『猿子』

 とある山間の村。男は年老いた父とふたり、ひっそりと暮らしていた。


 その父が、重い病に伏してからというもの、家の中にはいつも沈黙と咳の音ばかりが満ちていた。

 

 食事も喉を通らず、見るからにやせ細った父は、ある晩、布団の中で呻くようにこう言った。


 「……肉が……肉が食いてぇ……」


 男は迷いながらも、うなずいた。


 すでに村には食糧が乏しく、山へ行き、罠を仕掛けるよりほかなかった。


 翌日、男は山奥へ向かい、獣道のそばに罠をいくつか仕掛けた。


 鹿や兎がかかればいいと願いながら、冷たい風の吹く山をあとにした。


 そして翌朝。再び山に入った男は、ひとつの罠に何かがかかっているのを見つけた。


 それは――小猿だった。


 罠に脚を挟まれ、弱々しく鳴いている。傍には母猿がいて、ギャアギャアと叫びながら、どうにか子猿を助けようと必死に動いていた。


 それを見た男は凍りついた。


 猿は、この村では神の使いとされ、忌み畏れられる存在だったからだ。


 「猿を傷つけてはならん」と、子どもの頃から言われ続けてきた。ましてや、母子を殺すなど――。


 だが、父の命はもはや風前の灯だった。今逃せば、次に罠が実を結ぶのがいつになるかわからない。


 ――仕方ねぇ……仕方ねぇべ……


 覚悟を決めた男は、石を手に取り、母猿にそっと近づいた。


 威嚇するように母猿が牙を剥き、叫ぶ。


 「ぎゃーっ、ぎゃーっ!」


 「……すまねぇ……」


 小さく呟くと、男は石を振り下ろした。


 「ぎゃっ」という悲鳴とともに、母猿は血を流し、地面に伏した。


 男は小猿にも石を振るい、動かなくなった小さな体を懐に入れて、そっと山を下りた。


 成猿の死体を持ち帰れば村人に見つかる恐れがあったが、小猿なら隠し通せる。


 家に戻った男は、鍋に湯を沸かし、皮を剥ぎ、肉を煮込んだ。


 残り少ない味噌と山菜で匂いをごまかしながら、一杯の肉鍋を作った。


 「おっとう、ほら、山で狸が獲れただよ。うまそうだべ?」


 そう言って肉を口に運ぶと、父は涙を流しながら言った。


 「……うめぇなぁ……うめぇなぁ……おめぇは、本当に……ようやってくれたなぁ……」


 男は黙ってうなずいた。


 だが、その晩から父親の容体は急変した。


 目は異様に飛び出し、元々痩せていた手足はさらに骨ばり、皮膚はどす黒く変色していった。口を開ければ、歯茎がむき出しになり、苦しみながらも声にならない声をあげる。


 そして、夜が明ける頃――父親は冷たくなっていた。


 その死に顔は、まるで猿のようだった。




 それから数年が過ぎ、男は村の娘と結婚し、一人の子どもを授かった。


 つぶらな瞳と、細い手足を持つ元気な男の子だった。男はその子を誰よりも愛した。


 さらに年月が経ったある日の夕方、田仕事を終えて家に戻ると、妻が青ざめた顔で言った。


 「……坊やがいないの。さっきまで家の表で遊んでたのに……」


 慌てて家の外を見ると、小さな足跡が泥の上に残っていた。


 人間の足跡ではない。――猿の、それも何匹もの足跡だった。


 足跡は林の奥へ、山の斜面へと続いている。


 村の男たちが総出で山を探し回ったが、どこにも子どもの姿はなかった。


 夕暮れが過ぎ、夜が来ても、返事も、泣き声も、影すらも見つからなかった。




 やがて季節が巡り、月日が流れるうちに、村には妙な噂が囁かれるようになる。


 「山で猿の群れを見かけたんだがな……一匹だけ、どうにも妙なのがいたんだ。まるで人間の子どもみてぇでよ……」


 「仕草は猿そのものだったが、顔が……顔が……人間の子どもだったってよ」


 それを聞いた男は、胸の奥で何かが崩れる音を聞いた。


 まさか。いや、でも――。


 その日から男は、毎日のように山へ入った。


 藪を分け、崖を越え、霧の中をひたすら歩き回り、猿の群れを探し続けた。


 そして、ある日の夕暮れ時。


 男は谷沿いの林で、一群の猿と出くわした。


 何十匹もの猿が、木の上から、静かに男を見下ろしている。


 牙を剥くわけでもなく、逃げるでもなく、ただ無言で、じっと男を見つめていた。


 男が息を呑みながら見回すと、ひときわ目を引く親子の猿がいた。


 母猿の腕に抱かれたその子猿は、他のどの猿とも違っていた。


 毛がなかった。肌は人間のように白く、顔つきも、指の形も――人間だった。


 「……坊……」


 その瞬間、男の頭に蘇ったのは、あの夜の記憶だった。


 山で罠にかかった子猿。


 必死で助けようとしていた母猿。


 そして、自らの手で振り下ろした、石。


 母猿の顔をよく見ると、額には今もその時の傷が残っていた。


 うっすらと盛り上がった、赤黒い痕。


 「坊……! 坊、帰ってこい……! おめぇ、父ちゃんだべ……!」


 男は涙ながらに叫んだ。


 しかし、その“子ども”は、男の呼びかけに反応することはなかった。


 母猿にしがみつきながら、目をひん剥き、猿のように「ぎゃあっ!」と甲高い声で叫び、牙を剥いて威嚇する。


 そして母猿と共に、木の枝を伝って、山の奥へと姿を消していった。


 男はその場に膝をつき、何も言えずに空を見上げた。


 風が、林の奥から吹き抜ける。


 その音の中に、たしかに聞こえた気がした。


 ――ぎゃ……ぎゃ……という、懐かしい、愛しい我が子の声が。

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