四十三本目:私を抱きしめてくれるのか
──漆黒の道着に着替える。刀哉との最後の試合の時も、僕はこの道着を着ていた。八咲が道着を着て来いと言うからには、それ相応の意味があるのだ。
孤独に病と闘い続けた八咲を理解し、彼女を孤独から解放する。
覚悟を決めた八咲に、死ぬなとは言えない。助けてやるとも言えない。
ただ、孤独のまま死なせたくない。
君は独りではないのだと、それを伝えなければならない。
上着を羽織り、竹刀袋を持つ。中には験の良い、試合用の竹刀が一振り。足袋に足を通す。学生なら本来靴なのだろうが、恰好が様にならないのでやめておく。外でも履けるように改良された足袋だ。室内ではもちろん脱ぐ。
玄関に腰を下ろし、外出用の足袋を履いていると、後ろで床が軋む音がした。振り返らない。その人の貌を見てしまったら、泣き崩れてしまいそうだから。
「振り返らずに聞きなさい」
その人は僕の後ろから言葉を投げかける。僕は足袋を履きながら聞く。
「私はあなたを、弟子として心の底から大切に想っています」
そんなことは知っている。とっくの昔から知っている。
この人ほど僕を理解してくれている人はいない。師匠の愛は偉大なのだ。
「あなたはどんな困難にも立ち向かう勇気がある。強さがある。だから私は胸を張って言いましょう。あなたは私の一番弟子だと」
その言葉が、僕の背中を強く押してくれた。
「後悔しない選択などありません。あなたは必ず後悔をするでしょう」
分かってる。とっくに後悔してる。もっと早く、このトラウマを克服するべきだった。もっと早く、刀哉と向き合っていればよかった。もっと早く、八咲のことを理解していればよかった。考えれば後悔しかない。僕はきっとそういう生き物なのだろう。
先生もそれが分かっている。だからこう言うんだ。
「だからせめて、清々しく後悔できるよう、全力でぶつかってきなさい。彼女は必ず、あなたを受け止めてくれるはずだから」
戸に手を掛ける。先生はもう、何も言わなかった。
「ありがとうございます、先生……行ってきます」
「ええ、行ってらっしゃい」
そうして、満月の月影が降り注ぐ中、僕は前に進む。八咲の待つ場所へ。
×××
あの夜、八咲と月を見上げた道場へと辿り着いた。一度、大きく深呼吸をし、道場の石畳に足を踏み入れる。
瞬間、伝わってくる覇気。
刺すような威圧感に肌が粟立つ。
間違いなく彼女はここにいる。
こちらに来い、とまるで案内するかのようだ。
「ああ、行くよ。君を独りにはしない」
覚悟を改めて、僕は道場の戸に手を掛ける。鍵は掛かっていなかった。
道場の入り口を開けて、靴箱らしきものが現れる。足袋を脱ぐ。
そして気づく。同じように小さな足袋がそこにあるのを。
ギシ、と僅かに床板が軋んだ。あの夜は庭から縁側に腰を掛けただけだったから分からなかったが、やはり古いのだろう。足で触った感じ、建てられてから五十年は経過しているか。
「やぁ、デートの誘いに応じてくれて嬉しいよ達桐。今夜も……良い夜だな」
道場へはまだ扉が一枚ある。だが、八咲は先ほどの軋みで、僕が今にも戸を開けようとしているのが予感できたようだ。
「ああ。本当に、良い夜だな。二人で逢うにはもってこいだ」
言葉を返し、戸を開け放つ。
視界に飛び込んできたのは、道場の四隅に置かれた蝋燭らしき明かり。外からも見て分かっていたが、道場自体はさほど大きくはない。ちょうど、剣道の試合場が一つと、僅かな控え場所、と言ったところだ。
足元に白線が貼られている。試合場と同じ大きさだとすぐに分かるが、テープではないことに気づいた。ペンキだ。道場に直接描かれている。
この道場は、剣道をするためだけの道場なのだ。蝋燭の明かりが照らす中、八咲 沙耶は正座で僕を待っていた。彼女の背後には、神棚と木刀が飾られている。
立派な道場だ。かなり古いが、歴史の重厚さと荘厳さが滲み出ている。
中心にいる彼女の姿は純白の道着と袴──まるで死に装束だ。
しかし、悍ましさを感じるほどの病的な白さに、思わず見惚れてしまった。
嗚呼、なんて美しい。
「来てくれてありがとう。どうしても……最期は此処が良かったんだ」
そう言う彼女は、うっすらと笑顔を浮かべる。
しかし、その笑顔すらも命を削っているのだと考えると、胸が痛む。
「別に構わないさ。っていうか僕も、君とデートするならやっぱり遊園地とかよりも、あの夜みたいな感じとか、こういう感じの方がしっくりくるし、よっぽど楽だよ」
「ふふ、そうかそうか。それは本当に嬉しいぞ」
鈴を転がしたように笑う。
その笑顔は、今まで見てきた八咲の笑顔そのままだった。
きっと、八咲は、ずっとこうやって笑ってきたんだろう。
苦しみを堪えて、辛さを押し殺して、痛みを我慢して。
八咲の笑顔は、綺麗だ。
だが、綺麗すぎるのだ。
まるで作り物じみていて、不気味なほどに。
今この瞬間も、八咲はいつ心臓が止まってもおかしくないのだ。その中で笑顔を浮かべることが、どれほど精神力を要求されることなのか──。
「……私はもうじき死ぬ」
八咲が唐突に口を開いた。死という単語を聞いた瞬間、心臓がどくりと跳ねた。
どこからか風が入っているのか、蝋燭の灯が僅かに揺れて、彼女の顔の影を弄ぶ。
