでには程遠い。
御影は指先で波形を追い、反応が早すぎても遅すぎてもいけないという微妙な感覚を調整していく。音の感度を高めれば、空調の音まで拾ってしまうし、逆に鈍すぎると、声を聞き逃してしまう。これが、タマヨが言葉を発するために必要な精度だ。
≪……――……ッ……ガ……≫
スピーカーからかすかなノイズが流れ、画面の文字が小刻みに跳ねた。
「……今の、反応か?」
「音声区間の誤抽出だ。意味はない」
御影は冷静に答える。画面に表示された疑問符の列が、タマヨの混乱を物語っている。まだ学習途中のAIは、ただ可能性のある音を並べているだけだ。
それはまるで、人間の子供が初めて言葉を口にする前の、ぎこちない呼吸のようだった。
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