『猿曳』
山々に囲まれた、人口の少ない田舎町。
僕が通う学校のクラスには、誰もが一目置くガキ大将――卓也がいた。
同じ学年の中でも一回り大きな体格、腕っぷしの強さ、そして容赦ない性格。
弱い者いじめや悪ふざけは日常茶飯事で、いつも親や先生を困らせていた。
その日も、放課後になると卓也はいつもの顔ぶれを呼び出した。
ニヤつきながら言う。
「面白いもん見せてやる」
僕たちは嫌な予感を覚えつつも、逆らうことはできず、卓也の後について山へ向かった。
山道をどれくらい歩いただろう。
「ねぇ、どこまで行くの?」
一番気の弱い同級生が、息を切らしながら恐る恐る尋ねた。
卓也は振り返りもせず、「もう少しだ。黙って着いて来い」と言い放つ。
やがて木々が途切れ、ぽっかりと開けた場所に出た。そこには小さな山小屋がぽつんと建っていた。
「ここだ」
卓也は迷いなく扉へ向かう。鍵は掛かっていないらしく、乱暴に開け放つと、薄暗い小屋の中に光が差し込んだ。
中は埃っぽく、古びた農具や使われなくなったロープ、積まれた木材などが無造作に置かれている。
しかし、僕たちの目は別のものに釘付けになった。
――『キーッ! キーッ!』
小屋の中央。そこに、小さな猿がいた。まだ幼い子猿だ。
片足を引きずりながら、必死に僕たちを威嚇している。
「卓也、その猿……どうしたの?」
誰かがおそるおそる尋ねた。
卓也は得意げに顎をしゃくる。
「昨日、学校の裏で見つけたんだよ。一匹で木の上にいてさ。石を投げたら落っこちやがって、気絶したからここに閉じ込めた」
そう言うと卓也は小猿に歩み寄り、ためらいもなく首根っこを掴み上げた。
『キャーッ! キャーッ!』
宙吊りにされた小猿が暴れ、細い尻尾が卓也の腕に絡みつく。爪が空を掻き、歯をむき出して噛みつこうとするが、届かない。
卓也はその様子を面白がり、わざと腕を上下に揺さぶった。
小猿の喉から、絞り出されるような悲鳴が漏れる。
僕はその声に背筋が冷たくなるのを感じた。
「なあ、今日はこいつで遊ぼうぜ」
卓也の口の端が、いやらしく吊り上がる。
卓也は小猿を床に放り投げた。
乾いた「ゴン」という音と共に、小猿の頭が板張りを打ち、埃が舞い上がる。
すぐに立ち上がろうとするが、怪我した足がもつれ、うまく動けない。
卓也は小屋の隅から細い棒を拾い、先端で小猿の脇腹をぐい、と突いた。
『キィッ!』短く悲鳴を上げ、身体を丸める。
「おい、見ろよ。ここ突くと変な声出すぞ」
卓也は面白がって何度も同じ箇所を突き、時折、足や尻尾をわざと踏みつけた。
「的当てしようぜ」
そう言うと卓也はポケットから小石を取り出し、小猿に向かって投げた。
一つが肩に当たると、小猿の体がびくんと震え、悲鳴が漏れる。
卓也はそのまま、何度も石をぶつけた。
卓也はついに小猿の首にロープを巻きつけた。
細い喉がロープで締まり、『ググッ』という苦しげな音が漏れる。
そのまま引き摺り回すと、小猿の手足が床板を滑り、爪が削れる音がした。
尻尾が何度も木箱や壁にぶつかり、そのたびにくぐもった声が上がる。
僕はもう耐えきれなかった。
胸の奥が冷たくなり、足が勝手に後ずさる――このまま見ていたら、自分まで壊れてしまいそうだった。
次の瞬間、誰かが小屋を飛び出した。
その動きに釣られるように、僕も、他の子も外へ駆け出した。
山の空気は冷たく、肺が痛かった。
けれど、あの声や音は、まだ耳の奥で鳴り響いていた。
その夜、夢を見た。
僕は、木の上にいた。
枝は湿って重く、足の裏に冷たい感触がまとわりつく。
木の上から、あるものを――じっと――見下ろしていた。
――卓也だ。
山小屋から外に出た卓也は、ロープを握り、何か小さなものをズルズルと引き摺っていた。
それは、薄茶色で、もじゃもじゃとした毛に覆われた小さな塊。
引きずられるそれは、ぐったりと力なく、時折、頭が地面に打ちつけられて土埃を舞い上げた。
僕は見ていた。
それを引き摺る卓也を――じっと。
楽しそうに、口の端を吊り上げ、歯をむき出しにして笑う顔を、焼き付けるように。
