モブ監査官は異世界テンプレを是正したい

@zeppelin006

第一章 幼馴染死亡ルート監査編 ― 第2781勇者物語ライン

第1話 過労とポップアップ

 残業時間の計算は、なるべくしないようにしている。


 数字にすると、現実味が出すぎるからだ。


 今も、都心の高層ビルの一角。照明を半分落としたフロアで、パソコンの画面だけが白く浮かんでいる。時計を見るのはやめておく。見たところで定時には戻れないし、監査法人の新人という身分に『勤務時間という概念』はあまり認められていない。


 モニターには、貸借対照表と損益計算書、それに監査調書のエクセルが並んでいる。さっきから同じ数字を何度も見直しているのに、脳みその方がそろそろエラーを吐きそうだ。


「……一致、してるよな」


 口に出して確認してみる。


 利益の着地、キャッシュフロー、在庫の増減。数字だけ見れば、このクライアントの決算は『きれい』だ。会計基準的にも問題なし。グレーゾーンに足を突っ込んでいる感じもない。


 ――ただし、この決算が承認された瞬間、地方の工場が一つ閉鎖される。


 先週、現場視察に行ったとき、現地の工場長がぽろりと漏らした話だ。人件費が重い。設備更新の余力もない。経営陣はすでに撤退を決めている。だからこそ、今期の決算は『きれいに』見せて、株主と銀行にいい顔をしておきたい。


 数字は合っている。基準も満たしている。


 でも、それで――本当に『正しい』と言えるのか。


「……はぁ」


 ため息をついて、マグカップの冷め切ったコーヒーを一口飲む。苦いというより、ただの黒い液体だ。


 新人監査スタッフ・神崎悠斗、二十五歳。論理と数字が大好きで、真面目に働くことに何の疑問も持っていなかったはずの男は、ここ最近ずっと、こういう妙な引っかかりと一緒に仕事をしている。


 数字が合っていても、人が死んだら意味がない。


 そんなことを考える新人監査なんて、正直、面倒くさいだけだろう。


 それでも、考えてしまう。


 だから今日も、深夜のオフィスでエクセルとにらめっこしながら、決算書の向こうにある誰かの生活を勝手に想像しては、勝手に胃を痛くしている。


◇ ◇ ◇


「おーい、神崎。まだ生きてるか?」


 背後から声がして、椅子の背もたれが軽く揺れた。振り向くと、同じチームの先輩がコンビニ袋をぶら下げて立っている。


「カップ麺買ってきたけど、いるか?」


「ありがとうございます。でも、さすがにもう入らないです」


「若いのに。俺なんか、これが夕飯だぞ」


 先輩は冗談めかして笑って、自分の席に戻っていく。その背中を見送りながら、俺はまた画面に視線を戻した。


 エクセルのセルが、じわじわと乱視みたいに滲んでいく。さすがに限界が近い。とはいえ、明日の朝イチの資料はまだ途中だ。今ここで帰るという選択肢は、現実的じゃない。


「……もうちょいだけやって、区切りついたら仮眠室行くか」


 そうつぶやいて、キーボードに手を伸ばした、そのときだった。


 画面の右下に、見慣れないポップアップがふっと現れた。


『ナラティブ庁 物語監査官補 採用のお知らせ』


「……は?」


 一瞬、ウイルスか何かかと思った。けれど、会社のパソコンにそんな派手な広告が出るはずもない。情報セキュリティ部門が血相を変えて飛んでくるレベルだ。


 ポップアップには、もっと細かい文字が並んでいる。


『あなたの監査経験と倫理観は、多元物語行政において有用と判断されました』


『応募締切:このウィンドウを閉じるまで』


『応募するには、下のボタンをクリックしてください』


「……いやいやいや」


 俺は思わず画面にツッコんだ。


 どこの悪質なスカウトメールだ。うちの会社、ついにフィッシング詐欺まで侵入されるようになったのか。情報システム部は何をしているんだ。


 ――多元物語行政?


 ――ナラティブ庁?


