十三夜

葉蔵

名前の無い病

 俺は、俺含め、誰からも愛されなかった。

「愛されたかった」

少し涼しい風の吹く、鈍色の踏切で呟いたその声は、振動にかき消されてしまった。


 俺は貧しい家に産まれた。貧しいが、決して不幸せな家ではなかった。長期休みには映画を観せてくれたり、遊びに連れて行ってくれたし、誕生日になると、俺の欲しがった図鑑だってくれた。積み重ねて遊ぶブロックのおもちゃもくれた。

 だが俺は、そんな両親との想い出は幼少期のものしか無い。


 小学生の頃から、俺は周りに馴染めなくなった。(保育園の頃から馴染めていなかったのかもしれないが、覚えていないので小学生になってからという事にしよう)

 俺は人見知りで、友達が少ない。人と話す事自体は嫌いではないし、むしろ好きなのだが、どうしようもなく人が苦手だ。それは、初対面の人は何を考えているか分からないからなんだと思う。

 ニコニコして上辺だけ取り繕っていても、腹の底では罵詈雑言が木霊しているやもしれない。そう思うと、どうにも手放しで人と関わる事ができない。それはこの頃からずっと変わらなかった。俺の両親はそれを良しとしなかった。

 俺は一人っ子で、経済的にも二人目は望めない。両親は一人息子である俺に「普通」に、周りの子達と同じように、生きてほしかったのだろう。

 そうなれなかった俺は、段々と両親から期待されなくなった。それからの両親の目を思い出すと、冷たい刃で胸を貫かれるような思いをしてしまう。それを避けるために、多分、俺は両親との想い出を捨てたのだと思う。


 何故周りと違い友達ができないのか。そう悩んだ事もある。早生まれで周りと比べ発達が遅いから?いや違う。クラスで人気者だったあの子も早生まれだった筈だ。俺だけが馴染めていなかったのだ。

 俺が奇天烈な言動をしているのか?これも違う。テレビで人気の芸人は、奇天烈な事をするが親しまれている。それに、個性の無い人間なんてもの、この世にいない筈だ。

 今思うと、ただ、頭が堅かったのだ。俺は、机に座ったり、道路で横並びになるのを良く思わなかった。決して真面目だった訳ではない。ズル休みだってしたし、勉強だって、全くしない訳ではないが、机に向かうのも少ない時間だけだし、サボる日だってあった。

 その上、俺は、人が苦手だと理由をつけては、人と関わろうとする努力というものを、中学に上がるまで一切していなかった。そもそも俺は努力というものが苦手で、今まで努力した事なんて片手で数えられる程度しかない。

 俺は努力が如何しようもなく怖い。もし報われなかったら、そう考えるだけでも身震いがする。報われなかったら、その、努力に費やした時間はどこへ消える?努力が報われたとして、本当に俺が望む結果になるのか?望む結果にならないのならまだしも、望まない結果になってしまったら?努力をしようとすればする程そう考えてしまう。ならばいっその事、辛酸を嘗めてまでする努力を止めようと、そう思ってしまった。

 そんな、変に堅く、自ら関わろうともしない俺と友達になろうなんていう好事家はなかなかおらず、俺には疎外感という感情が芽生えた。実際に皆から仲間外れにされていたとは言わない。ただ、スイミーが他の魚とは違うように、自分だけが周りから浮いているような、そんな疎外感を覚えた。スイミーと違う所は、他に必要とされているか否かだけだろう。


 小学生は精神が未熟だし、中学に上がる頃には馴染めるようになると、周りと同じようになると、俺の両親は考えていたのだろう。だが現実はそうならなかった。それどころか、ますます弾き出されるようになってしまった。

 段々と両親からの期待を感じなくなったのはこの頃からだったと思う。しっかりご飯も作ってくれたし、教育費も出してくれた。多分、期待を止めたのは無意識だったのだろう。

 小学校低学年の頃こそ、俺に友達を作ろうと頑張ってくれていた。地域のスポーツクラブの体験へと連れて行ってくれたり、母、俺、母の友達、その子供の四人で遊びに出かけたりもした。しかしこの頃の俺は(今も大して変わらないが)酷く人が苦手で、サッカーをしても人が集まっているのが怖くてボールを取りに行けないし、遊園地に行っても母の陰に隠れてしまって、人と話す事をしなかった。何回、何十回頑張っても成果の出ないものに力を注ぎ続ける訳もなく、心が折れてしまったのだろう。段々と、俺に期待の目を向けなくなっていった。

 日を経る毎に両親から失望される、その感覚は、嫌にはっきりと覚えている。心にぽっかり穴が空いているようだと言うとありきたりだが、煙草を吸うと肺が煙に侵されるように、心という臓器が、何か、冷たく不快なものに侵されていくような、そんな感触があった。それを感じてしまうのが嫌で仕方なくて、俺は、頑張りたくなくなってしまった。


 中学一年生の俺は、友達を作ろうと躍起になっていた。兎に角、一人でも友達が欲しかった。誰でも良いから、俺に興味を向けてほしかった。

 俺の両親は、俺に期待するのを止めて興味も失っていっていた。それを見て俺は、両親はいつか俺を愛さなくなるのではないかと、そんな考えに支配されてしまった。それが実現すると、俺は独りになってしまう。その世界は俺にはとても耐えられない。だから、そうなる前に、俺に興味を抱き、欲を言えば愛してくれる希望を探そうと思った。


