四十四本目:太陽
「俺は、沙耶に選ばれなかった……か」
二十一時。達桐と八咲が邂逅を果たしているのと同時刻、霧崎は夜空を見上げて呟いた。
手の中にはスマホが握られていた。反応して映る待ち受けに、新たな通知はなかった。
「あなたはやれるだけのことはしていました。ただ、あなたの性質は、心根は、八咲さんにとってあまりにも眩しすぎたのです」
そんな彼の背に声を掛けるのは、一時間前に愛弟子を送り出した黒神だった。
中学に進学と同時に疎遠になったとはいえ、彼も達桐と同門で育った身である。かつては黒神を師事し、剣を磨いてきたのだ。
「先生、泣いてたんすか。声、震えてますよ」
「……女性に涙の理由を問うものではありませんよ、刀哉君」
すんません、と振り返らずに──涙の痕を見ずに──謝る霧崎。
「あなたは彼女にとっての太陽だったのでしょう。希望であり、支えであり、エネルギーであり……あなたがいなければ、八咲さんもきっとここまではこれなかったはずです。あの子は、あなたにも感謝しているはずですよ」
「分かってます。アイツは暴君だけど、なんていうか、ちゃんと俺のこと大事にしてくれてたのは分かるし。俺も大事だったし、だから尚更、なぁ……」
規模の小さい日本庭園のような庭を歩く霧崎。縁側には剣道具一式が置かれていた。砂利を踏みしめる音を三度響かせ、石を拾い、天へ向かって放り投げる。石はすぐに彼の近くへ落下した。彼はその石を寂しそうに見つめていた。
「眩しすぎたって、どういうことっすかね」
黒神は何も言わなかった。
「近くにいて分かった。より感じた。八咲 沙耶は気高い女だ。この世界の誰よりも。だから俺は、アイツの気高さを照らしたかった」
彼は拳を握りながら、太陽の沈んだ空を見上げた。
「俺は、アイツの隣に立っていたつもりだった」
「八咲さんとは、中学の部活で知り合ったのですか?」
「……そっす。まぁ、本当の最初は、小学生の頃の病院っすけどね。沙耶ってちいせぇ体のクセして、めちゃくちゃ強ぇ剣を振るじゃないっすか。中学で再会した時はいけすかないヤツだと思ってたんですよ。少ししか稽古しないのに、勝てないから」
霧崎が目を閉じ、八咲と出会った当時の思い出を振り返る。
「彼女が強いから、いっしょにいたのですか?」
黒神が問うと、霧崎は一瞬だけ目を丸くした。しかし、すぐに「ハッ」と笑い飛ばし、
「それだけじゃねぇ。先生も知ってるでしょ。俺が沙耶に付き従っている理由」
黒神が目を細める。霧崎の言う通り、彼女は知っていた。
中学時代、霧崎は己の感情のままに暴走し、八咲を無理に稽古に付き合わせた。その結果、八咲が倒れ、一歩間違えたら取り返しのつかない事態になりかけた。
「贖罪。それが一番の理由だ」
霧崎が拳を握り締めながら告げた。
「俺の中で最強の存在は沙耶だ。先生を入れても、沙耶以上の剣士を俺は知らない。だから、俺が沙耶に勝てば、俺以上の剣士は存在しなくなる」
頂点──天にて輝く太陽そのものになれる。彼はそう信じてやまなかった。
「沙耶の隣に立つには、沙耶の道を照らすには、沙耶に認められる必要があった。だから俺は沙耶に勝ちたかった。沙耶を超えて最強を証明すること。それが沙耶への贖罪だった」
かつて沙耶から取った唯一の一本を思い出し、霧崎が拳を握り締めた。
「だから、なおさら分かんねぇなぁ。俺だったら、どこまででも沙耶を導いてやれるのに。何が足りなかったんだろうな。ケガに負けず、打ち克って、ここまで来たのにさ。絶望なんかしねぇって言った時に……そうだ、その時沙耶に言われたんだ。『君は眩しいな』って」
黒神は言った。霧崎は太陽だと。八咲にも告げられたその言葉こそが、彼の本質を指し示す言葉だった。
故に、彼は分からない。
闇を拭う存在である自分が、希望の光であるはずの自分が、どうして絶望と戦い続けた彼女にとって救いとならなかったのかが。
自分は誰よりも八咲の傍にいて、誰よりも彼女のことを分かっていたはずなのに。
