衣替えと、三色のコーディネート
1
六月。
南国・鹿児島に、一足早い夏が忍び寄っていた。
梅雨入り前のこの時期、空気は水分をたっぷりと含んで重くなる。さらに今日は桜島の風向きが悪く、ジメジメした湿気の中に微細な火山灰が混じっている、最悪のコンディションだった。
「……あー、わっぜ(すごく)暑か……」
昼休み。二年C組の教室。
僕は机に突っ伏して、誰にともなく呻いた。
校則で衣替えの移行期間に入ってはいるものの、僕はまだ冬服のブレザーを着ていた。脱げばいいだけの話なのだが、中のシャツが汗で背中に張り付いているのを見られるのが嫌で、タイミングを完全に失っていたのだ。
優柔不断は、こういう場面でも僕の首を絞める。
「悠真、とろけちょっと?」
隣の席から、パタパタと下敷きで風を送ってくる人物がいる。
霧島楓だ。
彼女はブラウスの第一ボタンを開け、リボンを緩め、スカートの裾をパタパタさせながら(少々行儀が悪いが)、呆れたように僕を覗き込んでいる。
「ほら、シャキッとしな。汗かくなら着替えればよかとに」
「……着替え、持ってきてないんだ」
「またけ? 悠真はほんと、準備が悪かねぇ」
楓は「しょうがなか」と呟くと、自分のカバンから大判の汗拭きシートを取り出した。
そして、何の前触れもなく、僕の首筋に冷たいシートを押し当てた。
「ひゃっ!?」
「じっとしちょって! 首元がベタベタすっど。……ほら、気持ちよかろ?」
ひんやりとした感触と、シトラスの香りが広がる。
楓は甲斐甲斐しく僕の首筋や襟足を拭いていく。クラスメイトたちが「またあいつらイチャついてるよ」という生温かい視線を送ってくるのが痛い。
「あ、ありがとう……でも、教室でやるのは……」
「誰も見ちょらんよ。……あ、そうや!」
楓の手がピタリと止まる。
彼女は名案を思いついた顔で、僕の顔をまじまじと見つめた。
「悠真。あんた、私服どうすっと?」
「え? 私服?」
「そうよ。もうすぐ夏やん。悠真の持ってる夏服って、去年のヨレヨレになったTシャツと、中学生みたいなチェックのシャツくらいしかないやろ?」
図星だった。
ファッションに無頓着な僕は、母さんが買ってきた服か、数年前に買ったものを着回しているだけだ。
「高校生になったんやから、もっとシュッとしたの着らんと。……せっかくバレー部でカッコよくなってきたのに、私服がダサかったら台無しやん」
「うっ……」
「決まり! 今週末、買い物行こ! 悠真をテゲ(超)イケメンにしちゃっでな!」
楓はニシシと悪戯っぽく笑い、嬉しそうにスマホのカレンダーに入力を始めた。
「ウチが選んでやるから、日曜空けちょって! 拒否権はないよ?」
ウチが選んでやる。
いつもの管理宣言だ。でも、確かに自分では何を買えばいいか分からない(選べない)ので、正直助かる提案ではある。
僕は観念して頷いた。
「……分かった。頼むよ」
「ん、任せちょけ!」
平和な日常の一コマ。
……しかし、僕たちは忘れていた。
この教室には、地獄耳を持つ「管理者」の配下が潜んでいることを。そして、壁に耳あり障子に目ありのこの学校で、僕の動向を常に監視している「影」がいることを。
2
日曜日。午後一時。
鹿児島最大の繁華街、天文館。
待ち合わせ場所であるアーケード入り口の広場には、多くの若者が集まっていた。
僕は約束の五分前に到着していたが、すでに心拍数が上がり始めていた。
なぜなら、視界の先に、どう見ても「ただならぬオーラ」を放つ集団が見えたからだ。
「……なんで」
僕は天を仰いだ。
そこには案の定、三人揃っていた。
「悠真! 遅か!」
最初に気づいて手を振ったのは、楓だ。
今日の彼女は、気合が入っていた。
白のオフショルダーブラウス。鎖骨と肩のラインが綺麗に出ている。ボトムスはデニムのショートパンツで、健康的な太ももが眩しい。足元はウェッジソールのサンダル。
「THE・彼女とデートなう」という王道スタイルだ。周囲の男子の視線を集めているのが分かる。
「……先輩。時間厳守です。13時00分集合のはずですが、現在13時01分。移動のロスです」