 まず、席が隣の人に話しかけてみた。その人とは会ったら挨拶はするし、少し話もするようになったが、その会話は大して続かず、友達と言えるような関係にはなれなかった。

 次に、部活動に参加してみた。これは、すぐに行かなくなってしまった。趣味程度の事柄に本気で打ち込む(それが悪いとは言わないが)その空気感がどうも苦手だった。

 例えば、テレビゲームが趣味だったとして、それを部活にすれば、きっと「そんな遊びを学校に持って行ってまでやるなんて、なんてだらしないんだろう」だとか、「そんな事をしている暇があるなら勉強をしろ」と言われてしまうだろう。だが俺は、部活動にできるものとできないもの、その二つの違いを感じられなかった。趣味なら貴重な学生時代を捧げなくとも、社会に出てからでも嗜めるし、そもそも、俺は辛い思いをしてまで趣味にのめり込むタイプではなかった。楽しくやるからこそ、趣味は趣味であるのではないか?そう思ってしまって、俺は部活動に行けなくなってしまった。


 そんな中でも、俺には一人の友人ができた。A君としよう。何故本名ではないのか。それは、俺がA君の名前も顔も覚えていないからだ。いや、思い出したくないと言った方が適当だろう。思い出してしまうと、俺は、今思うと幸せだったあの頃を羨んでしまうから。街中でA君の顔を見た時に呼び止める事ができてしまうから。

 A君は朱に交われば赤くなるような奴で、苦労せずとも周りに馴染めるが、積極的に人に声をかけるような柄ではなく、俺と同じで友達が少なかった。多分、友達は一人いれば良かったのだろう。


 中学二年生になってすぐ、俺とA君は仲良くなった。

 一緒に勉強したり、ポイ捨てしようとするA君を俺が咎めたり、逆に、学校をサボった時には俺の家にA君がプリントを届けに来てくれ「明日こそは来いよ」と、俺の肩を軽く小突きながら言ってくる事もあった。学校から見て、A君と俺の家は真逆にあるのに、態々引き受けてくれたのだろう。それが嬉しくて嬉しくて、俺は、A君が自転車を漕いで家へ帰るのを姿が消えるまで見送っていた。

 俺は流行りのゲーム機などは持っておらず、A君と遊ぶ時は彼の家へ遊びに行く事が殆どだった。

 この頃になると俺も親からの愛を諦めていて、学校から一度帰るなんて事はせず、学校からそのまま遊びに行っていた。夜遅くに帰っても、かけてくれる言葉はたった一言「遅くなるなら連絡してよ」だけで、どうせ、それ以上怒られる事はない。

 A君の家には様々なゲームがあった。シューティングゲームや箱庭ゲーム、レースゲームもあったし、A君のやらなそうなパズルゲームまであった。しかし、これ程多くのゲームがあるのに何故かソロ専用のゲームは無かった。理由を訊くとA君はテレビに向けた視線を逸らす事なくこう言った。

「俺、誰かに誘われなきゃゲームやらないから」

 周りを良く見て、周りに合わせ行動する、そんなA君らしい返答だ。当時はそう思っていたが、今考えてみると、毎回、興味の無いゲームに付き合っていてくれたのだろう。


 三年生の初夏。ある日、A君が本を勧めてきた。太宰治の『人間失格』だ。感想を言い合いたいから読んでくれ。と。

 学年が変わって、俺達は偶々同じクラスになれたものの、席は隣同士じゃなくなってしまった。それでもA君との交流は続いていた。休み時間になると、雛鳥が親鳥に着いて行くようにA君の下へ話しかけに行く。そんな日常だった。

 この頃の俺には、他に友好関係を広げようなどという気は一切無かった。A君が友達でいてくれたら、それで良いと思っていた。


 借りた『人間失格』を持ち帰り「ただいま」と言う。すると「おかえり」そう返ってくる。だが、その言葉はどこか冷淡で、俺の覚えている声とは違う。そんな声にももう慣れてしまっていた。

 夕食は好きではない。記憶とは見違えた父母と同じ机を囲み、二人が話しているのを俺は聞いているだけ。

 最初の頃は必死で、学校での事やテレビで見た事を話していた。返事はあったが、それはやはりどこか関心が無さげで「冗長だ」と、そう思っているのではないかとどうしても考えてしまう。そうすると、また、心を侵食されていくような感覚が襲ってくる。それを押し込めながら、通り辛い喉に無理矢理ご飯を流し込む。そんな食卓が苦手であった。


 夕食後に『人間失格』を読むと、俺の脳味噌には霹靂が走った。

 俺は、俺が人に合わせてものを言えないから馴染めないのだと思っていた。しかし、主人公である大庭葉蔵は本音に蓋をして上手く立ち回っているにも関わらず、俺よりも大きな疎外感を抱えていた。俺のこの悩みは、俺が思うよりもずっとずっと凡庸で、皆も抱えているものだったのだ。俺は今まで、これは俺だけが抱えていて、誰にも理解してもらえないものだと、そう思っていた。それが、そうではないと、この悩みは普遍的で、お前は普通の、どこにでもいる一人の中学生なのだと突き付けられた訳だ。俺の心はヘリウムガスの入った風船のように軽くなった。

 大庭葉蔵と同じように周りに気を遣うA君ならば、俺のこの悩みもきっと理解してくれるに違いないと、そう思った。だが翌日、気の向くまま浮かんでいた俺の風船は言葉の棘によって割られ、地の底まで落ちてしまった。


 この日、俺はA君に会いに行き、心踊りながらも考えてきた感想を述べた。朧気だが「どこか疎外感を感じてしまう悩みは俺だけが抱えているものではなかった。それに安心した」そのような事を言ったと思う。

