第2話 ストームという格闘技

「おっと、博樹さんは今日が初めてでしたね。今から始まるんですよ……ストームが!」


「ストーム?嵐でも来るのか?」


「まあ、見てたら分かりますよ。」


"ストーム(STORM)"という言葉を聞き、嵐や暴風雨などの悪天候を連想してしまい、博樹は思わず周囲や天井を見上げた。一方のジャイロは、好奇心と興奮に満ちた目でリングの方を見つめている。

店内を満たす空気は、古くなったビールの匂いと揚げ物の油、そして微かな汗と消毒液の混ざった独特なものだった。日本の居酒屋とは全く違う、雑多で野蛮な熱気が肌に張り付くような感覚があった。


『第1試合!青コーナー!マルコ・ベラの入場です!』


リングアナウンサーの一声と共に、青いスポットライトがステージの左側を照らす。軽快な音楽が流れ始めると同時に、照らされた舞台袖からファイトパンツのみを身に纏った細身で筋肉質な男が出てきて、リングに向けて歩いていく。彼に向けての歓声が酒場のあらゆる席から飛んでくるが、彼は表情を崩さず、ただ静かにリングへ向かう。


「リングもあるし、まさか本当にここで格闘技をするのか?」


「ええ、ストーム。それはこの国の魂とも言える格闘技です。」


博樹自身もリングに向かう選手の様子を見て、ようやくこれから行われるストームというのが格闘技の試合であると理解し、リングに視線を向けた。


『赤コーナー!ディエゴ・カルロスの入場です!』


続いて、赤いスポットライトが先程とは反対側のステージ右側を照らし、会場にはラウドなロックの音楽が流れる。それと同時に、背中や胸に派手なタトゥーが入った男が入場してきた。彼はリングに向かいながら、客席である酒場の座席の方に向けて何度も両腕を振り上げて客を煽っていく。

彼らが上がっていくリングのマットには、血と汗の跡のような濃い染みがいくつもあり、この場所が日々の闘いを生々しく記録していることを示していた。


「よく見たらあれ、オープンフィンガーグローブか……」


その時、博樹の目に入ったのは、彼らが着用しているグローブが総合格闘技で使われるオープンフィンガーグローブであることだ。オープンフィンガーグローブは通常のボクシンググローブとは違い、五本の指が露出したグローブで、組技や投げ技がある総合格闘技で主に使われる。近年では、オープンフィンガーならではの、ジャブをグローブでガードできないことや、顔に傷ができやすいと言った特性から、戦いをよりアグレッシブにすると評価され、オープンフィンガーグローブでキックボクシングの試合をする団体も増えている。


『第1試合!フライ級ワンマッチを開始します!』


2人の入場が終わり、この試合がフライ級、すなわち体重が57kg以下での試合であることがアナウンスされると同時に、会場中には黄色の服を着て、赤と青の札が入った箱を首から下げた者達が数名現れ、席の合間を歩き始めた。


『赤を10枚!』


『青を5枚!』


酒場の客たちは枚数を言いながら、黄色い服のスタッフたちに札束を渡していく。すると、客は彼らが要求した枚数の木でできた札を手渡される。


「これは何をしているのかな?」


「これは賭けですね。この国ではプロアマ問わずストームの試合に賭けることができます。あ!俺も青を10枚!」


ジャイロはその様子を不思議そうに見る博樹に応えつつ、自身も1枚のお札を出して、青色の「1」と書かれた札を購入する。


「この札は1枚1000マヌで買うことができます。この選手が勝ったら、今日の閉店時間までにレジに持っていけば、1枚当たり2000マヌになります。」


ここでの賭けは単純で、持っている札の選手が勝てば2倍の金額を貰え、負ければその価値はゼロになる。因みに、この国の通過である1マヌは日本円で0.1円であり、1000マヌは100円である。


「なるほどな、まあどっちが勝ってもオッズが2倍なんだな。それで、その数字は?」


「これは第1試合ってことを表しています。後で一括で支払えるように整理してくれてるんですよね。」


「なるほど……」


単純明快な「勝てば2倍」というルールは、客たちの理性を簡単に吹き飛ばしていた。博樹の隣にいるジャイロの目も、数分前まで談笑していた男のそれではなく、獲物を狙うギャンブラーのようにギラギラと光っている。

