四十二本目:私に太陽は似合わない【終】
私はかかりつけの医者から、無慈悲に宣告された。
先天的に患っていたQT延長症候群を抑えるために長年薬を使用し続けた。
その副作用と遺伝的要因、さらにホルモン変化による関係で発症したらしい。
拡張型心筋症。
心臓の筋肉が伸びて弱くなり、ポンプ機能が低下する疾患だ。
今の年代でも心不全症状を引き起こす可能性がある上に、重症化すると突然死のリスクもあるという。
刀哉の前で倒れた一件から、徐々に体から力が入りにくくなっている感覚を抱くようになったのは、この病によるものだった。
この二つが同時に発症することは、医学的にも前例がほぼなく、非常に稀だという。
だが、判決を言い渡されても、私の心は思っている以上に凪いでいた。ついにこの時が来てしまったのだと、来るべき時が来ただけだと、自分でも分かっていたから……。
いいや、嘘だった。
医者と何を話したかは覚えていない、ただ意地になって家に帰り、ベッドに倒れ込んだ。
そうして世界の殻に閉じこもり──誰もいない世界で、孤独に、哭いた。
そんな時だった。スマホが鳴った。
目を向ければ、刀哉からのメッセージだった。
刀哉。そうだ。刀哉がいる。私には刀哉がいる。
私には、絶望という闇から救い出してくれる太陽がいる。
喘ぎながら、震えながら、スマホに手を伸ばす。
そして、刀哉に縋ろうとメッセージを開く。
先に送られてきた刀哉のメッセージが目に入る。
『個人戦まであと一週間! 稽古頼むぜ、沙耶』
心臓が喚くような鼓動を立てた。
ダメだ。刀哉は大会に向けて集中しているのだ。
そんな彼に心臓のことを伝えてみろ。彼の心を乱すだけだ。邪魔はできない。
してはいけない。
彼は光だ、希望だ。私の抱える闇が、彼の輝きを妨げてはならないのだ。
刀哉が、最高の状態で達桐と夢の舞台で相まみえるのを──邪魔してはいけない。
『すまない、刀哉。少々体調がすぐれなくてな。医者から稽古の禁止を命じられた。大会の日は必ず行く。なぁに、君ならあと一週間、私と稽古しなくても大丈夫さ』
違う。助けて。助けて刀哉。嫌だよ。苦しい、辛いよ。
それでも、彼に縋ることは許されないから。
『あー、そうか。分かった。無理すんなよ。必要なものがあれば持ってくから。今まで沙耶が稽古つけてくれたから、自信を持って大会に挑めるよ。ありがとうな』
優しい。そうだ。彼は粗暴で野蛮だけど、それは表面的なものでしかなくて、彼の本質ではない。彼は温かくて、眩しくて、心がポカポカとする。それが刀哉という光だから。
『うぅう……ぅうううううううう……ッ』
歯を食いしばっても、隙間から嗚咽が漏れる。
ダメだ。折れるな。この苦しさを、闇を、彼にぶつけることだけは許されない。
震える手で、何度も間違えながら文字を打つ。
『ありがとう、大丈夫だ。私も、君と稽古できて幸せだったよ』
幸せだった。本当に。彼との稽古は、心の底から幸せだった。私でも、と淡い幻想を抱かせてくれた。夢を見させてくれた。本当に、ありがとう。
メッセージを送った直後に電源を切る。光を失った液晶に、ぐしゃぐしゃになった私の貌が映った。だけど、すぐに滲んで──。
『あああああああああああ、あああああああああああああああああああ……』
感情が決壊した。壊れた蛇口のように涙が溢れ出す。
泣いて、泣いて、泣き叫んで、部屋中の物に当たり散らした。何もかもを壊したかった。髪を引き千切った。頬に爪を立てた。どうして、どうして私が。なんで私が。
理不尽。不条理、無慈悲、掛け値なしの絶望。絶望絶望絶望。
誰もかれもが生まれた瞬間に死へ向かっているのは分かる。私は死を呪っているのではない。
私は──どうしてこうも早く、その時を突き付けられなければならないのか。その理不尽に慟哭していた。
私の描いた『夢』は、まだ叶っていないというのに。
こんな絶望を、誰が分かってくれる? 誰が絶望に染まった世界から魂を連れ出してくれる? 誰もいやしない。私の絶望は私にしか分からない。誰も、誰も理解してくれない。分かってくれない。受け入れてくれやしない。抱きしめてくれるワケが──ない。
……何日、そうしていただろう。結局世界は壊れなかった。誰も壊してはくれなかった。ドアを開けてくれる存在は、心を救いに来てくれる人は終ぞいなかった。
光は──私に降り注いではくれなかった。
私が時の流れを再認識したその日は、刀哉の個人戦の日だった。
行かねば。せめて、刀哉が優勝するところだけは、見届けねば。
そう自分に鞭を打ち、足取りもままならぬ中、刀哉の雄姿を見に行き──、
そして、あの事故が起きた。
血で汚れる刀哉の体を抱きながら、達桐が慟哭する。その声は生涯忘れることができない。絶望。掛け値なしの絶望。刀哉も達桐も、絶望の渦中にいた。
その姿を見て──私は己の使命を自覚した。絶望を理解し、救い、未来へ歩むために背中を押せ、と。
未来に希望を持たせてくれた彼らに報いるのなら、私が未来を示すしかない。
三人での稽古という夢。私の最期。そして、絶望の理解者。
私たち三人で稽古ができたら、きっと……。
全てが一点で重なった。私の命の使いどころはここだった。
だから、彼らの絶望を受け入れたい。そして、私と絶望を分かち合いたい。
そうすれば、刀哉と私は──。
そこまで考えて気付いた。私は、刀哉にどういった感情を抱いている?