「皆そんな悩み無いよ。てかさ、主人公名前何だっけ?まあいいや。あいつメンヘラすぎてキモくね?」

A君はそうに言った。確かに言った。

 大庭葉蔵は、俺の、この患ったばかりでまだ小さな悩みの代弁者だった。火元も大きさも違ったが、燻っているその煙は、確かに俺と同じ色であった。それをA君は、自分より格の低い同類を苛める猿のように、はしゃぎ、嘲ったのだ。

 俺は、A君を避けるようになった。嫌いになったとか、悪意を持った嫌がらせを受けたとか、そんな大層な理由ではない。ただ、彼が大庭葉蔵に対して放った言葉が、大庭葉蔵を通して俺まで否定しているかのような、そのような感じがしてしまった。


 俺がA君を避けるようになって数週間後。俺は久しぶりに登校した。行かなければ、普通の人間との差が余計に開く事など俺だって分かっている。それでも、あの言葉を思うと行く事ができなかった。

 外に出ると雨が降っており、憂鬱な気分が更に重くなった。文鎮になった足で一歩を踏みしめ、教室のドアを開ける。皆、一瞬だけこっちを見るが、すぐ元の姿勢に戻る。俺は硬く手を握りながら、A君の席へと近付き、声をかけようとした。久しぶりに見るA君はクラスメイトと楽しそうに喋っていた。

 A君は苦労せずとも周りと馴染める。所詮、A君にとって俺は、偶々席が隣だっただけの存在だったのだ。いなくなっても替えのきく、そんな存在だったのだ。


 自分の席に座ると、俺に気付いたらしい前の席の生徒が椅子の背に腕を置き、声をかけてきた。

「あいつ、君が来なくなってからすぐ他の友達作ったんだよ。君を心配する素振りなんて見せずに。そういう奴なんだよ。私は君達の事、仲良さげだなって事くらいしか知らないから、あまり下手な事は言えないけどさ。でもきっと、君が悪い訳じゃないと思うから、まあ、難しいだろうけど、そんな気にすんなよ」

 彼女は栗名結衣。俺が休むようになる前、彼女が数人の友達と話している所をよく見かけた。友達も多く、俺とは比べ物にならない程に同じような経験をしてきたのだろう。しかし、俺にとっては、初めての友達が、初めていなくなったのだ。気にせず、忘れ去る事なんてできる筈もない。


 その日から、栗名結衣は俺に話しかけて来るようになった。多分、唯一の友達を失った俺に、哀れみの目を向けていたのだろう。

「ねえねえ、休みの日とか何してんの?私はね、ダラダラしてるよ。なんにもやる気起きなくてさー」

ある日はこんな風に、俺の机に腕を乗せながら言ってきた。

「本読んだり、ゲームしたり。外に出て遊ぶ事は無いな」

「ふーん。じゃあさ、オススメの本教えてよ。気が向いたら読んでみる。読みやすいやつにしてね」

どうせ読まないだろうな。と、期待せずに教えた。満足をしたのか、彼女は「ありがと。読んでみる」と言い、机に貼り付いた腕を、しとっと音を立てながら剥がし前に座り直した。

 意外にも、それから一週間が経った頃に感想をくれた。「面白かった」と。まさか、本当に読んでくれるとは思っていなかった。俺は他にも本を勧めた。三冊勧めた所で、彼女の困る顔が鮮明になった。

「あ、ごめん」

思わず俺がそう言う。俺の好きな本を読んでくれたのが嬉しくて、つい、調子に乗ってしまった。

「いいよいいよ、でも、普段本読まないからさ、あんま期待しないでね」

彼女は、困った顔のまま、だが、声だけは調子良く、そう言った。


 またある日は、好きなアニメを訊いてきた。

「アニメ観ないんだよなぁ。栗名は前に勧めた本読んでくれたし、オススメのアニメ教えてくれたら俺も観てみるよ」

彼女が、俺の勧めた本を読んでくれた時、俺は雲だって掴めると思った。あの時試さなかっただけで、本当に掴めただろう。その喜びを共有したかった。

「え、好きなアニメかぁ。困ったな、無いや」

「何で訊いたんだ」

「いやいや、話題を提供してあげたのよ」

「広げろ。提供した責任を放棄するな」

無責任にも程がある。あの感覚を味わわせたい。折角そう思ったのに、俺にはその手段がない。それならばと、他に好きな物はないのかと訊いてみたが「前はあったんだけどね、最近興味無くなっちゃって」と返ってきた。

 しかし、どこか寂しげにそう言う彼女を責める事は、俺にはできなかった


 このように、話す事も無いくせに、それはもう色々と話しかけてくれた。

 彼女は、俺が友達を失った事を悲しむ間すらも与えてくれなかった。それがとてもありがたかった。俺の心はきっと、友達を失った、その寂しさに耐えられる造りになってはいなかったから。もし、彼女が話しかけてくれなければ、どうなっていたのだろうか。考えたくもない。もしかしたら、俺は一生に渡って人と関わろうとせず、その生涯を終えていたかもしれない。そう思うと、強大で醜悪な不安に押し潰されてしまいそうで、とても耐えられない。彼女は俺にとって、未来を良い方向へと変えてくれた恩人だと言えよう。


 「そういえば、何で俺に話しかけてくれたの?それまで関わりなかったのに」

俺と彼女とが仲良くなってから数ヶ月が過ぎた頃、ふと、ずっと疑問に思っていた事を訊いてみた。

「かわいそうだったからね。君、A君以外と話してるところ見たことなかったし。あ、冗談だからね?!理由は他にあるよ。でも内緒」

そう、笑って言った。自然に出た笑みを天然だとするならば、その笑みは人工的で、いや、確かに笑顔なのだが、ロボットの顔を見ると不気味の谷現象が起こるのと同じような、そんな違和感を覚えた。

