第2話 ナラティブ庁オリエンテーション
「それでは、配属先をご案内しますね」
中性的な職員はそう言うと、くるりと踵を返した。俺は半歩遅れてついていく。
廊下はやけに静かだった。足音だけが、カーペットに吸い込まれていく。壁際には壁掛け時計がいくつも並んでいるが、どれも違う時刻を指している。アナログもあればデジタルもあり、砂時計みたいなものまで混ざっている。
「……ここ、何時なんですか?」
「全時刻です。あるいは、まだどの時刻でもない、とも」
職員はさらっと、哲学者みたいなことを言う。
ああ、ダメだ。この職場、まともな時間感覚を期待してはいけない。
しばらく歩くと、ガラス扉の前に出た。磨りガラスには、落ち着いたフォントでこう刻まれている。
『ナラティブ庁 物語監査局 勇者物語監査第一課』
――今の会社の部署名もわりと長いと思っていたけど、世の中には上には上があるらしい。
「こちらが、神崎さんの配属先です」
職員が扉を開ける。中は、普通のオフィスとそう変わらない……と言いたいところだが、よく見るといろいろとおかしい。
仕切りの低いデスクが並び、社員らしき人々がパソコン……ではなく、薄いタブレットを操作している。そこまでは理解できる。問題は、そのタブレットの画面で、剣と魔法とドラゴンが普通に暴れ回っていることだ。
「……ゲーム会社?」
思わず本音が漏れた。
「物語会社ですね」
職員は訂正するでもなく、ただ笑うだけだ。
デスクの上には、ホログラムで立体的なフローチャートが浮かんでいる。勇者らしき人物が線の上を進み、途中で『幼馴染死亡』『師匠裏切り』『村焼き』といった、物騒な文字がポップアップしては消えていく。
ここまで見せつけられると、さすがの俺の現実感も危うい。
「――お、新人くん?」
不意に声が飛んできた。
視線を向けると、奥のデスクから、スーツ姿の女の人がひょいと立ち上がる。肩までの黒髪をラフに束ね、片手にはタブレット、もう片手にはマグカップ。ネクタイはゆるく、シャツの第一ボタンは外れている。妙にこなれた『終電と戦ってきた人』の風格だ。
「雨宮上席監査官です」
さっきの職員が紹介する。
雨宮と呼ばれたその人は、近づいてきて俺の前で足を止めると、じっと顔を眺めてから口角を上げた。
「神崎悠斗くん、だね。ナラティブ庁へようこそ。うちの部署の新しい“モブ”だ」
「モブ?」
「主役ほど派手じゃないけど、いないと話が回らない人材、って意味で褒め言葉のつもりなんだけど、気に障った?」
「いえ……新人監査スタッフ歴二年なんで、モブには慣れてます」
条件反射でそう返すと、雨宮は「いいね」と笑った。
「自覚のあるモブは伸びるよ。じゃ、座ろっか。オリエンやらないとね」
◇ ◇ ◇
案内された席は、窓際のデスクだった。上には、さっき見たのと同じタブレットと、数枚の紙が山になっている。紙には、役職名やら福利厚生やらが並んでいるが、さっきの職員に言われた通り、いったん後回しだ。
まずは、目の前の現実の方を処理しなければならない。
「えーと、神崎くん」
雨宮が俺の斜め前の席に腰を下ろし、椅子をぐるりと回してこちらを向いた。
「ここが何かは、なんとなくはわかる?」
「ナラティブ庁、ですよね。さっき、そう聞きました」
「そう。正式名称は多元物語行政機構ナラティブ庁。その中の、物語監査局、そのまた中の勇者物語監査第一課。まあ、うちのことは『勇者1課』って呼んでくれればいいよ」
勇者1課。仮面ライダーの組織名みたいだ。
「ナラティブっていうのは、『物語』だよね。ここは、その物語を管理・運行してるところ。で、私たちの仕事は、その物語を『監査』すること」
「……監査」
聞き慣れた単語が出てきて、少しだけ安心する。
ただし、会計監査とはどう見ても文脈が違う。
「数字じゃなくて、物語を監査するんですか」
「そう。君たちの世界でやってるみたいな、『数字が合ってるか』だけを見る監査も大事なんだけどさ。物語の場合は、もうちょっと別のものを見なきゃいけない」
雨宮はタブレットを指先でなぞる。空中に、いくつもの折れ線グラフが浮かび上がった。
「たとえば、これ。RSI。Reader Satisfaction Index、読者満足度指数ね」
「読者……」
「うん。この世界線の向こうで、誰かがこの勇者物語を読んでる。あるいは視聴してる。ゲームで追体験してるかもしれない。形はいろいろだけど、とにかく“消費してる側”がいるわけ」
折れ線グラフは、山あり谷ありでうねっている。大きく盛り上がっている部分には、『村焼き』『幼馴染死亡』『師匠覚醒』みたいなイベント名がラベルとして付いていた。
「で、ここが物語の“おいしいところ”。感情が一番揺れてるポイントだね。読者はこの起伏を求めてる。ここが真っ平らだと、『つまらない』って離脱しちゃう」
「……まあ、それはそうかもしれませんけど」
俺は眉をひそめる。
「だからといって、村を焼いたり幼馴染を殺したりしないといけないんですか」
「しないといけない、とは言わないけど。してきたからこそ、ウケてきた面もある。テンプレってそういうものでしょ? 読者に『あ、ここでこう来るやつだ』って予感させて、ちゃんと裏切らない。安心して盛り上がってもらうための仕組み」
雨宮はあくまで事務的な口調だが、そこには悪意も善意も混じっていない。ただのプロの温度だ。
「でさ。テンプレが行きすぎると、どうなると思う?」
「……陳腐化、ですかね」
「正解。もしくは、飽き」
