夏への通行手形と、自立への方程式

1


 六月末。期末テスト一週間前。

 梅雨明けの湿った風が吹き抜ける放課後。

 部活終了後の第2体育館に、冷たく、そして重い足音が響いた。


「集合」


 たった一言で、体育館の空気が凍りつく。

 顧問の佐多恭子先生だ。鉄の女が、クリップボードを片手に仁王立ちしている。

 僕、一ノ瀬、三雲、剛田先輩、そしてマネージャーの凛。全員が直立不動で整列した。


「夏休みの『合同強化合宿』の件だが」


 ゴクリ、と全員が喉を鳴らす。

 毎年恒例、県内の高校が大隅半島の海沿いにある施設に集まって行う強化合宿。バレー漬けの地獄の日々だが、目の前は海。夜はバーベキューや花火も許されている、地獄と天国がセットになった一大イベントだ。

 僕にとっては高校生活初めての合宿。正直、楽しみにしている。


「許可を出そうと思っていたが……先日の小テストの結果を見て考え直した」


 佐多先生の黒縁メガネが、キラリと不吉な光を放った。


「一ノ瀬、剛田。……お前たち、赤点ギリギリだそうだな?」


「「ギクッ!!」」


 キャプテンと副キャプテンが同時に震え上がった。

 そういえば、この二人はバレー馬鹿だ。プレーのIQは高いが、机に向かうIQはからっきしダメらしい。


「本校の校訓は『文武両道』だ。成績不良者が部活動にうつつを抜かすなど、言語道断。……よって、条件を課す」


 佐多先生は指を二本立てた。


「今回の期末テストで、部員全員が『全教科欠点なし』かつ『チーム平均点65点以上』を達成すること。……もし一人でも欠点を取るか、平均に届かなければ、合宿は中止。夏休みは学校で補習合宿とする」


「「ええええーっ!?」」


 絶叫する一ノ瀬たち。

 補習合宿。それはつまり、灼熱の教室で朝から晩まで勉強漬けということだ。海も花火もない。


「日向」

「は、はい!」


 突然指名され、僕は背筋を伸ばした。

 僕は前回の中間テストで、ヒロインたちの猛特訓のおかげで学年48位を取っている。赤点は回避できるはずだ。


「お前は前回、まぐれで48位だったな。……今回は『30位以内』を目指せ」

「さ、30位ぃ!?」

「前回より下がれば『気が緩んでいる』と見なす。その場合も、合宿への参加は認めん」


 ハードルが上がっている!