博樹がこの場での賭けについてジャイロの説明を受けていた時だった。


『ファイト!』


ゴングが鳴って、マルコとディエゴの試合が始まった。


(3分1Rか……)


リングの上にはタイマーがあり、時間が3分から徐々に減っていき、1R3分であることが示されている。


「これは、キックボクシングなんですか?」


序盤は、お互いジャブや軽い蹴りを出してけん制し合いながら、自分に有利なポジションを取ろうとしている。立ったままの打撃戦の様相を呈する試合の様子に、博樹は思わず問いかけた。


「いいえ、そういうわけではありません。」


すると、青コーナーのマルコが赤コーナーのディエゴに接近し、右手でフックを放とうとした。フックの軌道から逃れるようにディエゴは身体をほぼゼロ距離まで接近させ、肘打ちをマルコのテンプルに向けて撃ち出す。


「肘打ちがあり……ということはこれはムエタイ何ですか?」


通常のキックボクシングでは肘を使うことはできないが、ムエタイでは肘を使うことができる。博樹は反射的に自分の知識と照らし合わせた。


「いいや、違うね。よく見てみな。」


ジャイロが笑う。

一度距離が離れた両者。そこからディエゴが再び前蹴りを仕掛けるが、マルコはその蹴り足をキャッチしてディエゴを転がせてしまうと、そのまま上に乗ってマウントを取り、頭部や顔面部に向けてパンチを振り下ろしていく。


「分かった!これはMMA(総合格闘技)か!」


「博樹さん、結構格闘技詳しいんですね。」


「まあな、結構よく見ているからな。」


MMA(総合格闘技)は、アメリカのUFCや日本のお茶の間でも放送されていたRIZINやPRIDEと同じルールである。ボクシングやキックボクシングのような打撃、レスリングのような投げ、柔術やグラップリングの関節技や締め技といった極めが使える、あらゆる格闘技の要素を持つ。博樹自身も幼少期からRIZINを見ており、何度も現地に足を運ぶほどの格闘技オタクであり、興奮した様子で試合を見ている。


「まあ、MMAとは違い、関節技や締め技はないんですけどね。」ジャイロが付け加えた。


(打撃特化のMMA……KNOCKOUTのアンリミテッドルールみたいな感じか……)


近年では、KNOCKOUTというキック団体で、グラウンド状態での打撃も解禁されたアンリミテッドルールが開発されており、博樹は寝技による極めがないと聞き、そのルールに近しいものがあると考えて頷いた。


『ダウン!』


15秒ほど、マルコがディエゴにパウンドの雨を浴びせたところで、レフェリーが一度2人の間に入って試合を止めた。


『1!2!3!…』


ボクシングやキックボクシングではパンチやキックを受けて倒れてしまうと、ダウンを取られてしまう。

博樹は、グラウンド状態での打撃を受け続けてもダウンとなる様式に感心しつつ、静かに試合を見守る。レフェリーはディエゴを立たせ、意識があるかを確認する。


「試合の中であと2回ダウンすればKOですね!頑張れ!マルコ!」


ジャイロが叫ぶ。


「試合の中で3つのダウン?1ラウンドに3ダウンじゃないのか?」


博樹はジャイロに問い返した。


「いえ、ストームでは3分3Rのなかで3回ダウンすればKO負けです。」


「なるほど、まあその方がダメージは少なそうだな……」


通常のキックボクシングでは、1Rに3つのダウンで強制的にKOとなるが、ストームでは1試合に3つのダウンでKOとなる。そのことを聞き、博樹は理論上喰らうダウンの数が少ないのはストームの方であり、ダメージが残りにくいシステムに感心している。


ディエゴが腕を上げて試合続行の意思を示したため、レフェリーは試合再開を告げた。


『ファイト!』


両者は再び向かい合う。


『ダウン!』


試合再開が宣告されてすぐのことだった。マルコがボクシングの技術を活かしたパンチの攻防の中でディエゴからダウンを奪う。


(MMAの場合はここからパウンドでの追撃があるんだが、それも無いんだな。)