 俺はその裏を知りたかった。だが、その不気味な顔と、我が友を不気味だと思ってしまった罪悪感とに気圧されてしまった。俺は喉仏を動かす事はできても、どうやるか、その方法を忘れてしまったかのように、声を出す事はできなかった。その様子はまるで、餌を求め水面に口を出す鯉のように見えただろう。それを見た彼女は、次に、一重瞼で細い目を更に細め、天然の笑みを浮かべた。


 それから暫くして、彼女がクラスメイトの男子と話している所を目撃した。彼女が俺以外の生徒と話しているのは久しぶりに見た。彼女には友達が多かったし、彼もその一人なのだろう。

 何を話しているのだろうか。勉強の話か?それとも、部活の話?いや、栗名結衣は部活をしていなかった筈だ。だとすれば何の話をしているのだろう。友達な訳だし、たわい無い話だろう。そうは思えど、俺の心は久しく経験していなかったあの冷たさとざわめきとに襲われた。

 それからの授業は、その事に意識が奪われてしまい、頭に入らなかった。何しろ、前の席に栗名結衣が座っているのだ。黒板に集中しようとしても、どうしても彼女が目に入ってきて、そうすると、次第に思考の制御が利かなくなる。授業に集中しようと考えれば考える程、俺の頭は彼女で染まってしまう。

 それは帰ってからも同じだった。その日の夕食は、不思議と鬱々としていなかった。頭の中は栗名結衣で埋まっていて、両親の会話が俺の意識に届いていなかったからだ。

 夕飯を食べている最中、一度だけ呼びかけられた。「どうした、何かあったのか?」と。いつもは静かに自分達の話を聴いている息子が上の空だったから、気になったのだろう。俺は「何でもないよ」そう、ただ一言だけ答えた。

 ここで俺はふと気付いた。中学に入ったばかりの俺だったら、嬉々として、真っ先に両親へと向かって報告していたのではないか?と。A君と友達になった時もそうだ。帰って一番に言う事は「ただいま」ではなく「俺、やっと友達できたよ」であるべきだった。そうしたら、両親からの期待を取り戻せた筈だ。当時それをしなかったのは、思えば俺も、両親に期待するのを止めていたのかもしれない。

 ある物事のきっかけというものは、どんな大きさでどんな重さでも、きっかけでしかない。それ以上にもそれ以下にもなれない。俺の場合、きっかけは親からの期待で、今求めているものはそれ以外の人からの愛だ。もう、取り返しがつかないのだ。最初は親からの期待を求めていたが、次第にそれを諦めるようになり、終いには、どこの誰かも分からぬ、まだ会った事も無い他人から、愛を求めるようになってしまった。この欲求はもう、取り返しがつかないのだ。

 この頃の俺は、両親からの関心を取り戻したとしても「やってやった」と一喜する事も無ければ「もっと早ければ」と一憂する事も無かっただろう。子は親の背を見て育つと言う。俺は親の背を見た結果、親不孝な事に、今後一切、褒めてもらいたいだとか、心配してもらいたいだとか、そういった、親への幻想を失ってしまった。


 夕飯を食べた後、俺はすぐに床へ就いた。そして考えた。

「あの感情は何なんだろう」

寝ずに考えた。ずっと、ずうっと考えた。そうして答えが出たのは、考え始めてから三日目の夜の事だった。

 その日俺は「これが恋か。そうに違いない」そうに思った。この感触が恋ではないとすれば、医者にかからないといけない。そうしなければ、きっと俺はこのざわめきに蝕まれ、いずれ死んでしまうだろう。

 この感情を自覚してから行動するまで、そう時間はかからなかった。


 次の日の放課後、その日は曇天だった。帰路に就いた俺達は、いつも通り、たわい無い話をしていた。

 雨が降った匂いの中、俺は深呼吸をして、遂に言った。

「あのさ、俺、前に栗名が他の男子と話してるところ、俺見ちゃってさ。嫌だった。だから、多分、栗名の事好き……なんだと思う。だから、俺と付き合ってくれないか?」

 あぁ。情けない。俺は、好きな女に告白をする時、目も合わせられやしないのだ。

 水溜まりに映る彼女の顔は、どこか困ったように見えた。そりゃあそうだ。彼女から見た俺は、お世辞にも誠実には見えなかっただろう。顔だって、耳だって真っ赤になっていただろうし、殆ど寝ていないので、隈も目立っていた筈だ。言葉だって、紡ぐのがやっとだった。そうして紡いだ言葉も適切ではなかっただろう。断られると、そう思っていた。だが、彼女からの返事は意外なものだった。数秒の沈黙の後、ただ一言「よろしくね」と。


 それからの数ヶ月はとても短く感じられた。

 お金が無いからと、俺たちは頻繁に電話をしたり、学校の休み時間に話したり、そんな、贅沢ではないが幸せな日々を過ごしていた。

 俺の両親も頑張ってくれていたのだろうが、それでも、貧しい家の小遣いでは二、三ヶ月に一度出掛けるのがやっとだった。それでも、一回だけデートに行ったのを覚えている。


 その日は水族館に行った。

 その日の彼女は、ずっと、人工的な笑みを浮かべていた。大きな水槽から出る、屈折した光に照らされた一重瞼で妖艶な彼女の姿は、人を惑わせるセイレーンのように不気味で、そして、美しかった。

