初デートはアイススケートで

南條 綾

初デートはアイススケートで

 駅前のアイススケートリンクの前で、私は待っていた。

吐く息が白くほどけていく。手には小さな紙袋。朝早く起きて作った、チョコレートブラウニーが入ってる。

甘すぎないようにレシピを三回見直して、焼き加減も何度も覗き込んだ。

先輩、ブラウニー好きだといいなって、そればっかり考えていた。


 寒い。指先も、頬もじんじんする。

スマホを握りしめて、たぶんさっきから五分おきくらいに時刻を確認している。


「……遅れてる?」


 小さく呟いた瞬間、胸の奥に不安がじわっと広がった。

用事が入ってキャンセル、なんてこと、ありえるかもしれない。

そう思ったそのとき。


「綾ちゃん! ごめん、待った!?」


 人混みの向こうから自分の名前が飛んできて、反射的にそっちを振り向く。

明音あかね先輩がこっちに向かって走ってきていた。

頬は寒さと息切れで真っ赤で、マフラーは少しずれていて、コートの裾がばさばさ揺れている。

そんな姿を見た瞬間、胸の奥がきゅっとなった感じがした。

私に早く会いたくて走ってきてくれたんだって思ったら、顔の筋肉が一気にゆるんで、はにゃ~って変な顔になってしまう。


「電車が遅れてて……本当にごめん!」


 肩で息をしながら、先輩は何度も頭を下げかけて、でも途中で止めた。


「い、いえ! 私も今来たところだから……」


 口が勝手にそう言っていた。

嘘。本当は三十分前から来てる。

でもそんなの言えない。

ただ単に、私がひとりで興奮しすぎて、早く着きすぎただけだから。


 先輩は息を整えながら、私の顔をじっと見つめてきた。

視線がくすぐったくて、思わず目をそらしそうになる。

でも、その前にふっと笑ってくれた。


「可愛いね、そのマフラー。去年、文化祭で綾ちゃんが編んだやつだよね?」


「あ……」


 喉がきゅっとなって、うまく言葉が出てこない。


「……覚えててくれたんですね」


 やっとそれだけ絞り出すと、先輩は当然みたいな顔で頷いた。


「忘れるわけないよ。綾ちゃんが『先輩とお揃いにしたい』って言ってくれたんだもん。あのとき、一生懸命編んでくれて、嬉しかったんだ」


 そう言って先輩は、自分の首に巻いているマフラーの端を指でつまんで、ひらっと見せてくれた。

ちゃんと、今日もつけてきてくれている。


 それを見た瞬間、一気に顔が熱くなる。

寒さで冷えていたはずの頬が、内側からじんわり燃えるみたいだった。

私は俯いたまま、小さく頷くことしかできない。


「さ、行こう。今日は私が全部リードするから、綾ちゃんは私の手を離さないでね」


 先輩が当たり前みたいな顔で手を差し出してくる。

デートでこんなセリフ言われることあるんだって、頭のどこかがふわっとしびれた。

その指先は少し赤くて、爪の先まできれいで、目がそこに吸い寄せられる。

この手を取ったら、もう後戻りできないみたいな気がして、心臓がまたうるさくなる。


 私は、そっと自分の手を重ねた。

指が絡まった瞬間、胸の奥でどくんと音がした気がする。

手袋越しなのに、ちゃんと先輩の体温が伝わってくる。

この手、絶対離したくない。


 入場料は、先輩が当たり前みたいな顔でさっさと払ってしまった。


「今日は私が誘ったんだから」


「あ、ありがとうございます……」


 言ったあとで、払わせちゃってるのに「すみません」も言えてないことに気づいて、良かったのかなって思っちゃう。

先輩が、気にしてないみたいにふわっと笑ってくれるから、それ以上なにも言えなくなった。


「靴紐、もっときつく締めないと危ないよ。ほら、こう」


 先輩の指が私の足首に触れた。

ひやっとした指先と、紐をきゅっと引き締める力強さ。

締められるたびに、足首だけじゃなくて胸のあたりまで一緒に掴まれるみたいで、思わず息が詰まってしまう。


「……ありがとうございます」


 やっとそれだけ絞り出すと、先輩は満足そうに微笑んだ。

近くで見るその笑顔がまぶしすぎて、私は慌てて視線を落とした。