腕時計をタップしながら睨んでくるのは、種子島凛だ。
彼女の私服は、予想通りというか、期待を裏切らない「機能美」の塊だった。
黒のオーバーサイズパーカー(有名スポーツブランドのロゴ入り)をダボッと着て、下は黒のスポーツレギンスにショートパンツを重ね着。足元は最新のハイテクスニーカー。
まるでこれからジムに行くかのようなアスレジャースタイルだが、ポニーテールが揺れる姿は都会的でクールだ。
「あら。偶然ね」
そして、黒いレースの日傘を差して優雅に佇んでいるのが、神宮司雫。
彼女だけ、季節感が違う。
黒のリネン素材のロングワンピース。ゴシック調のデザインで、つばの広い黒い帽子を被っている。
強い日差しを拒絶するような、全身黒ずくめ。まるで避暑地から抜け出してきた令嬢のようだ。
「画材を買いに来たのだけれど……日向くんが『着せ替え人形』になると聞いて、興味が湧いたの」
「……絶対、盗み聞きしてただろ」
「人聞きの悪い。風の噂よ」
雫は涼しい顔で嘘をつく。
楓が頬を膨らませて抗議した。
「もー! なんで二人ともいんの! 今日はウチが悠真をコーディネートする日なの!」
「霧島先輩のセンスだけに任せるのはリスクが高いと判断しました。選手の体温調節(ウェア)を管理するのはマネージャーの義務です」
「私は、君の審美眼を鍛えに来ただけよ。ダサい服を着たモデルなんて、描く気になれないもの」
結局、こうなるのか。
楓、凛、雫。
三方向からの「管理」を受けながら、僕はメンズ服のセレクトショップへと連行されることになった。
3
店内。
冷房の効いた涼しい空間に、色とりどりの夏服が並んでいる。
僕が試着室の前で待機している間に、三人はそれぞれのセンス(とエゴ)で服を選び始めた。
まるで獲物を品定めするような目つきで、ハンガーを物色している。
「これ! 絶対これや!」
最初に服を持ってきたのは、楓だ。
パステルブルーの爽やかなリネンシャツに、ベージュのチノパン。
「悠真は色が白かから、こういう明るいのが似合うと! ……ほら、着てみて!」
渡された服を持って試着室へ。
着替えてカーテンを開けると、楓が目を輝かせて手を叩いた。
「わっぜ良か! 爽やか! まるで少女漫画のヒーローみたいや!」
彼女は僕の襟を整えながら、満足げに頷く。距離が近い。甘い香りがする。
「これ着てデートしたら、みんな振り返っど。……うん、これにしよ。決定!」
「待ってください」
横から凛が割り込んだ。
彼女の手には、黒い高機能素材のTシャツと、吸汗速乾性のジョガーパンツ。
「霧島先輩のチョイスは、非合理的です。鹿児島の夏ですよ? 湿度80%超えの中で、そんな襟付きシャツなんて着てたら、熱中症でパフォーマンスが低下します」
「なっ……お洒落は我慢やろ!」
「無駄な我慢は寿命を縮めます。……先輩、こっちを着てください。UVカット機能付き、接触冷感素材です」
凛に渡された服に着替える。
……完全に「部活帰り」か「意識高い系のランナー」みたいな格好になった。
「……うん。機能美ですね。筋肉の動きを阻害しないカッティング。これなら街中で暴漢に襲われても、あるいはボールが飛んできても即座にレシーブできます」
「街中でレシーブせんわ!」
僕がツッコむと、凛はムッとして方言が出た。
「何があるか分からんやろ! 備えちょくに越したことはなか!(備えておくことに越したことはない)」
「……ふふ。どっちもつまらないわね」
最後に、雫が持ってきたのは――。
黒いシャツ。黒いスキニーパンツ。そして、なぜか黒いハットとループタイ。
「……神宮司さん、これ夏服? 吸血鬼のコスプレじゃなくて?」
「素材は高級シルクよ。肌触りは最高だわ。……着てみて」
着替える。全身真っ黒だ。鏡の中の自分は、ひどく顔色が悪く見えた。
カーテンを開けると、雫がうっとりと頬を染めた。
「ああ……素敵。まるで葬列に参列する若き詩人ね。その陰鬱な表情とベストマッチだわ」
「褒めてるのそれ!?」
「このまま私の部屋に来て。デッサンさせて。背景には枯れた薔薇を配置しましょう」
