第10話

 空っぽの弁当箱が、四つに増えた。

 

 あの出来事から数日が経った。呼ばれた者が帰ってくる日時は不定期で、早ければ栞はもうこの町に戻ってきているだろう。別の何かに成り果てて。

 もしかしたら、もう顔を合わせても栞だとはわからないかもしれない。

 

 宇多田ヒカルの「time will tell」を聞きながら、家を出て漫然と歩いていた。寿命が尽きかけた蝉が弱々しく藻掻きながら、無数のありにたかられている。

 

 相変わらずポケットの中には、iPodとホイッスルが入っている。どうして未だに持ち歩いているのか、自分でもわからずにいる。栞にたくされたから、と言ったら笑われるだろうか。最後には喧嘩別れをしたというのに。

 自嘲で頬を歪めた。田園風景を横目に踏切へと向かう。その足が不意に止まった。

 

 踏切の向こうに、紺色のジャージ姿が見えた。

 

 とっさにフードを深く被り、目を伏せた。変わり果てた彼女の姿など見たくなかった。

 

 おそらくは成り代わった人間の習慣をなぞっているのだろう。朝練でこの方面も走っていたに違いない。ちょうど信号機の色が点滅し始めた。もうじき遮断桿が下りて、踏切が閉ざされる。私たちは先へ進んだ。

 交差する。俯いた視界に弾む足取りが見えた。見覚えのあるスポーツシューズだった。履き古されて、すっかりくたびれている。一瞬、顔を上げたい衝動を堪えた。

 

 ポニーテールの毛先がかすめる。その瞬間、彼女との思い出が溢れ出した。


『何だか少しだけ、寂しくなっちゃって』

『辛くなったらそれを吹いて。きっと、私が気づくから』

 

 頭の中のもやが晴れた。

 

 警報器が鳴り響いて、背後で遮断桿が閉じられる。私は奥歯を噛み締めた。どうして見えなくていいものが見えて、気づかないでいいことに気づいてしまうのだろう。

 

 振り返った。乱暴に耳からイヤホンを外し、ポケットからホイッスルを取り出して口にくわえた。力の限り吹き鳴らす。

 ホイッスルの甲高い音色に反応し、足を止めた栞の後ろ姿に向かって叫んだ。


「ふざけんなよ、お前」

 目から涙が溢れ出した。


「私を利用したな。お前は知っていたんだ、自分が呼ばれていることを」

 

 そうだ、呼ばれている者たちにはかすかな予兆がある。駄菓子屋のお婆ちゃんの言動、数日分にしては多すぎる生活費、栞が自分に関わってきた理由。


「誰でも良かったんだろ。別に私じゃなくても」

 

 おそらくは無意識に気づいているのだ。おのれが人ならざるものに呼ばれていて、もうどうしようもないことを。


「そんなに人間だった頃の自分を覚えていてほしかったのか」

 

 髪の尾を揺らし、栞だったものが振り返ろうとする。声をらして叫んだ。


「お前のことなんか知るもんか。一ヶ月で忘れてやる」

 

 鳴り響く警報器の音に負けないために、声を張り上げた。栞の顔が完全に見える前に、電車の車体が視界を遮った。前髪がなぶられる。

 

 長い電車が通過した後、そこに栞の姿はなかった。

 

「忘れて、やるから……」

 

 肩を上下させていた私はその場で両膝を折った。力なく垂れた手には、ホイッスルが握られたままだった。

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