そして、その小さな塊の中に渦巻く恨みを、決して忘れぬように。
……じっと。
……じーっと。
翌朝。
学校へ向かう足取りは重かった。
昨夜の夢のせいもあるが、それ以上に、昨日のことを理由に卓也に呼び出され、臆病者呼ばわりされ、殴られる未来が頭をよぎっていた。
それは僕だけではなかった。
あの場に居合わせた誰もが同じ顔をしていた。青白く、口数が少なく、目を合わせようともしない。
キーンコーンカーンコーン。
ホームルームのチャイムが鳴き、先生が入ってきた。
「始める前に、みんなに聞きたいことがあります」
少しだけ声のトーンが低い。
「昨日から卓也くんが家に帰っていないそうです。誰か、何か知っている人はいませんか?」
教室がざわめく。
頭の中に、あの光景が蘇る。だが、誰一人口を開かない。
あの場にいた僕らも、何も知らないふりをした。
「何か心当たりがあれば、深く考えずに先生に相談してください」
そう告げると、先生はいつも通りホームルームを始めた。
窓の外で、遠くのパトカーのサイレンが風に乗って流れ込んできた。
放課後、僕は教科書などを乱暴にランドセルに詰め込むと、真っ直ぐ家に帰った。
途中、町のあちこちで警察官やパトカーを見かけた。
家に着くと、お母さんにも卓也のことについて聞かれた。
僕は、「昨日はすぐに解散したから知らない」
とだけ答えた。本当のことだ。
お母さんは「……そう」と短く呟き、それ以上は何も聞かず、台所へ向かった。
その夜、また夢を見た。
僕は山の中を歩いていた。
背の高い草木が行く手を覆い、舗装されていないデコボコ道が足元を不安定にする。
……ズルッ……ズルッ……ズルッ……
両手で、何か太い棒のようなものを掴んでいた。
それを引き摺るたび、手にずしりとした重みと湿った感触が伝わる。
……ズルッ……ズルッ……ズルッ……
時折、それはもがき、掴んだ手から逃れようとする。
だが、もう力は残っていない。強く握り直すと、またぐったりと力を失い、黙って引き摺られていく。
道のデコボコがそれの体を何度も打ち据える。
顔は石に擦られ、皮膚が裂け、まぶたは剥がれ、むき出しの眼球が泥を映す。
鼻は潰れ、削れ、歯は折れ、唇の端から黒ずんだ血が糸を引いた。
最初こそ激しく暴れ、甲高く鳴き叫んでいた。
だがやがて、その声も消えた。
……ズルッ……ズルッ……ズルッ……
それでも、僕は離さない。
――あの子が受けた恐怖と苦しみは、こんなものじゃない。
翌日。
卓也の遺体が見つかったという話が流れてきた。
場所はあの山小屋の近くだという。
卓也の葬式は家族だけでひっそりと行われ、先生と校長先生だけが葬式に行ったそうだが、棺は閉じられたままで、姿は見れなかったそうだ。
後から聞いた噂がある。
警察が山小屋近くの茂みで血痕を見つけ、その奥の獣道に血の筋が続いていた。
まるで何かを引きずった跡のように。
その先で卓也の変わり果てた姿を見つけた。
発見した警察官は無線に手を伸ばしかけたとき、何かに見られている感覚を覚えたという。
顔を上げると――そこに一匹の猿がいた。
人間を恐れる様子もなく、ただじっと彼を見ていた。
やがて背を向け、森の奥へと消えていった。
卓也の遺体は損傷が激しく、服装を家族が確認するまで、わからないほど顔は原型がなかったらしい。
僕は、あの夢のことを誰にも話していない。親にも、先生にも、警察にも。
夢なんて、信じてもらえるはずがない。
それに――あれは夢なのか、本当にあったことなのか、自分でもわからないからだ。
それ以来、僕もあの時のメンバーも二度と山に入ろうとしなかった。
それでも、ときどき視線を感じる。
山の茂みの奥から、一匹の猿が――じっと――こちらを見ているような気がするのだ。
そして、そういう時は決まって、あの夢を思い出す。
猿になった僕が、両手で“アレ”を掴み、引きずる感触を。
その重みを。
その音を。
……ズルッ……ズルッ……ズルッ……
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