完結編
天使のいない日々が、再び始まった。今回は穏やかに楽しいだけの記憶を残して、去っていった天使。
実はこの別れを彼女は引きずることもなく、無理することもなく、再び日常へと静かに戻っていった。
旅から帰った彼女は、生まれ変わったようにパワーがみなぎっていて、ますます活動的になれた。それは彼女なりの活動的であったから、多くの人よりかは活動量はまだ控えめかもしれないが、今までとは全く違っていた。力がアイデアが湧いてくる──。行きたいところに行く。やりたいと思ったことを、実行に移す。毎日それを繰り返していけるだけの自分を取り戻せた。シンプルなことであるのだが、この数年間の彼女はそれを続けて行うことが難しくなっていたくらい気力が弱っていたから、この変化はたいへんに革新的であった。
彼女は明確なターニングポイントとして今回の旅をこれからもずっと思い出すだろう。そのくらい、前と後で彼女の身体と心と脳は全く変わっていて、淀みなく流れ始めた彼女の内面は本来の彩りを取り戻し、過ごしゆく日々は心地よく記憶にかさなっていく。
彼女は過去を赦されたのだと思った。未来を許されたのだと思った。
ゆるされた──。
いったい何からゆるされたのかは、彼女自身にとっても漠然としていてわからないのだが、ただただそう思った。それが合っているのか間違っているのかは、わからない。
そうして天使のいない日々を再び過ごしていた彼女は、なにげなく天使の言葉を書き留めたノートに目をやった。数冊のノートが、無造作に紙袋に詰められている。怖いから捨てるかどうかまよってたんだったな。そんなことを思い出しながら重い記憶がよみがえろうとしてくるが、同時にその背後から楽観的な好奇心が顔を出してきて、やがてその好奇心がまさった。
手を伸ばして、青い1冊のノートを取り出した。あ、当たりだ。似たようなノートのまとまりから彼女が選び取ったものには、1枚のルーズリーフが挟まれている。
天使が現れる前の数年間の記録から始まるそのノートは、時系列に沿って整理された冷静な分析から始まり、夢みがちな空想のあとは、混沌とした殴り書きへと続いていた。さらにページをめくっていく。天使との交信の記録へと入ると、可愛い天使のリズムと言葉がいきいきと蘇ってくるようで、こころがふわりと明るくなった。天使からの言葉は、具体的な西暦の年、望まれる役割や行動が続く。ところどころに2025年の数字が現れ始めた。
「あっ、2025年だ」
点と点とが線となる。ノートを読み返すたびに、その線は弧を描き丸みを帯びて、形となっていく。
彼女は発信していくことに決めた。この世のことを。この世界の美しさを。この世界の怖さをも。今度は勇気を出して、自分の身に確かに起きた経験と向き合ってみよう。そんな思いで覚悟を決めた。
天使が名付けてくれた名前を再び使い、天の声を遥か遠くまで伝えていこう。今回は、もう邪魔されない。しっかり地にも足を付けて、芯を強く持ち、心を身体を清浄に保って、惑わされないんだ。自分に誓った。
天使との記録が書き残されたノートの最後のページ。その最後の行は「2025 ハルカセラピー スタート」で締められていた。そうだった、当時は占い師やセラピストを目指すのかと思っていたな。タロットを再開すると言ったら、ミカエルに反対されたっけ。思い返しながら、「ふふっ」と笑みがこぼれる。彼女は優しくノートを閉じた。6年以上の月日が過ぎた今、ようやく始まる物語。
ノートを閉じた彼女は文章を紡ぎはじめていた。喜びのために真実を表現していた彼女はやがて彼女なりの芸術の可能性を見つけ出し、自分が楽しいと思う作品や、自分が道を外れそうになった時や闇に覆われそうになった時に自分自身を導いてくれるなにかを込めた作品を世に置いておけたらいいなと思うようになった。
封印はもう解いていたといっても、あえて蓋をはずそうとはしていなかったから、まだそのままのっかっていた記憶の蓋を勇気をもって外して、少しずつ取り出して紐解いていきながら、彼女は彼女の世界を形として表し世に送りはじめていた。まだまだ拙い文章と表現ではあるが、それは彼女の癒しとなり解放となっているから、それだけでも彼女には十分に価値のあるものであった。
きっといろいろなことがあるだろうけれど、今の彼女には夢があるから、これからも彼女なりの道を歩んでいくのだろう。見えない世界で培った逃げない心とひとつずつ向き合って乗り越えてきた経験は、彼女の糧となってここにあるから、それは彼女の強みとなってこれから生きるためのひとつの軸となりゆくだろう。
自分ならではの経験と強みが織りなして作り出す世界は、いつかだれかを照らす光となるかもしれない。それはたいそうなものでなくとも、ちょっと心を照らす楽しみのきらめきであるかもしれないし、かくれた道のはじまりを照らす灯かもしれないし、なにかで覆われた今の心を透かし照らす光であるかもしれない、その誰かにとってのなにであるかはわかりようもないし、何であるのかを目指さなくてもいい、と彼女は思っているから、己の心が導くままにただ世界を表現していけているようだ。
彼女の物語では封印を解かれた章が開かれはじめたから、徐々に記憶と経験はふたたびよみがえっていき、そのたびに連なりの合間の空白を埋めていく。なんども墨塗りされた部分や敗れたページは無理に補おうとはしないけれど、受け入れられる勇気が備わったときにふたたび与えられるのかもしれないから、そこはそっとしておこう。そう思う彼女は今も彼女のペースで書き綴り、世に表される世界を広げ続けているのであった。
そうして、彼女の日常には、平凡だけど彩り豊かな日常と、変わった過去の経験と、ちょっとだけの「奇」が残り、そこに夢と覚悟が加わった。
彼女の物語は、これからも続いていく。
……いま彼女の横に天使はいるのかって?
ミカエルも一緒だよ。いまも彼女を見守っている。よくがんばったね、って喜んでるよ。
天使との別れは、じつは数週間で終わったのであった。最近の日々では、数日に一度だけ、ちょこんと顔を出したり、たまにはしょっちゅう現れる日もあれば、しばらく音沙汰のない日々もある。黒か白かしかなかった今までにはない形として、彼女と天使との関係は続いていた。
いまも天使は陰から応援している。でもつながった回路はそのまま残っているから、いつでもアクセスできるらしい。
どうやら天使は、ここは大事だぞって天使が思うときに自由に表れてくるようだ。今の天使と彼女の関係は以前とは形を変えていて、穏やかに緩やかにつながりを感じているようなものであり、それは彼女の支えというよりは純粋な信頼に近いもので、さほど支えになるというものではない。 依存というわけではもう全くなくて、何かを教わろうという期待もなく、ただ現れてメッセージが来たなら受け取って、すこし心が温かくなる。それだけだ。彼女から積極的にミカエルに問いかけることは、もうない。
彼女は今日もお気に入りの椅子に座って、いつかのことを思いながら左の東の窓に広がる青い空とふわふわ流れる雲を見上げていた。丸いウォールナットのテーブルには鳥と花が描かれたお気に入りのコーヒーカップをのせて。穏やかな気持ちで、ふわりとこころから浮かび上がっている思いとことばを見つめながら拾い集めて織りなしていく。
白い光と優しい風が、彼女を包み込んでいた。
天使と彼女の物語 【通常版】 櫻絵あんず @rosace
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