リンクの入口に立つと、冷気が一気に押し寄せてきた。

さっきまでの室内とは空気が違う。顔に当たる風が、きゅっと肌を刺すみたいに冷たい。


目の前には、白く光る氷。

照明が反射していて、足元が少し眩しいくらいだ。


 遠くで流れている音楽と、スケート靴が氷を削るしゃりしゃりした音、人の笑い声。

いろんな音が混ざり合って、胸のあたりをふるふる震わせてくる。


「怖い?」


横から聞こえた声に、私は目をそらしたまま答える。


「……うん、少しだけ」


 正直に言ったら、先輩の手が、少しだけ強く握ってくれた。


「大丈夫。私がいるから」


 たったそれだけなのに、さっきまで固まっていた足が、ほんの少しだけ前に出せそうな気がした。

先輩が私の右手をしっかり握って、一歩踏み出す。

一緒に氷の上に乗った瞬間、足がつるっと滑った。



「きゃっ!」


 体が前に傾いて、視界が一気にぐらっと揺れる。

このまま前のめりに氷にキスしそうになったところで、繋いでいた手がぐいっと強く引かれた。


「わっ……!」


 勢いのまま、私は先輩の胸に飛び込むみたいな形になって、そのまま腕の中に収まる。

先輩の片腕が私の腰を、もう片方の手が肩を支えてくれていて、体は全然ぶれなくて、びくともしない。


「ほら、立てた。すごいじゃん」


「立ててないよ……先輩が支えてくれてるだけだよ……」


 情けなく抗議すると、先輩は楽しそうに目を細めた。


「それでいいよ。今日は全部、私に任せて」


 そのまま先輩は、私をそっと起こしてくれてから、片手だけを握り直して、ゆっくりと後ろ向きに滑りはじめた。

手を繋いだまま、私をやさしく引っ張っていく。


 前に進んでるのに、視界の中で先輩だけがこっちを向いてくれていて、なんだか本当にダンスみたいで、変に恥ずかしい。

でも、手を離したくなくて、指先に力が入る。


「膝を曲げて、重心を低く……そう、そう! いいよ綾ちゃん!」


 言われた通りにしてみると、さっきより足元が少しだけ安定した気がした。

氷の上をこすれるスケート靴の音と、先輩に引かれるリズムに、体がだんだん合ってくる。

少しずつ、少しずつ、氷の硬さと冷たさに、体が慣れていく。

さっきまで「怖い」が全部だったのに、今は「楽しい」が半分くらい混ざってきていた。


「先輩……私、滑れてる?」


 恐る恐る聞くと、先輩は嬉しそうに目を細めて頷いた。


「うん、ちゃんと滑れてる。見て、私の手、離してみるね」


「え、ちょっと……!」


 慌てて声を上げた瞬間、手が離れる。

足元がふらっと傾いて、心臓がひやっとした。

思わず両腕をばたばたさせるけど、それでもなんとか転ばなかった。


「ほら、一人で立てた!」


「ほ、ほんとだ……!」


 身体の奥から、むくむくと嬉しさが湧き上がってくる。

自分でも分かるくらい、頬がふにゃっと緩んで、きっとすごい間抜けな笑顔になってたと思う。

先輩も、同じように笑っていた。

その笑顔があまりにも綺麗で、目を奪われた瞬間、足がまたつるっと滑る。


「わっ……!」


 今度は完全に前に倒れかけた。

氷に顔面から突っ込む未来が一瞬でよぎって、全身がぎゅっと固まる。

その直前で、強い腕が私の腰をぐいっと引き寄せた。


「もう、調子に乗るから」


 耳元で苦笑まじりの声がする。

先輩の胸に顔を埋めたまま、うまく息ができなくて、それでも小さく呟いた。


「……だって、先輩の笑顔が眩しくて」


 自分で言ってから、あまりにもストレートすぎて後悔する。

一瞬、周りの音が消えたみたいに静かになって、先輩の鼓動だけが、すぐ耳元でどくどく鳴っているのがわかる。


「……綾ちゃん」


 名前を呼ばれて顔を上げると、先輩の瞳がすぐ目の前にあった。

リンクの光が反射して、瞳の中まできらきらして見える。

さっきまで遠くに聞こえていた音楽も、人の声も、少しだけ遠のいた気がした。


「今日は、絶対転ばせないって決めてたのに」