却下だ。暑すぎて死んでしまう。
4
「却下! 暗すぎ! 悠真の良さが死んでる!」(楓)
「却下! 視認性が悪すぎます! 夜道で車に轢かれますよ」(凛)
「あら、あなたたちのセンスこそ凡庸よ。大衆に迎合してどうするの」(雫)
試着室の前で、三人が揉め始めた。
僕は試着室の中で、脱いだ服(半裸)を持ったまま立ち尽くす。
……暑い。狭い試着室の熱気が上がってきた。三人の議論はヒートアップするばかりで、終わる気配がない。
「……あのー、とりあえず着替えていい?」
僕がカーテンを閉めようとした、その時。
ドカドカと誰かが入ってきた。
「悠真! やっぱり最初のが一番よかね! サイズ確認するからちょっと見せて!」
「えっ、楓!?」
楓がカーテンを強引に開け、狭い試着室に入り込んできた。
僕は今、上半身裸だ。ズボンも履き替えている途中だ。
「うわっ、ちょっと!」
「あ……」
楓が固まる。
僕の身体は、この一ヶ月の凛のスパルタトレーニングのおかげで、少しだけ筋肉が戻りつつあった。
うっすらと割れた腹筋。引き締まった肩周り。中学時代のヒョロヒョロだった頃とは違う、「男」の身体。
楓の顔が、みるみる赤く染まっていく。
「……ゆ、悠真、なんか……身体、ガッチリした……?」
「だ、だから着替えるって言っただろ! 出てってよ!」
「い、いいやんか幼馴染なんやから! 昔は一緒にお風呂入っちょったし! ……ていうか、近っ」
試着室は一人用だ。二人で入れば密着するしかない。
楓の柔らかな身体が押し付けられ、甘い匂いが充満する。彼女の体温が急上昇しているのが伝わってくる。
「……何してるんですか、先輩たち」
カーテンの隙間から、凛の冷ややかな顔が覗いた。
スマホのカメラがこちらを向いている。
「こ、これは不可抗力で……!」
「密室で半裸。……不純異性交遊ですね。風紀とバレー部の管理規定に違反します」
カシャッ。
シャッター音が響く。
「なっ、何撮ってんの!?」
「肉体改造の進捗記録(ログ)です。……大胸筋の発達は順調ですね。あとで拡大して解析します」
「消せ! 今すぐ消せ!」
「消さんよ。……データはバックアップが命やからな」
凛がボソッと方言で呟き、口元をニヤリと歪めた。その目は全然「記録用」の目じゃない。あきらかに私的なコレクションにする目だ。
「……騒がしいわね」
最後に雫も顔を出した。
彼女は僕の裸を見ても動じず、むしろ芸術品を鑑定するように目を細めた。
「……鎖骨のライン、綺麗ね。陰影が美しいわ」
彼女の冷たい指先が、僕の鎖骨をなぞる。
ゾクッとする。
「ねえ、その服、買わなくていいんじゃない?」
「え?」
「裸にエプロン……じゃなくて、裸にサスペンダーなんてどうかしら。前衛的で」
「捕まるわ!!」
5
結局。
大騒ぎの末、僕は楓が選んだシャツを買い(楓の顔を立てるため)、凛が選んだ機能性インナーを下に買い(汗対策のため)、雫には帰りにカフェを奢る(黙らせるため)ことで手打ちにした。
帰り道。
夕暮れの空に、桜島の噴煙がたなびいている。
新しい服の入った袋を持ちながら、僕はぐったりと疲弊していた。練習試合フルセットよりも疲れたかもしれない。
でも、隣を歩く楓は上機嫌だ。
「似合っちょったよ、悠真。……かっこよかった」
楓が小声でデレる。僕の腕に抱きつく力は、いつもより少し強かった。
「……先輩。筋肉量は増えてますが、まだ体幹がブレてます。明日からプランクの時間を倍にしますから」
凛が背後から追い打ちをかける。その手元のスマホには、さっきの「半裸写真」が保存されているはずだ。
「……ふふ。いい休日だったわ」
雫が満足げに微笑む。
夏はまだ始まったばかり。
僕の身体(と貞操)が、この三人の過剰な管理下で無事に秋を迎えられるのか、甚だ不安な休日だった。
だが、こんな騒がしい日常こそが、僕が選び取った「今」なのかもしれない。
僕は空を見上げた。
灰色の雲の切れ間から、一筋の光が差し込んでいた。
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