 なのに俺は、それに気付きながらも、この瞬間を守りたくて、気付かぬ振りをしてしまった。それだけならまだしも、俺は無意識の内に、それを守る事を強要してしまった。

「楽しかった。またどっか行こうな。何ヶ月か先になっちゃうだろうけど」

帰宅途中の電車内で、俺はそう言った。この日一度も、彼女が芯から楽しそうにしている表情を見なかったにも関わらずだ。なのに「今日は互いに楽しいと思えた」という事実を作りたくて、いや、そう捻じ曲げたくて、彼女の気持ちに寄り添う事をしなかった。


 数日後「ごめん」とだけ書いた紙を机に置き、栗名結衣は自殺を謀った。ベッドのシーツを剥ぎ、それをロープのようにしてドアノブに掛けて、首を吊ったそうだ。

 栗名の母親がすぐに発見したおかげで、大事には至らなかったらしい。面会に行こうとしたが、それはできなかった。

 暫くして、俺宛てに手紙が届いた。栗名からだった。開くと、一番上にはやはり「ごめん」と書いてあった。

「きっとびっくりしたよね。実は何ヶ月か前に私がやらかしちゃって、それから友達が話してくれなくなっちゃったの。それで、たまたま同じタイミングでひとりになった君を見て話しかけたんだ。私は辛い思いをしてる君に漬け込んだ。もう人に嫌われたくないと思って、君のことを知ろうとしたし、君がおすすめしてくれた本は頑張って読んだ。自分からは読まないから面白かったし、君と話すのも楽しかったよ。でも、私が君に抱いてるのは友情だったから、君が告白してくれた時は正直言ってびっくりした。それでもオッケーしたのは、告白を断ると君からも嫌われちゃうと思ったからなの。でも何日か経ってから、君は私を想ってくれてるのに、私は自分のことしか考えてないことに罪悪感が湧いてきちゃって。それがだんだん大きくなって、あの日押し潰されちゃった。私が君と付き合ったのは、私がひとりにならないように、君を利用した結果なんだよ。最低だよね。今までありがとう。本当にごめんね。」

 これが、栗名からの手紙の全容だった。

 最低だ。本当に。俺がそんな事で栗名を嫌う筈も無いのに。もっと早くに言ってくれれば、こんな事にはならなかったかもしれないのに。でも、俺はもっと最低だ。俺は優先順位を間違えてしまった。自分を優先してしまった。あの時、俺が真に優先しなければいけなかったのは彼女の感情だった。水族館でのあの表情は、何か他に問題があって、それで気分が落ちているのだろうと、俺は、その程度に考えていた。その程度にしか考えられなかった。もっと栗名に気を配っていれば、今もまだ栗名と笑いあえていたかもしれない。もっと自分の感情を抑えれていれば、栗名は死ぬ事なんて考えなかったかもしれない。それに、少なからず栗名に「最低」だと思ってしまっている。栗名の感情を蔑ろにして、かつ栗名の事を心のどこかで責めてしまっている、そんな俺の方が最低なのに。


 栗名がそれからどう過ごしていたか、俺は知らない。栗名が学校に来なくなったからだ。そりゃあそうだろう。噂はどこかから漏れ出るものだ。学校に戻って来たとして、ただでさえ肩身の狭い思いをしていたであろう栗名は、ひそひそと流れる噂話に敏感になりながら、残り少ない中学校生活を乗り切らなければならない。俺がもし栗名の立場であっても、学校へは行かないだろう。


 この日から俺は独りになった。友達ができなかった。もっと正確に言うと、俺が一方的に友達だと思う奴はいた。しかし、あの時から俺は、友達だと思えるやつがいたとして、俺から栗名へ向けていた感情が一方通行だったように、この友情も一方通行なのではないかと考えるようになってしまったのだ。相手が「俺も友達だと思っているよ」と言ってくれても、どうしても、これは社交辞令なのではないかと思ってしまう。哀れな俺を気遣っているのではないかと。

 この頃から、俺が孤独感を覚えなかった日は無い。


 高校は遠い所を選んだ。知った顔を見てしまうと、中学の思い出が蘇ってしまいそうだから。電車通学のため、バイトも始めた。

 二年生になってすぐ、俺はいつもの電車に、俺と同じ高校の制服を着た女が乗っている事に気が付いた。見慣れない顔だった。新入生だろう。そう思っていたら、彼女がその短い癖のついた髪を耳にかけ、その拍子に、二重瞼の、くりくりとした目がこちらを見て唇を動かした。目が合ったので、挨拶をしたのだろう。俺は軽く会釈をした後、距離をとりつつ登校した。

 それから数週間が経って、俺と彼女は少しだけ話すようになった。名前も知る事ができた。

「もう学校には慣れた?」

黒瀬灯のぱっちりとした目に見つめられ、俺は振り絞ってそう言う。

「はい!入学前は心配だったんですけど、クラスのみんなも話しやすくてよかったです。一人仲良い子がいるんですよ!髪の毛サラサラでかわいくて、友達想いの超いい子なんです!」