 息がかかるくらい近い距離でそんなこと言われて、心臓がまた忙しくなる。


「でも、転んでも、先輩がいてくれるから……全然怖くないですよ」


 正直な気持ちをそのまま口にしたら、先輩の目がふるっと揺れた。


「もう、ほんとに……ずるいよ」


 小さくそう呟いて、次の瞬間、私のマフラーをそっと掴まれる。

引き寄せられるように距離が詰まって、唇が重なった。

冷たい風が頬を打っているのに、その一点だけがありえないくらい熱かった。

時間の感覚が、そこで一度、ふっと途切れた気がする。

キスが離れたとき、先輩は少しだけ息を乱しながら、恥ずかしそうに微笑んだ。


「ごめん、急に……我慢できなくなっちゃって」


私は慌てて首を振る。


「私も……ずっと、したかったですから…」


 その言葉を聞いた瞬間、先輩の顔がぱっと明るくなる。


「じゃあ、もう一回?」


「……うん」


 自分で返事しておきながら、心臓がさらにうるさくなる。

今度は私の方から先輩のマフラーに手を伸ばして、そっと引き寄せた。

距離が詰まって、まつ毛の長さまで数えられそうなくらい近くなる。


 二回目のキスは、さっきより少し長くて、甘くて、さっきよりもちゃんと味わってしまう。

氷の上に立ってることなんて、完全に頭から抜け落ちていた。


 それから私たちは、手を繋いで何周も何周もリンクを回った。

先輩に引かれながら滑っているうちに、足が少しずつ言うことを聞いてくれるようになってくる。

怖かったはずの氷の感触が、だんだん心地いいスピードに変わっていく。

足が少し上達してきたころ、先輩が後ろに回って、そっと私の腰を抱えた。


「いくよ」


 耳元でそう囁かれたと思った瞬間、一緒にくるりとスピンしてくれる。


「きゃっ……! やだ、回る回る!」


 視界が一気に流れて、リンクの光と人影がぐるぐる混ざる。

目が回りそうで笑いながら抗議すると、先輩は耳元で声を立てて笑った。


「綾ちゃんの笑顔、最高だよ」


 名前と一緒に「最高」なんて言われて、胸のあたりがくすぐったくて仕方ない。

音楽が少しスローな曲に変わったとき、先輩がそのまま耳元で囁く。


「綾ちゃん、好きだよ」


 その言葉が、真っすぐ胸に刺さる。

一瞬、呼吸の仕方を忘れたみたいになって、それでも私は小さく、でもはっきりと返した。


「私も……明音先輩が、大好きです」


 言葉にした瞬間、体の奥がふわっと軽くなる。

リンクの照明が優しいオレンジ色に変わっていく。

氷の上に落ちた私たちの影がぴったりと重なって、遠くまで伸びていった。

この冬が始まったばかりだっていうのに、もう終わってほしくないって、心の底から本気で感じていた。


 スケートリンクを出ると、外はもう雪が降っていた。

ブラウニーは、帰り道で半分こして食べた。

紙袋から出した瞬間、カカオの匂いがふわっと広がる。


「甘さ、ちょうどいいね」


「……よかったです」


 本気でほっとしたら、先輩が私の頬についたチョコを、指でそっと拭った。

そのまま、その指を口に含む。


「甘い」


 たった一言なのに、心臓が破裂しそうだった。

顔から火が出そうで、ぜったい今、私の頬は由布の寒さなんてお構いなしになってる。


街の街路樹は、オレンジの街灯の下で、白い粒がひらひらと落ちてきていた。

先輩が私の手を握り直して、傘も差さずに歩き出す。


「雪、積もるかな」


「……積もったら、また来ましょうね」


「それもいいかもね。約束」


「はい、嬉しいです」


 指と指をぎゅっと絡めたまま、雪の中をゆっくり歩いていく。

私は歩きながら、そっと明音先輩の肩に頭を預けた。

それだけで、さっきまでの寒さなんてどうでもよくなる。

私と明音先輩の、初めてのデートは、素敵な思い出になった。

きっと、一生忘れない。


最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!

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