雨宮は指を二本立ててみせる。
「行きすぎた悲劇、行きすぎたご都合主義。どっちも読者はある程度まで楽しんでくれるけど、一定ラインを超えると『なんだこれ』って投げる。あるいは、怒って苦情を出してくる」
「苦情」
「うん。ナラティブ庁苦情対応室って部署があってね。読者、登場人物、神様あたりから日々クレームが飛んでくる」
さらっと恐ろしいことを言った。
「登場人物からも、来るんですか」
「くるくる。夢枕とか、祈りとか、いろんな形でね。システム的には全部ログに変換されるけど」
雨宮は肩をすくめた。
「で、私たち監査課は、その苦情の一部を『確かにこれはやりすぎたな』って認定して、今後同じラインを流すときに是正をかける。もしくは、事前にログを見て『これは燃えるぞ』って案件を潰す。そういう仕事」
「……会計監査より、よっぽど人の感情が絡みそうですね」
「絡むよ。だから君みたいなタイプが呼ばれたんだと思う。数字が合っててもモヤモヤして寝つきが悪くなる人材」
図星を刺されて、言葉に詰まる。
ここに来てから、俺はまだ一言も『数字』のことを話していない。それなのに、どうしてそんなことがわかるのか。
「面接も何もしてないんですけど」
「スカウトだからね。求職者の志望動機とか聞いてる余裕ないのよ、うち」
雨宮はおどけたように言ってから、真顔に戻った。
「――で、本題」
彼女は新しいウィンドウを開いた。
「君には、ひとつの勇者物語ラインを担当してもらう。さっき机の上で見たでしょ、『第2781勇者物語ライン』」
「あの文字列だけ見ました」
「それ。勇者物語のテンプレパターンのひとつ。舞台は君の世界で言うところの中世風ファンタジー、アルシオン王国。主人公は鍛冶屋見習いの少年、リアム・グランツ。幼馴染ヒロインはミナ・ホルン」
画面に、簡単なプロフィールが箇条書きで表示される。
「で、このラインの序盤をざっくり言うと――」
雨宮は指先でログをスクロールしながら、淡々と読み上げる。
「村で平和に暮らすリアムとミナ。そこに魔物の大群が襲来。村が焼かれ、ミナは死亡。リアムは絶望の底から立ち上がり、勇者として旅立つ」
その説明自体は、嫌になるほどよくある筋書きだ。
だからこそ、俺の胃がきゅっと縮む。
「……死亡、確定なんですか」
「今のところはね」
雨宮はあっさり頷く。
「この『死亡』の部分が、君の初仕事。つまり、ここに『赤ペン』を入れるかどうか。入れるなら、どこまでなら許されるか。登場人物の人権と、物語の都合と、読者の快楽のバランスを見ながら調整していく」
「そんな……いきなり重すぎません?」
「最初から軽い案件渡されても、ピンとこないでしょ?」
軽口を叩きながらも、雨宮の目は笑っていなかった。
「数字を見て判断するのは得意なんでしょ? じゃあ、まずはログと指標を見て、この『幼馴染死亡ルート』が妥当かどうか、自分の頭で考えてみて」
タブレットが俺の前に滑らせられる。
画面には、無数の線と数字と文字。『死亡』という二文字だけが、やけに黒々と目に刺さる。
「……一つ、確認してもいいですか」
「どうぞ」
「この勇者物語ラインの『読者満足度』、今の時点でどれくらいなんですか」
「ん?」
雨宮は別のウィンドウを開き、指標一覧を表示した。
「現時点でのシミュレーション値は――RSI、七二点」
「七二」
「かなり高い方。幼馴染死亡ルートは、総じて安定してウケるんだよね。手堅い。泣かせて燃やして、はい出発、っていう」
あまりにも事務的な口調だった。
俺はしばらく、その数字を見つめる。
七二点。学校のテストなら、合格点だ。監査報告書のレビューなら、「まあこんなものか」で流されるラインだ。
だけど、その七二点の裏には、『一人死ぬ』という事実がある。
数字のきれいさと、誰か一人の死に様の汚さ。その両方を見てしまったとき、監査官はどちらを選ぶべきなのか。
「――神崎くん」
雨宮が、少しだけ柔らかい声で呼びかける。
「ここでの正解は、ひとつじゃない。正解に見える選択肢は、いくつもある。それぞれに、救われる人と救われない人がいる」
彼女は自分のマグカップを一口飲んだ。コーヒーの香りがかすかに漂う。
「そのうえで、どの『不完全な選択』に、自分の名前をサインするか。監査って、そういう仕事だよ」
それは、前の世界でも、何度か胸の中で聞いた言葉だった。
数字は正しい。基準も満たしている。じゃあ、誰かが泣いても仕方ないのか。
答えはまだ出ていない。
少なくとも、俺は、まだ納得できていない。
「……わかりました」
タブレットを握り直す。手のひらが少し汗ばむ。
「まずは、ログを全部見せてください。どこからどこまでが、テンプレで決まっていて、どこが変えられるのか。それを知らないと、監査のしようがないので」
「いいね」
雨宮は満足そうに頷いた。
「じゃ、オリエンの続きは現場でやろっか」
「現場?」
「ログだけ見てると、どうしても数字に寄るからさ。実際に世界に降りて、リアムとミナの顔を見てきなよ。モブ兼監査官として」
そう言って、彼女はニヤリと笑った。
「アルシオン王国・某田舎村行き、片道切符。準備はいい?」
答えは、まだ喉の奥で固まっていた。
それでも、俺はうなずく。
画面の中の『死亡』という二文字が、じっとこちらを見ている。
その字面に、監査の赤ペンを入れられるのは――どうやら、俺の役目らしい。
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