 48位と30位の間には、分厚い壁がある。進学校の上位層は化け物揃いだ。


「以上だ。……精々、鉛筆を転がして足掻くんだな」


 佐多先生はそう言い捨てて、コツン、コツンと足音を響かせながら去っていった。

 残されたのは、絶望に沈む男たち。


「……終わった。俺の夏が終わった」

 一ノ瀬が床に崩れ落ちる。「数学とか、暗号にしか見えねえ……」

「俺もだ……英語の長文を見ると眠気が……」

 剛田先輩も白目を剥いている。


「嘆いている暇はありません」


 凛が冷徹に告げた。

 彼女はすでにタブレットを高速でタップし、スケジュールを組み始めている。


「今日から部活は停止。放課後は図書室で強制勉強会を行います。……日向先輩、貴方もですよ。30位の壁は厚いです。前回のデータだけでは突破できません」

「うっ……頼むよ、凛ちゃん」

「任せてください。私が作成した『対・佐多先生用完全攻略カリキュラム Ver.2.0』をインストールします」


 凛の目が怪しく光る。

 こうして、バレーボール部改め「期末テスト対策本部」が立ち上がった。


2


 放課後。図書室。

 窓際の大きなテーブルを、バレー部員と、なぜか「部外者」たちが占拠していた。


 僕の右には、霧島楓。

 僕の左には、神宮司雫。

 正面には、鬼コーチの種子島凛。

 その周りで、一ノ瀬先輩たちが死にそうな顔で数式と格闘している。


「悠真、この英語の構文はね……」


 楓が小声で囁きながら、肩を寄せてくる。

 彼女の教え方は優しい。「ここが出るよ」と丁寧にマーカーを引いてくれるし、疲れた顔をするとすぐに「チョコ食べる?」と甘やかしてくれる。


「……霧島先輩。密着しすぎです。先輩の体温が上がって脳の処理速度が落ちます」


 凛が対面からシャーペンでコツコツと机を叩く。


「うるさか! 凛ちゃんこそ、そのスパルタやめなよ! 悠真が可哀想じゃん」

「私は効率を追求しているだけです。……先輩、この微分の応用問題、解法パターンBで解いてください。制限時間2分」

「2分!? 無理だよ!」


 いつもの光景だ。

 楓の甘やかしと、凛の管理。二人の声が右から左から鼓膜を揺らす。

 そして、雫は……。


「……退屈ね」


 彼女は教科書を開きもせず、僕の横顔をスケッチしていた。

 手元には世界史の資料集があるが、彼女はそれを「画集」として眺めているだけだ。


「テストなんて、誰かが決めた正解をなぞるだけの作業よ。……ねえ日向くん、抜け出さない? 屋上で夕焼けを見ましょうよ。今の君の困った顔、茜色に染めたら綺麗だわ」


 悪魔の囁きだ。

 ここから逃げ出せば、どんなに楽だろう。

 でも、僕はシャーペンを握り直した。


「……ごめん、雫。今回はちゃんとやりたいんだ」

「あら。優等生ぶるの?」

「違うよ。……合宿、行きたいんだ。みんなと」


 僕は一ノ瀬先輩たちの背中を見た。

 頭を抱えながらも、「おい三雲、これ教えてくれ!」「剛田、そこは公式が違うぞ」と励まし合っている彼ら。

 一緒にバレーをして、一緒に馬鹿騒ぎをして。そんな夏を過ごしたい。

 そのために、僕ができることは「自分の点数を取ること」だ。


 僕は凛から渡されたプリントに向き合った。

 以前は「言われたからやる」だけだった。

 でも今は、「解きたい」と思っている。自分の意志で、この壁を越えたいと思っている。


 数式を見る。

 複雑な記号の羅列。

 ……いや、違う。


(……これは、トスの軌道だ)


 ふと、そんなイメージが脳裏をよぎった。

 放物線を描くボール。ブロッカーの配置。レシーバーの動き。

 数式の「X」と「Y」が、コート上の選手の動きと重なって見えた。


 僕の能力『過剰共感』。

 人の思考や感情を読む力。それは、出題者の意図を読むことにも応用できるのではないか?

