第9話
日が沈み、闇夜に月が上る頃、メルセスはブルーフィグ領を訪れる。昼間、舟を出すことを許可しなかった詫びとして、夜の舟遊びに誘われた。
ルピアは先にカールベル伯爵邸に帰った。セシリアを連れ帰ることを、まだ諦めていないメルセスだけが現れる。
「ルピも連れてくればよかったなぁ」
視線の先の川辺にはランプが点在し、淡い輝きで周囲を照らしていた。光を灯す虫がその周りに飛んでいる。幻想的な風景にメルセスはその場にしゃがみこんだ。
「……ちゃんと舟、用意したんだ」
呟くメルセスが肘をつく。しばらくすると、ファブラの声がした。
「時間通り来たんだな」
「全然詫びる態度には見えないけど」
「ああ、たしかに」
ククッと苦笑する。何故かファブラは昼間と違い、胸元の大きく開いたシャツに黒いジャケットを羽織っているだけ。メルセスは一瞥して、溜め息をついて立ち上がる。
「で? セシリアは? 迎えに来たんだけど。ちょうど父さんも帰ってきたし」
「結局それだな。セシリアを連れて帰ってどうする」
「彼女は僕の正妻だよ。その役割は知ってるはずだろ?」
「そうか。あくまで妻にするつもりなんだな」
「? 当然だけど?」
「なるほど。それは助かるな。セシリア」
ファブラが呼ぶと、木陰からセシリアが出てくる。彼女は昼間と違い、白いレースのドレスに身を包んでいた。薄手で透けそうなほど透明感があり、大きく開いた胸元から、金糸の刺繍が裾の方まで広がっている。
そのドレスは、新緑の髪を緩く纏めたセシリアの為にあるかのようで、まるで月の女神と見紛う姿だ。
メルセスが息を飲む。思わず声を上擦らせて、手を伸ばそうとした。
「セ、セシリア!? なんて格好をしてるんだ!? 今すぐ着替えるんだ!」
「おっと、触れないでくれ」
ファブラがその手を阻む。セシリアの腰を抱いて、引き寄せた。
「昼間も言ったが今の彼女は俺の客人だ。君には約束通り舟を用意したんだ。ゆっくりしてくれ」
「そうよ、メルセス。彼は私の友人だもの。こっちは勝手にしてるから、放っておいて」
セシリアがファブラの頬に手を伸ばす。愛おしげに彼がすり寄った。そのままキスでもしそうな距離感で顔を寄せる。見ていたメルセスが眉根を寄せた。
「それが友人の距離?」
「あら、あなたとルピア嬢も同じようなものじゃなくて?」
「そこまでくっついてないし」
「セシリア、奥に行こう。彼に用事はもうない」
「そうね」
体を寄せ合い歩いていく二人に、メルセスが慌てる。
「待ってよ! どこに行くんだよ」
「向こうで話すだけよ」
「それだけで済むはずないだろ?!」
「済むはずがない……あなたには覚えがあって?」
「それは……」
セシリアがスッと瞳を細める。そっと彼女から離れたファブラがメルセスの方に進んだ。彼はメルセスの肩を掴むと耳元に顔を寄せた。
「……わかるなら話が早い。彼女を娶るつもりなら、全て受け入れるしかないが構わないな」
「はっ……?」
メルセスが眉間のシワを深めて、唇をひくつかせる。婚約したとしても、婚姻を結ぶまでは、他の相手と契ったところで咎めることは出来ない。それが今の王国法だった。その危うさを無くすために皆、信頼関係を築き準備が整い次第、結婚していく。
だがメルセスは、セシリアの性格が堅いことに安心し利用していた。
どうせ他の相手など出てくるわけがない、と。
自分が気に入る容姿をしていなかったのも、放置することへ拍車をかけていた。
そこに今、別の男の存在が現れる。それも彼女へ触れようとしている男。いや、もう触れているのかもしれない。二人が体を重ねた可能性が頭を掠めて、頭に血が上る。衝動的にファブラを押して声を荒らげた。
「ふざけるな! どうして僕が引き取らなきゃいけないんだ! お前が責任取れよ!」
「ああ、そうだな。なら、もちろん婚約解消も」
「当然だろ! すぐに破棄するに決まってる! 手付きじゃなくても女はいるからな!」
「じゃあ早速頼もうか」
ファブラが川辺の切り株に乗せておいた鞄から、書類を取り出す。ペンと合わせて手渡した。
「さあ、ほら」
「……なんでここに」
「ん?」
「だぁああー!! 書くよ!! 貸せよ!」
奪うように取り上げて、勢いのままサインする。そのままファブラに投げつけ、メルセスは後退りすると「勝手にしろ!!」と吐き捨てて背を向け去っていく。
思った以上にスムーズに事が運び、セシリアがキョトンとした。
「もう……終わったの?」
「ああ。しっかりサインはもらったよ」
ピラッと見せた紙には、確かにサインが入っている。ただ、読めるかどうか寸前の文字列に、セシリアがファブラを見て、けれど一拍置いてクスリと笑った。
「まるで虫が這ったような文字ね」
「それでもサインには違いない」
「ふふっ、確かにそうね」
嬉しそうに頬を綻ばせて、「でも」と続けた。
「ずいぶん呆気なかったわ。これでずいぶん悩んでたのね、私」
「仕方ないさ、君がしっかり向き合っていた証拠だ。なあ、セシリア」
「うん?」
ファブラが彼女の手を取る。そっと口づけて、見つめた。その濃い茶の瞳に、セシリアがわずかに困惑する。だが逃がさないかのように、視線を動かさずファブラは真剣な声で応えた。
「こんな形で言うのは不本意だが、早くしなければ隣人が戻ってきそうだからな。セシリア、俺と……結婚して欲しい」
「ファブラ。その言葉は本当に愛した人のために取っておいて。今回のことは無事に済んだんだもの。あなたが私と結婚しなきゃいけないことはないの」
まだ、さほど過ごしていないものの、彼が芯のある誠実な人物だということは分かっていた。だからこそ、婚約解消について責任を感じて、求婚したのだとセシリアは思った。
だがファブラは首を横に振る。
「まだ互いを知っているとは言い難い。けれど俺は、君と過ごして、君の傍にいたいと思ったんだ。だから、これから互いを知っていかないか。もし妻となってもいいと思ったとき結婚してほしい」
「……」
少し悩んで、セシリアは小さく頷く。パッとファブラが表情を明るくさせた。しかし、それを留めるようにセシリアが言う。
「念のために聞くけど、私の顔は問題ないのよね?」
恐る恐る顔を上げて、伺うような紺の瞳を向けてくる。その仕草に可愛らしさを覚えて、ファブラはフッと頬を緩めると、セシリアの額へ軽く唇で触れる。それから頬にキスして耳元で囁いた。
「……君は俺の知る誰よりも可愛いよ」
「!」
セシリアの頬が赤く染まって、見上げる瞳に熱がこもる。ファブラはその両頬を包み、口づけを落とした。
fin.
顔がタイプじゃないからと、結婚を引き延ばされた本当の理由 翠月るるな @Ruruna25_
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