第5話

 宇多田ヒカルの「Wait&See ~リスク~」がイヤホンから流れていた。

 

 もう黄昏時である。時間の感覚が狂っていたから、高校の授業が終わる少し前から待機していた。校門の前にある電柱に寄りかかり、目深にフードを被って下校する学生の視線に耐えた。

 ポケットに入れていない方の手には、桜柄の小包を握っている。

 

 学生鞄とスポーツバッグを持った桜井が一人で現われたときには、心の中で安堵した。部活の友達と一緒に出てきたら、早々に用事を済ませて逃げるつもりだったからだ。


「此木さん?」

 

 見慣れない制服姿の桜井が目を丸くした。私はiPodを一時停止してイヤホンを外し、してやった気分になって頬を歪める。


「随分と遅くまで残ってるんだな」

「えっと、大会があるから」

 

 未だに状況を呑みこめていない彼女に、小包を差し出した。二つ目の弁当を完食して、家で綺麗に洗ってきた。我ながら下手な結び目の小包を見下ろして、桜井は言った。


「わざわざこれを返すために待ってたの」

 こちらの顔を見つめられた。気恥ずかしくなって、弁当箱を強引に押しつけた。


「美味かった、ありがとう。じゃあ」

 

 早口で言って、私は背中を向ける。慌てて鞄のファスナーを開ける音がした。弁当の小包を中に入れているのだろう。学生靴の音が追ってくるのは予期していた。どうせ逃げられないこともわかっていたので、足取りは変えなかった。


「よく私の学校がわかったね」

 案のじょう、桜井は隣に並んだ。その不思議そうな顔を一瞥いちべつする。


「ジャージに学校の名前が書いてあったろ」

「あ、そっか」

 彼女は得心して、はにかんだ。その表情に悪意は感じられない。だからこそ、意図がわからなかった。


「味付け、どうだったかな。卵焼きを引っ繰り返すのに失敗しちゃってさ」

「美味かったよ」

 

 端的に感想を述べる。桜井は嬉しそうな顔をした。頭身が違う同世代が夕暮れの通学路を並んで歩く。一人はごく普通の制服姿で、もう片方はよれた私服の格好だ。他人の目にはどう映るだろう。

 私は尋ねた。


「なあ、あたしに飯を恵んで何の得がある」

 

 両手に荷物を抱えた桜井は、目をしばたたかせる。

「だって、友達が万引きをしてたら止めなきゃでしょ」

 

 友達になった覚えはない。否定しようとして口をつぐむ。無一文むいちもんの自分が犯罪に手を染めずに腹を満たしているのは事実だったからだ。

 

 電線の上でからすたちが鳴いていた。その中には、宮崎駿監督の「もののけ姫」に出てくるこだまに酷似こくじした白い生き物が座っていて、首を小刻みに揺らしながら発情期の猫の鳴き声を真似ていた。そこはせめて鴉の鳴き真似をしろよ。


「此木さん」

 頭上のけたたましい鳴き声に気を取られて、反応が遅れた。


「虐待されてるの?」

 

 その率直な問いにきょを突かれた。顎を上げて、少し考える。未成年の娘が学校にも行かず、一日中町を転々として万引きで食いつなぐ生活は、両親から育児放棄されていると見なされても仕方ないのかもしれない。


「そんなんじゃない」

「でも、好きで万引きをしているわけじゃないんでしょう。中学の頃はあんなに真面目だったのに、高校にも通わせてもらってないなんて」

 

 桜井はきっと良い子なのだろう。ただ少しばかりの遠慮がなく、簡単に人の心に足を踏み入れた。


「お前には、わからない」

 

 フードの奥底から桜井の顔を直視した。拒絶の意思は伝わったのだろう。彼女は傷ついた表情をして俯く。これで良い、と自分に言い聞かせた。

 

 両親が得体の知れない化け物になってしまったから、まともに生活ができない。そう言ったところで誰が信じてくれるだろう。あれらは私にしか認識できず、文字通り彼女とは見えている世界が違うのだ。

 背丈の違う二人の影法師が路面に伸びている。家々の外壁を、大きな黒い足跡が這いずり回っていた。頭の上では、相変わらず鴉と猫の縄張り争いを思わせる合唱が響いている。

 丁字路ていじろに差しかかると、ずっと無言だった桜井が口を開く。


「私の家、こっちだから」

 

 住宅街の方角だった。ここで帰り道がわかれることになる。杓子定規しゃくしじょうぎな別れの挨拶を交わし、元気のない背中を見送った。心なしか、揺れる髪の尾も頼りない。

 

 これで桜井が私に構うことはなくなるだろう。何の思惑があったにしろ、彼女は日の当たる人生を歩くべきだ。もうまともな生き方ができない自分と関わるべきではない。

 私も家路に就こうとして、不意に足が止まる。下唇を噛み、フードを払って住宅街へと去る制服の後ろ姿に大声で呼びかけた。


「桜井」

 

 自分の名前を呼ばれて、ポニーテールの少女が振り返る。その表情は陰っていてよく見えない。


「あのコンビニにはもう近づくな。お前、見られてたぞ」

 

 今朝、桜井をコンビニエンスストアから遠ざけたのは理由があった。あの影の店員が窓の全面を黒く覆い尽くし、肥大化した目で彼女の背中を凝視していたからだ。

 直接あれらが人を襲う場面は見たことがない。だからといって安全だとは思わなかった。時折人間に注ぐ眼差しは、肉食動物が獲物を品定しなさだめする雰囲気によく似ている。

 

 きっと、桜井には意味不明だったに違いない。伝わらなくてもいい。ただこれは、自分なりに弁当の礼を返しただけだ。

 

 遠くの影が叫び返した。

「じゃあ明日は、あの公園にお弁当を持っていくね」

 

 その声音には活気が戻っていた。大きく手を振り、こちらが返事する間を与えず歩き去ってしまった。

 

 少しのあいだ、呆けていた。関わりをたなければならないのに、自分は一体何をしているのだろう。両手で髪を掻きむしり、腹立ち紛れに大股で歩き出す。耳に嵌めたイヤホンから「Can You Keep A Secret?」が流れ出した。

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