第8話

 二日後、宇多田ヒカルの「DISTANCE」を聴きながら公園のベンチで栞を待っていた。自然体をよそおいながら、体は緊張感でり固まっている。胃の中はからっぽだ。見慣れた鈴懸の木々が、どこかよそよそしい。

 

 視野の端に紺色のジャージ姿が映った。ぎこちない手つきでiPodを停めると、葉擦れの音にスポーツシューズの靴音が混じる。栞が来たのだ。こちらの姿を認めて、彼女は前に回りこむ。


「昨日どうして来なかったの。大会前なのに、お弁当三つも食べちゃった」

 

 桜井栞は腰に両手を当てて、こちらを見下ろしてくる。少し息が切れていた。事前に考えていた言い訳を述べる。


「少し、具合が悪くてな」

 

 全くの嘘ではない。少なくとも一日中、煩悶はんもんとしていた。自分の選択が正しいのか、今も迷っているのだ。

 

 頭上で吐息が聞こえた。高い影が移動し、ベンチの隣を軋ませる。こうやって二人が並んで座るのも、今日で最後になるだろう。

 

 葉がそよぐ音がした。私たちの上で、木の葉が舞った。


「また、万引きなんかしてないよね」

 

 桜柄の小包を膝の上に抱えたまま、栞はフードの奥を見透かそうとしてくる。その眼差しを直視できないまま、私は言った。


生憎あいにく、飯が喉を通る体調じゃなくてな」

 これも本当だ。ただ、彼女はさとい。視線が突き刺さるのを感じた。


「もしかして、一昨日おとといのことを怒ってる? あれは、本当にごめん。あの子って人見知りするから」

「違う、そうじゃない」

 

 私が発した硬い声音に、いつもとは異なる雰囲気を感じたのだろう。姿勢を正して、静かに問いかけてくる。


「ねえ、本当にどうしたの」

 

 生唾を呑み、下顎に張りつく舌の根を動かす。

「お前の友達……あの子は、町の外へ出たか」

 

 突然の質問に、栞は目をしばたたかせる。顎に指を当てて言った。


「半年ぐらい前かな。家族旅行で電車に乗って」

 そうか、と遮った。ここまで聞ければ十分だった。その一言を告げるのに、多大な覚悟が必要だった。


「あの子とは、離れた方がいい」

 

 言葉の意味がすぐにはわからなかったのだろう。少しずつ浸透してきて、出来の悪い冗談とでも思ったのかもしれない。


「何、どうしてそんなことを言うの」

 隠そうとしても、言葉の裏には怒気が隠されていた。


「お前は聞いたよな。あたしにはお化けが見えるのかと」

「それが、何なの」

「あたしが見ているものは何なのか、自分でもわからない。ただ一つだけ理解したことがある。あれは人間に擬態する。電車で『呼ばれた』人間は、成り代わられるんだ」

 

 耳の奥が熱い。自分の言葉以外、何も聞こえなかった。


「だから、あの子はもう」

 私の言葉は遮られた。


「もういい」

 

 隣から聞こえる声色からは感情が消えていた。


「ユーコ、言っていいことと悪いことの区別もつかなくなったの」

 親友を侮辱されて、栞が激怒している。胸の奥でとめどなく出血している感覚があった。


「私は」

「もう止めて、聞きたくない。根は良い子だと思ってたのに」

 勢い良くベンチを立ち上がる音がした。


「それ、あげる。返さなくていいから」

 

 ベンチの上に桜柄の小包を置いて、栞は駆け出した。視野の端で髪の尾がよぎる。私は座ったまま微動だにしなかった。ポケットに両手を突っこんだまま、酷い脱力感に身を任せる。

 こうなることはわかっていたはずだ。所詮は自分にしか見えない世界の話だ。逆の立場でも、決して信じられなかっただろう。

 

 結果を知っていても、伝えずにはいられなかった。あれらは人間を獲物としか認識していない。その危険性を伝えたかった。

 

 栞は、友達だから。

 

 フードのふちを掴み、目深に被った。肩を震わせる。しばらくそうしていた。傍らには、桜柄の小包に包まれた弁当箱が置かれていた。

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