「友達ができたみたいで良かった。怖い人とかいない?先輩でも、同級生でも」

「いないです。先輩たちとは関わりがないので分からないですけど、多分大丈夫だと思います!」

「それなら良かった。何かあったら相談してね」

「ありがとうございます!」

降りる駅まで、あと二駅ある。この気まずい雰囲気を破ったのは、黒瀬灯だった。

「あの、先輩。今日、一緒に帰りませんか?」

いつも帰り道で話すのは駅からなのと、親睦を深められると思って、俺は「良いよ」と返した。


 それから暫く経った、雨上がりのじめっとした日。俺達は西陽に顔を顰めながらも、三叉路までの道をいつも通り歩いていた。

「先輩って、告られるならどんな感じに告られたい人なんですか?」

俺達は恋バナをしていた。駅を出て少し経った頃、黒瀬灯がいきなり「先輩!たまには恋バナでもしてみましょう!」と言ってきたからだ。

「どんな感じかぁ、考えた事も無かったな。やっぱり対面で『付き合ってください』じゃないか?こういうのはシンプルイズベストだよ」

「先輩、面白みが無いですね」

黒瀬灯の澄んでいて、かつ鋭い声でそう言われた。それに胸を貫かれ、恐る恐る黒瀬灯の方に視線を向けると丁度、その二重瞼の目と、俺の目が合った。

「それじゃ先輩、私と付き合ってください」

彼女は焦げ茶の瞳でこちらを見上げ、少し上擦った声でそう言った。

「よろしくね」

俺は、そう返した。

 正直、俺は彼女を恋愛対象として見ていなかったし、それどころか、まだ栗名結衣に向けた感情は仕舞う事ができていなかった。それなのに俺は、栗名結衣の事を忘れたくて、付き合ったら黒瀬灯の事を好きになれると思って、告白を受け入れた。受け入れてしまったのだ。これでようやく、”あれ”を過去の出来事にできる。そして何より、こんな俺を好いてくれて、付き合いたいとまで思ってくれている子がいるのだと。

 もう今後一切彼女の事は忘れて、この子を幸せにしようと、本気でそう誓った。

 三叉路で黒瀬灯と分かれて、俺は家までの道を、足取りの軽さを感じながら歩く。その途中、死んだ鳩が二羽の鴉に食われていた。


 俺は黒瀬灯を恋愛対象として見れないのかもしれない。俺と黒瀬灯の匂いが服で混じっているのを感じながら、俺はそう考えていた。

 付き合ってから数ヶ月が経っても、俺は黒瀬灯を好きになる事ができていなかったのだ。俺達は何回もデートをした。俺は、何回も彼女の笑顔を見た。彼女は、何回も俺を笑顔にしてくれた。この数ヶ月で、色んな事をした。だが、どうしても、好きになる事ができていなかった。そのうち、このまま付き合っていくのは、不誠実なのではないかと思うようになった。人間というものは、一度そう思ってしまったら、蟻地獄に嵌ったかのように、それに思考が囚われてしまう。俺が黒瀬灯に対して罪悪感を抱き、それに押し潰されるまで、何週間とかからなかった。栗名結衣は、これに数ヶ月という長い間、闘い続けていたのか。そりゃあ、死にたくもなる。そう思ったのを覚えている。少なくとも、俺には辛抱できなかった。

 臆病な俺は、メッセージアプリで別れを告げた。もちろん、正直に話した。だから、返ってくるのは罵詈雑言の嵐だろうと思っていた。しかし

返ってきたのは淡白な言葉で、俺は心から安堵したのをよく覚えている。


 高校も卒業しようかという頃、俺はもう、俺の持つ恋心(そんなに可愛く、綺麗なものでも無いが)が嫌になっていた。それはそうだ。俺の頭の片隅にはいつも栗名結衣がいる。例えば、パンダのニュースを見たとしよう、そうすると、栗名結衣が自慢気に「先に”パンダ”って呼ばれてたのはレッサーパンダなんだよ!なのにパンダが見つかったから、小さいって意味の”レッサー”を付け足されたんだって。知らなかったでしょ」と、訊いてもない豆知識を披露してきた事を思い出す。例えば、ポイ捨てをする人を見たとしよう、そうすると、同じようにポイ捨てする人を見た栗名結衣が、態々拾ってゴミ箱へ捨てていたのを思い出す。俺は、栗名結衣を忘れたくて、仕方が無かった。

 そんな時、バイト先に新しく学生が入って来た。俺と同じ高校に通う、二年生。佐伯遥香だ。俺と彼女が同じ高校に通っているという事もあって、俺が彼女の研修係になった。緑の黒髪をした彼女は、目元だったり雰囲気だったり、どことなく栗名結衣と似ていた。最初は関わるのが嫌だったが、研修係を任されたので、致し方無く仕事を教えながら、俺達は段々と仲良くなった。連絡先も交換した。バイト中も、バイトから帰った後も、色んな話をした。好きな音楽や学校の行事の話、この先生の話が面白いだのつまらないだの、そんな事を、沢山話した。

 彼女は、哲学的な、答えの無い話にも、真剣に耳を傾けてくれた。「愛とは何か」のような話だ。この話題が出た時、俺は「自分を優先せず、相手を想い続けられるような感情」だと答えた。彼女が言う愛に、俺は感銘を受けた。

「私は愛には二つあると思ってて、一つは、相手に見返りを求める事無く与え続けられる愛。もう一つが、相手を許せる愛。その二つが揃ってやっと”愛”って呼べると思います」

これが、彼女にとっての、愛の定義だった。俺はそれに倣おうと思った。俺は、そこに惹かれた。

 俺はそれから、もっと彼女の考えを知りたいと思うようになり、そういった話題を頻繁に佐伯遥香へ投げかけるようになった。「善悪とは何か」や「ロボットと人間の境界線はどこか」等だ。それでも彼女は嫌な顔一つせず考えてくれるものだから、俺はもうどんどんと、佐伯遥香という底無し沼に沈んでいった。

 暫くしたら、俺達は店長に「仕事中にイチャイチャするなよ〜」と揶揄われる程に仲良くなっていた。「佐伯は嫌だろうな」と彼女の方をちらと見ると、彼女も、紅潮かつ満更でも無い顔をして「してないですよ〜」と言って、その一重瞼を細めて笑っていた。俺が彼女を意識し始めたのはこの頃だったように思う。