そして誰よりも彼女を想い、彼女の希望になることを切に願っていたというのに──。
「刀哉君」
黒神が、霧崎の心を包み込むように優しく、言葉を掛ける。
「あなたの八咲さんへの想いは、贖罪だけなのですか?」
「え……」と呆気に取られたように目を丸くする霧崎。
贖罪以外の、理由。八咲の隣に立つのに、それ以外の理由があるか。
霧崎が地面の砂利を見つめて、逡巡する。
病院で初めて会った時の記憶は曖昧だった。だから、初めて八咲を認識し出した時から思い出す。部で最強になったと思っていた天狗の鼻をへし折られた時から。
そして己に問う。八咲との稽古の日々には、贖罪の想いしかなかったのか。
「違、う」
即答だった。何故? 霧崎は再度己に問いかけた。
八咲との稽古は、彼にとってこれ以上ない刺激的な日々だった。自分より先にいる目標を倒さんと、必死に強さを求めて足掻き続けた。彼の視界には、八咲しかいなかった。
八咲に勝つには。八咲に認められるには。八咲を想い続ける日々は、決して苦しみに満ちたものではなかった。むしろ、楽しいとさえ感じていた。喜びを感じていた。
「俺は──」
達桐との夢を果たす道中に現れた八咲。彼女と稽古を繰り返す中で、霧崎は。
いつしか、八咲の笑顔を見続けていたいと思うようになっていた。
瞬間、霧崎の目が、何かに気付いたように見開かれた。
「ああ……そうか」
夜空を見上げ、届かない月に手を伸ばし、彼はひとりごちる。
「俺は、沙耶のことが、好きだったのか」
心に走る小さな痛みを、彼は大事そうに握りしめた。
贖罪の日々の中で、確かに芽吹いていた想い。一度気付いてしまえば、どうしても否定することはできなかった。故に、彼は理解できてしまった。
彼女の最期に選ばれなかったということは。
「なら、俺は──」
剣誠に、負けた。
霧崎がそう決定的な一言を漏らそうとした、瞬間。
「あなたたち二人の『夢』は、戦わずして終わるのですか?」
黒神が、丸まった彼の背にそう語りかけた。
「全てはあなたたちの『夢』から始まったのです。そこに八咲さんが加わり、ここまできたのです。なら、あなたたち二人の決着によって、初めてケジメが着くと思いませんか?」
「いや、でも、俺はもう」
「男の子でしょう。そこは意地を張って良いと思いますよ」
意地。霧崎は目を見開いて言葉を反芻する。
「好きなのでしょう? 八咲さんのことが。あなたも。贖罪の鎖を引き千切るくらいに」
霧崎の時間が停まった。彼の頬を、初夏にしては冷たい風が撫でていった。
「私は弟子として剣誠君を愛しています。が、時間の長さは違えど、あなたのことも大事に指導してきたのは事実です。あなたたち二人がヒノキの舞台で剣を競い合うのを……私もまた、夢見ていたのですよ」
霧崎の拳が、いつの間にか握られていた。
「私からすれば、あなたたちは似た者同士です。己の選択を悔やみ、罪悪感に苦しみ、心の痛みを噛み締め、それでも心の奥底では前に進もうと足掻く──若き剣士です」
ただ、決定的に二人が違ったのは。
絶望を前に、折れるか折れないか。それだけだった。
「剣誠君は、八咲さんを『理解』することで魂に触れようとしています。それは彼にしかできず、あなたにはできないことです」
だけど、と黒神は言葉を続けた。
「彼にはできず、あなたにしかできないこともまた、あるはずなのです」
「俺にしか、できないこと」
「はい。あなたの場合は、もう既に答えを得ていますけどね。後はそれを、どこまで貫くことができるか。彼女の闇を全て祓うほどに、強く、強く、輝けるかです」
黒神が背を向ける。この物語の最終幕の舞台に上がるべき、もう一人の主役の背を押して。自分の役目は終わったと言わんばかりに。
「ここから先は、あなたたちだけの物語です。存分に、紡ぎなさい」
満月の照らす庭に一人佇む霧崎は、拳を握ったまま黒神の去った縁側を見つめていた。
「俺は……」
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