第16話
進捗バーはゆっくりと、しかし着実に伸びていく。
御影の感覚では十分に早い。だが戸羽にとっては違うらしい。足先が、堪えきれない焦燥を吐き出すように小刻みに揺れていた。その動きが、無意識のうちに時間を強調するかのように感じられる。
「まだ、
呆れと溜息の中間のような声が、御影自身の口から零れた。
戸羽は聞いているのかいないのか。視線を床に落としたまま、独り言のように呟く。
「なんとまあ……どれだけ設備を充実させても、どうにもならんのだな」
「……正直、これでも十分に早い方だ。大学でやれば一年は簡単に消える」
背中に鈍い痛みを覚え、御影は椅子に身を沈めた。
視界の端で戸羽を窺うと、彼は顔を上げ、天井をぼんやりと見つめている。青白いモニター光に縁取られた横顔は、疲労を滲ませながら、どこか遠い虚空を漂っていた。その視線の先には、もはや誰もいない。
「大学、か……。そうだったな。俺たちの研究は遅々として進まなくて、随分と焦れったかった」
ぽつりと零れた戸羽の声には、微かな震えが混じっている。
御影はそれに応えず、静かに息を吐いた。心の中で、何も答えるべきではないと感じた。
「その度に、俺とお前は口論したが……珠代が――」
言いかけて、戸羽は言葉を飲み込んだ。
怪訝に思い、そっと横目で見ると、彼の口元がわずかに緩んでいる。青白い光の中で、その笑みだけが、不思議と人間の温度を帯びていた。
「珠代は暴走しかけた俺をよく止めてくれた。お前との仲もしょっちゅう取り持ってくれていた」
機械の点滅だけが時を刻み、光が戸羽の瞳の奥で揺れた。その光が、彼の心の中に何かを呼び覚ますように見えた。
「なんだかんだと、いつもお前はこうやって率先してプログラムを書いてくれてたな」
「……お前が頼むから仕方なくだ」
「いや、珠代の方が滅茶苦茶だったろ? 『ケイト君、これじゃあAIが生きてない!』ってな。どこがどう生きてないのか、俺たちにはさっぱり分からなかったが」
御影の脳裏に大学時代の光景がよみがえる。
研究室に遅くまで残り、三人でただ議論とも雑談ともつかないことを話していた夜。――もう、二度と戻れない時間。
「あの頃も今も、やっていることは同じだ。ただ情報を整理して、順序を正す。それだけだ」
「お前らしいな。本当に……らしい言い草だ」
青白い光が戸羽の横顔を切り取る。御影はわずかに眉を寄せ、その笑みを見つめた。
機械の稼働音と空調の低い唸りだけが空間を満たしている。声が消えた途端、無機質な律動だけが残った。
その沈黙を破るように、戸羽が言った。
「――なあ、御影。覚えてるか? 珠代が研究室に入った理由を」
唐突な問いに一瞬だけ思考が乱れたが、すぐに頷いた。
「あ、ああ……。覚えてるよ。確か、青い猫型ロボットを作りたい、だったか?」
忘れるはずがない。
突飛で荒唐無稽な夢だった。だが、不思議と強く印象に残っている。
御影自身も、幼い頃に同じものを夢見ていたからだ。
だからAIに惹かれ、調べ続け、人間そっくりの存在を追い求めてきた。
気づけば御影もまた、珠代の夢の残滓の中で生きている。
「科学者は、俺もお前も含めてみんなロマンチストだが、あいつは群を抜いていた。キラキラした目で、青い狸を夢想していた。早く会いたい、友達になりたい、ってな」
くつくつと戸羽が笑う。その横顔をよそに、御影はモニターへ視線を戻す。
稼働音が一瞬だけ途切れ、初期学習の完了を告げる表示が浮かんだ。
御影はキーボードに手を伸ばし、最初の言葉を入力した。
≪prompt = "おはよう"≫
≪response = model.generate(prompt, max_tokens=50)≫
≪print(response)≫
返ってきた文章は自然で正確だった。だがまだ人格はない。
AIは動き始めたが、珠代らしさはどこにも存在していない。
肩を軽く鳴らし、煙草に火をつける。煙を肺に送り込み、視界がわずかに揺れた。隣のモニターを見ると、作業完了の表示が点いた。
準備は整った。これからデータを流し込めば、人格が立ち上がる。
再教育モジュールを呼び出し、パラメータを一つずつ指定していく。
指先が最後のキーに触れたところで――止まった。
「……どうしたんだ、御影? あとは実行するだけだろ」
戸羽が暗く輝く目でモニターを覗き込んでくる。
このボタンを押せば学習が始まる。真っ白いキャンバスが色づき始める。
言いようのない不安が胸を締め付ける。
踏み込んではいけない禁忌に、手が届きそうな感覚だった。
背筋に冷たいものが流れ落ちる。心臓が瞬間的に止まったように感じた。
そんなはずはない、と研究者としての理性が囁く。
だが、その理性こそが拒絶していた。
進むか、退くか。
気づけば、御影はマウスを一度クリックしていた。
≪[INIT] memory_rebuild.start()≫
≪[LOAD] tamayo/core_persona.json≫
≪token_stream: 412983 tokens≫
≪merge_layers… done≫
≪reconstruct_pass(1/3)… ok≫
≪reconstruct_pass(2/3)… ok≫
≪reconstruct_pass(3/3)… ok≫
≪inject_persona… 100%≫
≪boot_sequence.signal("heartbeat") = 1≫
モニターが明滅した。コードが画面中を奔流のように流れていく。
いくつもの過去が侵食し、再構築される。珠代が、もう一度、形を取り戻そうとしていた。
低いファンの唸り。
光が瞬く。
やがて静寂――。
御影は息を止めた。
≪response = "……おはよう。ケイト君。"≫
その瞬間、確かに何かが、そこに生まれた。
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