 この頃俺達は、両片想い特有の掛け合いをするようになっていた。傍から見たら、あたかも付き合っていると見えるような、そんな掛け合いだ。そのうち、俺の中で、底の見えないどす黒い孤独感が顔を出し、俺を、その崖っぷちへと誘うようになった。いや、というよりは、俺が元々持っていた”孤独感”という癌が大きくなり、俺を蝕み始めた。兎に角、俺の持つその病に、俺は苦しめられるようになった。


 佐伯遥香がこの店で働き始めてから数ヶ月が経ち、もう彼女に研修は必要無くなった。俺はもうすぐ卒業してしまう。卒業後は地元から少し離れた会社に就職するので、このバイトは辞めなければならない。もう内定も決まっていた。そうしたら、もう彼女と会う事はできないかもしれない。俺はそう思って、すぐに告白し、彼女もそれに応えてくれた。これで、この孤独感に犯される事も無くなると、そう思っていた。

 翌日の夜、通知が鳴った。佐伯遥香からだった。心踊りながらメッセージを開くと、そこには「急にごめんなさい。別れましょう」という文があった。俺の心はまた、冷たい煙に侵された。すぐに理由を訊いた。どこが駄目だったのだろう。それを知らなければ、俺は今後一切、眠る事も、ご飯を喉に通す事もできない。

「私、黒瀬灯と友達なんですけど、先輩、黒瀬と付き合ってたらしいですね。しかも好きな人がいるからって数ヶ月で振られたって聞きました。そりゃ別れたくもなるでしょ」

そう返ってきた。俺はまた、自分の勝手で人を不幸にして、自分自身も不幸にした。中学の時から、何も学んでいない。自分は人間という生き物の、淘汰される側なのだ。それを、酷く痛感した。

 「別れるのは受け入れるから、説明させてくれ」齟齬のあるまま別れるのはどこか引っかかる。この期に及んで、自分の気持ちを優先した末の言葉だ。

 俺は説明した。中学の時に付き合っていた人がいる事、高校に入ってもその人を忘れずにいた事、そんな中で黒瀬灯が現れて俺を好きだと言ってくれ、忘れられるかもと思ってしまって付き合った事、そして、数ヶ月が経っても忘れられず、別れを切り出した事、申し訳無い事をした。と、ありのまま説明した。「そうですか。ありがとうございました」と返ってきて、そのまま、連絡は途絶えた。

 それからの俺の事は言うまでも無いだろう。激しい自己嫌悪、学校中で噂になっているんじゃないかという恐怖。一週間前後、学校を休んだ。人の目が怖くて、行けなかった。友達だと言ってくれていた奴が、他人行儀になっているのではないかと思って、確認をしてしまうのが怖くて堪らなかった。

 俺はさっき、”一週間前後、学校を休んだ”と言った。それは、その後すぐに退学したからだ。


 俺が陰気な気分を紛らわせようとSNSを見ていると、ある投稿がバズっているのが目に入った。「何コイツ、私が悪いみたいに言ってるんだけど。そもそも好きなんて言ってないし」という文章と共に画像が添えられていた。その画像を開くと、それは俺の文章だった。文章の癖どころか、一言一句、俺の文章だった。

 俺はそのアカウントのプロフィールを開いた。フォロワーは数百人。発信している事は愚痴ばかり。投稿を遡っていくと、とある投稿が目に入った。

「あいつ私の友達に哲学の話ばっかするらしいんだけど。何、カッコつけてんの?w」

というものだ。それはおかしい。俺と佐伯遥香が知り合っていた事を黒瀬灯が知ったのは一週間前の筈。この投稿がされたのは、二ヶ月程度前の事だった。この投稿には返信があった。

「ガチキモイよね〜この前なんて、ロボットと人間は何が違うかみたいなの聞かれて鳥肌もん」

そうか、二人は元々繋がっていたのか。この時、俺は自分の気持ちが分からなかった。俺は今、誰に憤っているのか。二人か?それとも俺自身か?そもそもこれは怒りなのか?悲しみか?恐れではないか?いや、その全てだろう。「潰れる」はっきりと、そう感じた。どこか高い所は無いかと家を飛び出し、探して、すぐに家の近くで六階建てのマンションを見付けた。外の階段から六階まで上って、深呼吸をし、下を見てみた。でも、脚が動かない。身体が自分のものではないみたいに、全く動かない。俺が初めて”死”を実感したのはこの時だ。今まで溜め込んでいたものが溢れ出した。孤独感や自己嫌悪、愛への欲望だ。その晩は顔をびちゃびちゃに濡らし、嗚咽しながら明かした。


 その後俺は、すぐに退学した。卒業まで数ヶ月だし、内定も決まっていたため、勿論、先生や両親から怒られたし、色々訊かれた。それを分かっていても尚、学校へ通い続けられるような度胸も自信も、俺は持ち合わせていなかった。最後には、周りの人皆から心の病院を勧められた。言われた通り、病院に通った。だが、その担当医から何かの病気だと診断される事は無かった。鬱状態ではあるが、鬱病では無いと。「病気であったら」本気で、何度もそう思った。いや、発症したい訳ではなく、この心を”健常”だと言われるのが、どうしようも無く、辛かった。だったらいっそ、これが病気であれば、この状態に名前が付いていれば、幾分かは気が楽になり、楽になる道筋も見えてくるのだろうなと、そうに思った。楽になりたかった。だが、俺はそのための方法を、終ぞ見付ける事ができなかった。


