異世界農業譚 〜チートなし大学生、土と汗で成り上がる〜
済美凛
第1話 土の臭いしかしない転移
目が覚めた瞬間、最初に鼻を突いたのは――土の臭いだった。
湿っていて、少し腐葉土が混じった、畑そのものの匂い。
アスファルトも、排気ガスも、研究室の消毒液の匂いもない。
「……は?」
視界に映ったのは、青すぎる空と、ボロ布みたいな雲。
起き上がろうとして、全身に走る鈍い痛みに顔をしかめた。
「ここ……どこだよ……」
最後の記憶は、大学の実験棟。
堆肥の発酵実験の最終データを取り終えて、徹夜明けでフラフラしながら外に出て――。
「……ああ、そうだ。トラック」
クラクション。ライト。衝撃。
そこから、記憶が途切れている。
「つまり……あれか。テンプレのやつか」
異世界転移。
ラノベで何百回も読んだやつ。
俺はゴクリと唾を飲み込み、ゆっくりと周囲を見回した。
土の地面。
木と泥で作られた、歪んだ小屋のような建物がぽつぽつ。
遠くでは、痩せた人影たちが鍬を振っている。
「村……?」
胸の奥が、ざわっと騒いだ。
(来た、これ……来ただろ。能力確認)
俺は反射的に右手を前に出す。
「ステータス、オープン」
何も起こらない。
「……スキル、表示」
沈黙。
「鑑定」
風が吹いて、俺の髪が揺れただけだった。
「……は?」
もう一度やる。
「レベル確認! チート! 神様ボーナス!」
何も、起きない。
嫌な汗が、背中を伝った。
「……待て待て待て」
立ち上がって、自分の身体を触る。
細身の腕。筋肉もほとんどない。
作業で鍛えてはいたけど、戦える体つきじゃない。
「スキル……なし? 魔力……なし? 剣才……なし?」
俺は、ただの――
「……農学部生の身体じゃねえか……」
膝から、力が抜けた。
チートなし。
戦えない。
魔法も使えない。
(終わった……)
そう思った瞬間だった。
「おい! 生きてるか!」
がさがさと草をかき分ける音。
振り向くと、痩せ細った老人が一人、こちらを見下ろしていた。
「……あ、はい」
「なんでこんなところで倒れてた。村の外れだぞ、ここは」
俺は簡単に状況を説明した。
転移とかトラックとかは省略して、「気づいたらここにいた」とだけ。
老人はしばらく黙り込み、やがて深いため息をついた。
「行くところがないなら、コガネ村に来い。食い物は……まあ、ひもじいがな」
その言葉に、腹が情けなく鳴った。
こうして俺は、コガネ村に連れて行かれた。
村は、想像以上に貧しかった。
畑は痩せきって、作物はまだらに枯れ。
葉は黄ばみ、根元には黒い斑点。
明らかに病害。しかも連作障害の匂いがプンプンする。
(うわ……最悪の土だ……)
村長と名乗った老人が、苦笑しながら言った。
「見ての通りだ。もう何年も、まともな収穫がない」
俺は、無意識にしゃがみ込み、土を指ですくった。
握る。
崩れる。
匂いを嗅ぐ。
「……腐植がほとんどない。団粒構造も崩れてる。完全に死んでますね、この土」
村人たちが、ぽかんと俺を見る。
「……何を言ってるんだ、若いの」
その瞬間、胸の奥で何かが、カチリと音を立てた。
(そうだ。俺は、農学部生だ)
魔法はない。
スキルもない。
ステータス画面もない。
でも――
(土壌学も、病理学も、酪農も、有機農業も、全部ここに入ってる)
頭の中に、四年間叩き込まれた知識が、鮮明に浮かび上がる。
(この世界の農業……レベルが、低すぎる)
俺は顔を上げ、村長をまっすぐに見た。
「……やり方を変えれば、この村、必ず復活できます」
村人たちの間に、ざわめきが走る。
「若いの、冗談はよせ」
「もう何人も来たが、皆逃げ出したぞ」
それでも、俺は引かなかった。
「まず、堆肥を作りましょう」
「たいひ……?」
「糞と草と、生ごみです。全部、捨てずに集めてください。土は“餌”をやらないと死ぬんです」
完全に、怪しい奴を見る目だった。
だけど――
(やるしかないだろ)
チートがないなら、俺のこの知識で戦うしかない。
(俺は戦士じゃない。賢者でもない。ただの――)
泥だらけの手を見つめて、俺は小さく笑った。
「『鑑定』? ない。
俺はただの、肥料の臭いが染み付いた日本の大学生だ……」
それでも、この土だけは、裏切らない。
ここから――
俺の、異世界農業が始まった。
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