総合格闘技では、ダウンしたら倒れた相手に追撃して、そのままKOまで持っていく。だが、ストームではダウンが宣告されれば、レフェリーが試合を止め、倒れたファイターに対し再び10カウントをされる。


「お、ジャイロが賭けた方が有利なんじゃないか?」


「ええ!このままなら……」


『ファイト!』


ディエゴが再び立ち上がってファイティングポーズを構えたことで、試合が再開するが、マルコのパンチのラッシュがディエゴに突き刺さっていく。パンチの連打を受けたディエゴが徐々にリングの際に後退していき、マルコの一撃が顎に刺さると同時に、膝から崩れ落ち、マットの上に倒れこんでしまう。

この瞬間、酒場全体の呼吸が一瞬止まり、客たちの喉から絞り出されるような悲鳴と期待が入り混じった音が響いた。


「よし!」


その様子を見て、レフェリーが試合を止めて青コーナーのマルコのKO勝利を宣告する。 ゴングが何度も鳴らされ、酒場は彼を応援していた客たちや賭けていた客達の歓声に包まれる。ジャイロも賭けに勝ったことで、ガッツポーズをしてみせる。


「これが、ストームか……」


リングの上でガッツポーズをして、初めて笑顔を見せるマルコの姿を見て、博樹はこの国のストームの文化をその身で味わう。 攻防の緻密さよりも、一瞬で勝負を決めに来る打撃の応酬。レフェリーの介入を挟みながらも、ダウンを奪えば執拗にパウンドで追い詰める。まさに"嵐"(ストーム)のように荒々しく、しかし一瞬で全てを飲み込むような戦い方だった。日本でも居酒屋のテレビで阪神や巨人の試合、二刀流の大物スターの野球の試合や、サッカーのワールドカップを客達で見て盛り上がる文化があるが、そこに賭けの要素も加わり、より娯楽として盛り上がってるのだろうと思い、その熱狂の中で博樹は酒を煽る。


「試合はまだまだありますからね!楽しみましょう!」


「ああ、そうだな。」


格闘技を愛好している博樹も、その後は食事よりもストームの試合に熱中した。 総合格闘技よりも打撃に特化し、キックボクシングよりもアグレッシブ。 この日は10試合行われ、KOの試合もあれば判定の試合もあったが、つまらないと感じるような試合はなく、気付けば夜の11時まで博樹とジャイロは飲みとストームを楽しんだ。


「いやあ~負けたな~」


「10万マヌですか……中々豪快に使いましたね。」


博樹は、ストームの試合を気に入り、途中から賭けにも参加していた。 ただし、10万マヌ、日本円で1万円の損をしてしまった。


「酒がなけりゃこんなことにはなんねえよ。素面なら大儲けだ。」


博樹は酒で気が大きくなっており、酔ってなければ損をするような賭け方はしていないと主張している。


「なら、良いんですけどね。とりあえず、明日からの仕事は頼みましたよ。」


「ああ、任せてくれ。寝てしっかり酒を抜いておくわ……じゃあ、また明日。」


ストームの試合は平日でも休日でも関係なく行われる。どれだけ盛り上がっても翌日には仕事が待っている。博樹はホテルの方に戻り、明日から始まる仕事に備えるのであった。


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捕捉:ストームのルール

試合はリングで行いグローブはオープンフィンガーグローブ

基本はキックルール(3分3R延長無制限)でパンチ、蹴り、肘、膝、クリンチ、投げ技、グラウンド状態での打撃が可能

ダウン後のパウンドは禁止

1試合3ダウン、ダウン後のレフェリー判断、グラウンドでのパウンドの中で抵抗不可になった場合KO

判定はラウンドマスト、優勢で1ポイント、ダウンで2ポイント

グラウンド状態で10秒間打撃がない場合ブレイク

パウンドを15秒浴び続ければ1ダウン

蹴りをキャッチして転かす、蹴りキャッチからの1アタックも可能

階級

ストロー級 53kg

フライ級 57kg

バンタム級 61kg

フェザー級 66kg

ライト級 71kg

ウェルター級 77kg

ミドル級 84kg

ライトヘビー級 93kg

ヘビー級 100kg

スーパーヘビー級 120kg

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