 俺は見事に落っこちた。高校を中退し、内定まで蹴ったフリーターとなってしまった。元のバイト先は辞めざるを得なかったので、また、慣れない仕事を覚え直した。一つずつ仕事を覚えていく。前は楽だったこの手順が、嫌に永く感じられた。バイトの時間が億劫で仕方無かったが、辞めてしまっては俺はただ家に住み着きご飯を食べるだけの寄生虫となってしまう。だから無理矢理バイトを続けた。バイトをするために起き、終わったら更に次のバイトへ向かう。それが終わったら帰り、寝て、起きたらまたすぐにバイトへ行く。そんな生活をしていた。

 もちろん就活もしたが、残り数ヶ月で高校を中退し、内定を蹴った奴を採用する会社など、ある筈も無かった。俺の肩身は狭くなる一方だった。どんどん、自分を好きになれなくなった。自分の人生を振り返る行為、それは俺にとって、自分を嫌いになるための行為と同義だった。

 先程言ったように”これ”には名前が付かなかった。だから、周りからの目も酷く痛かった。「あと少しで卒業だったのに」「でも鬱じゃないんでしょう?」「親のスネかじりだなんて、親不孝だ」ひそひそと、そう言われていた。また、直接言われる事もあった。それだけで俺は、恐怖に震える他無かった。それでもまだ、心のどこかでは救われる俺がいた。まだ、俺に期待をしてくれているのだと。


 三年が経ち、俺は二十一歳になった。就職先は見付からず、俺は未だ実家暮らしのフリーターである。他人から直接お小言を言われなくなってから、どのくらいだろうか。嬉しいが、また、悲しくもあった。まだ何かを言われている方が、まだ期待してくれているのだなと感じられ、楽だった。それが無くなってしまっては、もう、誰からも、興味も期待も向けられていないのだと、実感させられる。また諦められた。それは俺を壊すには十分な程の苦痛だった。

 それは、もう日も暮れて、バイト先から帰っている時だった。栗名結衣が、中年であろう男と歩いているところを見た。それも、彼女には似合わないような、派手な格好をして。俺は、どうすれば良いのか、分からなかった。心が冷たく、不快なものに侵されていた。それに、それがいっぱいになり、心が割れ、噴き出してしまいそうだった。もう、保身などというものを案じている余裕は無くなっていた。気付けば俺は、その男の肩に手をかけ、遂に殴った。男が倒れ込む中、栗名結衣はぎょっとして、それからすぐ、俺だと気付いたようで、俺の名前を呼び「何で」とか「この人は」と半分怒鳴るような声で叫んでいた。だが、この時の俺は、それに耳を傾ける事をしなかった。この男が誰だとか、そんな事はどうでも良かった。この時の俺は理性も何も無い、ただの獣だった。ただ感情に任せ身を動かす、それだけだった。

 拳の痛みで我に返り、俺はやっと、その冷えた頭で、事の重大さを理解した。走った。体力も無いのに、全力で。どのくらいの距離を走ったのだろうか。もう俺の周辺に、俺が何故走っていたのかを知っている者はいなかった。歩き出すと、久しぶりの運動だったので膝が笑っていた。心做しか、どすどすと、いつもより足音も大きく感じられた。

 運動をして血流が良くなり、頭も良く回った。何であんな事をしたのだろう。ひたすらに考えた。そうして察した。あぁ、俺は、愛した女の事情も考える事のできない人間なのだ。もう、死のう。これ以上生きていても、また、彼女に迷惑をかける事があるかもしれない。それを制御できると言い切れないのだから、もう、死のう。それより他に、俺が人に迷惑をかけない道は無い。良く回る頭で考えながら向かったのは、踏切だった。


 踏切の前に来てから既に、電車は五本も通って行った。己の臆病さに、ほとほと呆れる。俺はまだ、生に執着があるのかと。視界も滲んで、碌に前も見えない。膝は笑うのを止めたが、まだ脚は震えていた。手も震える。次の電車にしよう。そう決意した。

 電車が来るまで、俺はずっと今までの人生を思い返していた。俺は一度も栗名結衣に「好き」と言われた事が無い。彼女なりの良心だったのだろうか。せめて嘘は吐きたくなかったのかな。俺にもそんな心があれば、どれ程長生きできただろうか。俺は色んな人を不幸にしてきた。栗名結衣をはじめ、黒瀬灯や両親。高校の先生、俺が就職する筈だった会社の社員。俺は、人に迷惑をかけた事の方が多い、人間の底辺だ。そんな俺でも、たった一度で良いから、嘘でも良いから、栗名結衣に「好き」だと言ってほしい。俺は彼女に電話をかけた。何回も何回も。だが彼女が電話に出る事は無かった。中学を卒業してから六年経っている。それに、あんな事もあったし、そりゃあ、番号も変わっているだろう。そんな事、ずっと分かっていた。でも最期に信じたかった。もう、俺の心に温度は無い。

 数年前、精神科に行った時、俺の抱えるものを話したら「病気じゃない。正常だ」と言われた。だが、これが正常であっては、俺はとても堪らない。これはきっと、名前の付いていないだけの、立派な病気なのだ。あるいは、あの医者が藪医者だったのだ。でなければ、皆、これを抱えている事になる。そんな世の中で良い訳が無い。世の中というものはもっと、もっと明るくあるべきだ。


 あぁ、がたんごとんと、電車の来る音が聞こえる。俺は下がる踏切を潜り抜けた。今日は十三夜。俺の一番好きな日である。月が綺麗だな。

 滲んだ視界が照らされ、嫌に眩しい。そんな中、ふと、今まで気にもならなかった、気になるべきだった疑問が浮かんできた。

「栗名、あの後友達できたのかな」

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十三夜 葉蔵 @richou3

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