「決定的なことを言われた時から、好きに生きると決めた。桜先生とも医者とも相当揉めたよ。私のことを慮ってくれていたというのは伝わっていた。しかし、私のしたいようにして、私の望む最期を迎えようと決めていた。だから譲れなかった」
目を細め、慈しむような表情で僕を見る。これまでの思い出に心を馳せているのだ。
「『夢』のために。君の背を……未来に向けて、押すために」
八咲が爆弾を抱えながらも、医者にも先生にも止められても剣道をやめなかったのは、ひとえに、僕の背を押すため──そこに集約される。
「ここが私の終着点だ。私という剣はここで生まれ、ここで折れる。悔いはないさ」
何故なら、と八咲は言葉を重ねる。
「君や刀哉という、かけがえのない存在にも出会えたから」
その最期の相手が、僕。八咲 沙耶という魂に剣を宿す鞘の指名した相手が、僕。
「君は、まるで昔の私を見ているようだった。病気に対して受け入れることができず、荒んでいた過去の私と。孤独に戦っていた、という点もな」
その独白を聞いてハッとした。そうだ。八咲といえども、最初から今のように悟っていたワケではない。僕と同じように事実を受け入れらず、塞ぎ込んでいた時代があったのか。
「だからかねぇ。挫折から立ち直ろうとしていたという意味では、君と刀哉は同じなのだが、どうしても君が特別可愛く見えてしまった。今更だが、最初は無理に勧誘してすまなかったよ。君はこのままではいけないと強く思っていたからこそ、余計なお世話を──」
「いいんだ。分かってる。謝らないでくれ」
君の心はちゃんと伝わっていたから。
「八咲、僕は君に、してもし足りないほど、感謝している」
光栄だ。男としてこれ以上の喜びはないだろう。
「だから、今この場で何をすべきか、分かってる」
荷物を置く。八咲から目を離さずに竹刀を抜く。
「君は僕を立ち直らせようと、全力でぶつかってくれた」
誰よりも。世界中の誰よりも、優しい人。そんな存在が、独りで消えようとしている。
許してたまるか。そんなことは絶対にさせない。
「ありがとう──八咲」
なら、僕には何ができる? 彼女のために、僕ができることとは?
答えは先生と共に、見つけた。
奇跡を信じて。諦めないで。助かるよ。絶対死なない。
なんて甘露。あまりにも甘すぎて反吐が出る。そんな奇跡を信じることなど、何百万とやってきているはずなのだ。
それでも奇跡は一度たりとも起きやしなかった。起きてくれやしなかった。
故に八咲は覚悟を固めた。なら、その覚悟を穢すような言葉は、絶対に言わない。言ってはいけない。
だから、涙なんて流れるな。絶対に、流すな。
「だから、僕は君の剣になる」
僕よ、剣になれ。
彼女の魂の奥深くに宿る鞘へ還るために。
鞘と剣を一つにするために。
孤独では死なせない。絶対に、死なせない。
八咲には散々カッコ悪いところを見せてきた。今更恥ずかしがるようなことはない。だから思う存分カッコつけてやる。僕を選んでよかったと言わせてやる、絶対に。
淑女の方から誘われたのだ。男ならここで意地を張らずにどこで張るというのか。
だから、やめろ。泣くな。出るな涙。
八咲は泣いていないんだ。なら僕だって泣くな。
その安っぽい同情が、彼女の覚悟を傷つけるって分かってんだろ。
滲む視界。ぼやけて彼女の姿が正しく映らなくなる。
それでも。
「達桐……ああ、達桐、君は」
八咲が目を見開く。まるで宝物を見つけた子どものようにキラキラと輝かせながら。
自分の身を掻くように抱き、顔を伏せる。そして、髪を振り上げるように勢いよく顔を上げた。そこに映っていた表情は、今までで見たことがないほど凄惨な笑顔で。
されど、今まで見た中で、最も美しいと断言できる笑顔だった。
「私を、抱きしめてくれるのか」
私は今、世界で一番幸せだ。そう言って魂の底から歓喜に奮える八咲。
「やはり、君がいい。君を選んでよかった。刀哉は眩しすぎるから。強すぎるから。私と同じように絶望し、魂に翳りがある君だからこそ……」
やがて、八咲は言葉を漏らしながら立ち上がる。そのまま後ろへと歩いて行き、壁に飾られてる木刀へ手を伸ばす。黒檀と白樫の二本。
「私の孤独を、きっと抱きしめてくれると信じている」
嗚呼、と僕は全てを察した。
僕は君に想いを告げた。
されど、君はこういう形でしか、僕の想いに応えることができないんだね。
「剣を執ってはくれまいか、剣誠」
僕に向けて木刀を差し出す八咲。
「勝負をしよう。まさか、断りなどしないよな?」
僕と真剣じみた勝負をすることで、
「最期なんだ。情緒たっぷりに舞おうじゃないか。どうか付き合ってくれ、頼むよ」
僕と魂を交えようとしているんだ。
「……分かった」
それは名誉だ。男として、冥利に尽きることこの上ない。
愛する人からの最高の返事を……全霊で受け止めろ。
「やろう──沙耶。絶対に忘れられない、最高の夜にしてやるよ」
「ああ。君に
満天の夜空の下で、幻想的な月影を浴びながら、最期の逢瀬が始まる。
僕たちにとってはこの月影こそが祝福の光であると、心の底から信じて。
この瞬間、僕は彼女にとっての剣になる。
目の前にいる想い人に、最期にして最高の悦びを与えるために。
その先には、避けられない運命が待っていようと。
今この時だけは、未練も何も残さないように。
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