彼は眩しい。太陽のようだ。ずっとそう思っていた。あくなき向上心を持ち、ただ前へ、前へ。
私と同じく生まれつき体に欠陥を、右肘に欠陥を抱えようと、達桐との約束を果たすために彼は前へ進み続けた。
絶望に打ちのめされている私とは、えらい違いだ。
だからだろう。彼のような光と共にあれば、きっと、絶望を超克することができるかもしれない。そんな思いがあったから──。
ああ、そうか。
私は霧崎 刀哉のことが好きなのかもしれない。
前に向かって進み続ける、絶望に決して屈せず、挑み続ける強さを持つこの男に、私はいつの間にか心惹かれていたらしい。
私の剣は君であってほしい。
太陽の如き魂を持つ君が、私を導いてくれたらどれだけいいか。
私の内に宿る絶望を拭いきれなくていい。照らしてくれればそれでいい。
死へ続く道だとしても、君が照らしてくれたら、きっと怖くはないだろうから。
だから、刀哉、大丈夫。君の絶望を抱き締める。包み込む。理解できる。
私は──君に、私の剣になってほしい。
そんな思いで、手術を終えた刀哉の病室に駆け込み、
『沙耶、俺は絶望なんかしねぇ。こんなケガ、屁でもねぇ。
何度でも立ち上がって、俺は絶対に剣誠との約束を果たすんだ』
彼は、たった独りで自分の絶望を焼き尽くしていた。
そうして、私に彼は、太陽は、似合わないと悟った。
彼は眩しい。病的なほどに。彼に触れれば浄化されてしまうと錯覚するほどに。
私という絶望を微塵も許さないような輝きに、目を焼かれるかと思った。
恋は畏れに変わった。
心がひっくり返った。
白と黒が反転したみたいだった。
刀哉を傍に置くことが怖くなった。絶望に打ちひしがれている自分があまりにも惨めだと思ってしまいそうで。
辛い。
彼の輝きを浴びる度に、私は私を否定されているような気がしてしまう。彼がそんなことを思うはずも、言うはずもないと分かっている。
でもダメだ。心根が闇に染まり切っている私には、刀哉の輝きは受け入れられない。
刀哉が悪いのではない。耐えられない私が、弱いのだ。
その瞬間だった。私は私の魂が求めているものを理解した。
私は正論がほしいのではない。
正しさを求めているのではない。
絶望を焼き尽くしてほしいのでは、ない。
私が求めているのは──。
『そうか……眩しいな、君は』
──目を開ける。夜空が滲む。零れる涙で視界が水面のように揺れていた。
ごめん。ごめん刀哉。君は悪くない。君は正しい。病的なほどに、君は正しい。
でも、正しすぎるから、私は君を選ばなかった。
太陽ではなく、月を選んだのだ。
一度選ばないと決めたのなら、罪悪感を覚えるのもおかしいのだけれど。でも、そこはもう人としての心だ。長く共にいた君にも、少なからず想う心はある。
それでも、最期なのだ。私は自分の魂に従いたい。
正しさも道理も倫理も常識もいらない。私は、ただ。
「ごめん、刀哉。ごめんなさい……弱くて醜い私で、ごめんなさい……」
私は君が怖いんだ。強すぎて、怖いんだ。とても傍にいられない。君も私を悪しからず思ってくれているのは分かっている。大事にしてくれているのも分かっている。でも、私が君に相応しくない。私には、君の輝きを受け入れる権利なんてない。
間違っているのは私だ。おかしいのは私だ。
だけど、どれだけ私が間違っていても、私が求めているのは──絶望の理解者だ。
避けられない運命を否定するのではなく、共に涙して、受け入れ、理解し、抱きしめてくれる存在だ。私は、そんな存在を求めて彷徨っていた。
だから私は太陽ではなく、月を選んだ。
刀哉ではなく、達桐を選んだのだ。
達桐も自分の内に宿った絶望に打ち克ったが、過程が違う。彼は苦しみ、もがき、諦め、それでもなお向き合い、乗り越えた。
しかし、刀哉は自分の内に宿る絶望を前に、折れることなど一度もなかったのだ──。
彼は最強であり続けた。
彼は無敵であり続けた。
彼はどこまでも輝いていた。
天高く煌めく太陽のように。
眩しかった。
直視できないほどに。
だから。
刀哉、私はね。
太陽は、似合わないの。
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