 「なぜこの問題を出したのか」「どこに罠を仕掛けたのか」。

 佐多先生の顔が浮かぶ。彼女なら、ここでこう引っ掛けようとするはずだ。


 ――見える。


 カリカリカリ……。

 僕のペンの音が、リズム良く響き始めた。

 迷いがない。ボールの落下点に入るように、解答の「着地点」にペンが吸い寄せられていく。


「……あれ?」


 楓がキョトンとする。


「悠真、その問題……ウチまだ教えてないよ? 結構難しいとこなのに」

「あ、これ? ……なんか、分かったんだ。こっちからこう繋げれば、答えが出る気がして」


 スラスラと解答欄が埋まっていく。

 凛が目を見開いた。


「……正解です。しかも、私が教えた解法よりもショートカットしています。……どうやったんですか?」

「なんとなく。……バレーの試合展開を読むのに似てるかも」


 僕は集中していた。

 楓が差し出したお菓子にも気づかず、凛の指示を待つこともなく、次々とページをめくっていく。


「へえ……」


 雫が鉛筆を止めた。

 楓が少し寂しそうに、僕の腕から手を離した。


 僕が彼女たちの「管理」を必要とせずに、自力で走り始めた瞬間だった。


3


 テスト期間中。

 僕は自宅でも、フェリーの中でも、一人で勉強に没頭した。


 夜、楓から『夜食持っていこうか? プリンあるよ!』とLINEが来た。

 いつもなら「ありがとう」と甘えていた。でも、今は集中を切りたくなかった。

 『ごめん、今いいところなんだ。大丈夫、集中できてるから』

 既読がつく。返信は、スタンプ一つ。『そっか。がんばれ』。

 その裏にある寂しさに、僕は気づかないふりをした。


 凛から『進捗確認します。22時現在の学習範囲を報告してください』とメッセージが来る。

 『計画より2ページ進んでる。明日の分も予習できそうだ』と返す。

 『……了解です。オーバーワークに注意してください』。

 凛からの返信は素っ気なかったが、いつもなら送られてくる追加の課題ファイルが、今日はなかった。


 僕は成長していた。

 「選べない」「決められない」僕が、テスト用紙の四択問題の前では、迷わずに「これだ」とマークシートを塗りつぶせるようになっていた。

 誰かの顔色を窺うためではなく、自分の目標のために。


 そして、最終日。

 最後の手応えを感じて、僕はペンを置いた。

 窓の外、梅雨明けの青空が広がっていた。


4


 一週間後。

 終業式の日。掲示板の前。

 貼り出された順位表の前に、人だかりができている。


「……あった」


 自分の名前を見つけた瞬間、僕は膝から力が抜けた。


 『2年C組 日向 悠真 ―― 学年28位』


 30位以内。

 クリアした。文句なしの成績だ。


「……チッ。計算より大幅に上振れしましたね。私の予測モデルを修正する必要があります」


 背後で凛が、悔しそうに、でも嬉しそうに言った。

 彼女の計算を超えたことが、僕には少し誇らしかった。


「……悠真、すごい……!」


 楓が声を上げる。でも、いつものように抱きついてはこなかった。

 彼女は順位表を見つめ、少し複雑そうな顔をしている。


「28位って……私より上じゃん。……なんか、遠くに行っちゃったみたい」


 ボソッと呟かれた本音。

 楓にとって、僕が「できない子」じゃなくなることは、彼女のアイデンティティ(世話焼き)の喪失を意味する。


「……つまらない男になったわね」


 雫が遠くで静かに微笑んでいる。


「苦悩して、迷って、私に縋(すが)り付いてくる君の方が可愛かったのに。……正解を選べるようになった君なんて、凡庸だわ」


 空気が、少し重い。

 僕が頑張れば頑張るほど、彼女たちの「役割」がなくなっていく。

 管理する側と、される側。そのバランスが崩れた時、僕たちの関係はどうなってしまうんだろう。

 それが、少し寂しかった。


 だから、僕は言った。


「……でもさ、一人じゃ無理だったよ」


 三人が顔を上げる。


「楓が基礎を教えてくれたから英語が解けたし、雫の話があったから歴史が覚えられた。……凛のスケジュールがなきゃ、そもそもやる気が出なかった」


 僕は照れくささを隠して、頭をかいた。


「合宿には行けると思うけど……合宿の準備とか、何が必要か分かんないし。……また、買い物付き合ってくれないかな?」


 それは、僕なりの「まだ君たちが必要だ」というメッセージだった。

 僕が自立しても、君たちとの繋がりを切りたいわけじゃない。

 管理されるためじゃなく、一緒に楽しむために、そばにいてほしい。


 一瞬の沈黙。

 そして、三人の表情がパッと華やいだ。


「もー! 悠真はしょうがないなぁ!」


 楓が勢いよく抱きついてくる。その衝撃に、僕はよろめいた。


「水着とかパジャマとか、全部ウチが選んであげるからね! 悠真のパンツの柄まで私が決めるんだから!」

「それは自分で選ぶよ!」


「……仕方ありませんね」


 凛がフッと笑う。


「合宿中の栄養管理プランも、再構築しておきます。海辺でのトレーニングは負荷が高いですから、徹底的に管理させてもらいますよ」


「海か……」


 雫が妖しく微笑む。


「君の濡れた肌を描くのも、悪くないわね。……太陽の下の君も、たまには見てあげましょうか」


 そこへ、一ノ瀬たちが叫びながら走ってきた。


「おい日向! 見ろ! 俺たちもギリギリセーフだ!」

「平均点65.2点! 危なかった……!」


 男子部員たちが歓喜のハグをしてくる。

 騒がしい廊下。

 フェリーの汽笛が遠くで鳴る。


 こうして僕たちは、夏への切符を手に入れた。

 次は海だ。合宿だ。

 そして、そこには「管理」を超えた、さらなる波乱――水着と、夜の密会と、新たな試練が待っている。


 僕は窓の外を見た。

 入道雲が、夏を告げるように白く輝いていた。

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