 読んでるだけで頭が痛くなる単語が並んでいる。たぶん、疲れすぎて幻覚を見ているんだろう。そういうことにしておきたい。


「……帰りたいな」


 ため息混じりにそんな本音が漏れる。


 このままこの仕事を十年続けて、俺は何者になるんだろう。昇進して、もう少し楽にはなるかもしれない。でも、決算書の向こうで誰かが職を失う現実は変わらない。


 数字上は『正しい』。でも、自分の中では何かがずっとズレている。


 その違和感を抱えたまま、この世界線を歩き続けるのか。


 ――そのとき、ポップアップの文字が、ほんのわずかに変わったように見えた。


『あなたは今、現在の世界線に満足していますか?』


「……タイミング良すぎだろ」


 思わず苦笑いがこぼれる。


 ここまでくると、もはや呪いの類だ。俺の脳内に住み着いた何かが、自分で自分に質問してきているような感覚さえある。


 どうせ幻覚なら、少しくらい付き合ってやってもいい。


「満足、ねぇ」


 声に出して呟いてみる。


 高校までは、物理だの数学だのが好きで、問題を解いていればそれでよかった。大学、大学院と進んで、気づけば『理屈で世界を説明する側』に回ったつもりでいた。


 でも実際に社会に出てみれば、『説明』には限界がある。数字はきれい。でも、その裏で切り捨てられていく何かは、きれいには片付かない。


 満足しているか、と聞かれれば――。


「してないんだろうな、多分」


 自分の口から出たその言葉に、自分で少し驚いた。


 黙ってれば、何となく日々は過ぎていく。気づいたときには『まあこんなものか』と折り合いをつけているはずだ。そういう未来も、十分ありえた。


 けれど、どこかで『このままでいいのか』と首を傾げ続けている自分も、確かにいる。


 ポップアップの下の方に、丸いボタンがひとつ表示されていた。


『応募する』


 白いボタンに、ささやかなシャドウ。クリックを待っているデザイン。


「……いやいや」


 常識的に考えれば、押す理由なんてない。これを押したところで、人事評価が上がるわけでも、残業が減るわけでもない。むしろ、何かのマルウェアに感染して情報システム部に怒られるリスクの方が高い。


 けれど、指先は、なぜか止まらなかった。


 こんなふうに『世界線』だの『ナラティブ』だのと書かれたポップアップを見てしまったのが、そもそもの運の尽きだ。物語としての構図が、あまりにも綺麗すぎる。


 ブラック寄りの深夜残業中、新人監査マンの前に現れる謎のスカウト。


 「今の世界線に満足していますか?」という、安っぽいけど刺さるコピー。


 ここでクリックしない主人公なんて、正直、読者的にもどうかと思う。


「……はぁ。知らないからな」


 自嘲気味に笑って、俺はマウスを握り直した。


 ポインタをボタンの上に滑らせる。カチリ、といつものクリック音が指先に伝わった。


 その瞬間、画面がノイズに飲み込まれた。


◇ ◇ ◇


 白と黒の線が、荒いテレビの砂嵐みたいに走り回る。モニターだけじゃない。フロアの蛍光灯も、窓の外の夜景も、すべてがノイズに変わっていく。


「ちょ、待っ――」


 立ち上がろうとした瞬間、床が消えた。


 胃が浮くような感覚。ジェットコースターの一番上から、レールのない方向に落ちていくときの、あのどうしようもない無力感。


 耳鳴りだけがやけに鮮明に響いている。


 落ちているのか、昇っているのかもわからない。上下左右の感覚が全部壊れて、ただ、無数の線が頭の中を駆け抜けていく。


 数直線。時系列。フロー図。世界線。


 それらがひとつに束ねられ、またバラバラになり、俺の意識をかき混ぜていく。


 どれくらいそうしていたのか、時間の感覚は完全に死んでいた。


 やがて、不意に、足元に『床』の感触が戻ってくる。


 重力が戻り、膝が少し笑う。ゆっくりと目を開けると、そこは見慣れたオフィスではなかった。


 高い天井。白い壁。書棚とデスクが整然と並ぶ、落ち着いた雰囲気のフロア。窓の外には、夜景の代わりに、光の線が幾重にも走っている。


 都会の高速道路でも、星空でもない。もっと抽象的な、純粋な『線』の束だ。


 その真ん中で、俺はひとつの机の前に立っていた。


「――採用手続き、完了です。神崎悠斗さん」


 背後から、よく通る女性の声がした。


 振り返ると、薄いグレーのスーツを着た人物が立っている。性別を一言で言い表しづらい中性的な雰囲気。整った顔立ちに、事務的な笑み。


「ようこそ、ナラティブ庁へ」


 その人は、当たり前のようにそう言った。


「本日付で、あなたは物語監査官補に任命されました」


 頭が追いつかない。


 さっきまで決算書と格闘していたはずの俺は、気づけば『物語』と書かれた世界のど真ん中に立っている。


 さすがにひとつだけ、言えることがある。


「……これ、有給、つきます?」


 口から出たのは、そんな言葉だった。


 中性的な職員は、きょとんとしたあと、すこしだけ楽しそうに笑った。


「そのあたりの待遇につきましては、のちほど上席監査官からご説明があるかと。まずは、配属先のご案内を」


 俺の新しい机の上には、すでに一台のタブレットが置かれている。


 画面には、無数の線が絡み合ったような図と、ひとつの文字列が表示されていた。


『第2781勇者物語ライン』


 このときの俺はまだ知らなかった。


 この画面の向こうで、『幼馴染ヒロイン死亡ルート』という、あまりにもテンプレな悲劇が待ち構えていることを。


 そして、それを『監査』して是正するのが、自分の新しい仕事だということも。

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