第2話 揺れる幕閣たち
翌朝、江戸城は、朝の鐘より先にざわめきで目を覚ました。
「昨夜、城が揺れたそうだ」「おお、やはり地震か」「いや、城下は揺れておらなんだと」「じゃあ何が揺れたんだ」「尻が」「建物の話をしてくれ」
台所では味噌汁より早く噂が立ちのぼり、
廊下では足音より先に「地震」「尻」という言葉が飛び交っている。
「大奥の方角だけ、障子が鳴っておったらしいぞ」「あれはもう“尻門”と言ってよいのでは」「江戸城にそんな方角はない」
誰も確かなことはわからない。
ただ——昨夜、殿がお美代の尻を撫でていた、その刻限から、
大奥と御殿の一部だけが、あり得ぬ揺れに襲われたことだけは、
城中のほぼ全員が身をもって知ることになっていた。
中奥の一室で、その噂をまとめて聞かされていた男がいる。
若年寄・林忠英。
痩せぎすで色の地味な着物をまとい、
眉間に自然としわが寄ってしまう、真面目の塊のような男である。
かつては中奥小姓の端のほうにいた、
どこにでもいるような若造だった。
そのくせ、誰よりも真面目に「算盤」と「日記」をつけた。
——今日の御成り、何刻何刻。
——殿、本日尻のお話し五度。合計三刻半。
——その間、政務の話、わずか二十五字。
最初は物好きの三文メモに過ぎなかったが、
それを何年も続けた結果、
「殿の機嫌の波」と「大奥の尻の出勤表」と「政治の停滞具合」が
一冊の帳面で見えるようになってしまった。
その帳面をたまたま目にした老中が仰天し、
「こやつは使える」と
じわじわ引き上げていったのが、今の若年寄・林忠英である。
将軍家斉がどれほど尻に浮かれていようとも、
この男がいないと、幕政が一日たりとも回らない——
そんな存在になっていた。
その林が、今朝はひさびさに頭を抱えている。
「……尻を撫でておられたら城が揺れた、とは」
女中たちから集めた証言を読み返し、
深くため息をついた。
「地震か?」「風か?」「まさか尻か!?」と叫び声が上がり、
実際には城下は揺れておらず、
揺れたのは城だけ。
そんな馬鹿な話があってたまるか、と理性は叫ぶ。
それでも——
この城で長く暮らしてきた勘が囁いていた。
——あの殿なら、やりかねない。
林は、机の上の白紙の帳面を見つめた。
「……揺れた以上は、記録せねばならぬ」
彼の中で、真面目と諦めと職業病が、静かに手を組んだ。
竹と紐の「地震を測る器」
その日、林は自ら倉を漁り、竹と紐と重りを持ち出した。
「若年寄様、何をなさるおつもりで」
小姓が恐る恐る尋ねる。
「地の揺れを測る器を作る」
林は簡潔に答えた。
竹で枠を組み、上から紐を垂らし、
紐の先に小さな重りを結びつける。
揺れれば揺れただけ、重りが振れて、
壁に掛けた紙にその軌跡が残る、という寸法である。
「……これで、昨夜のような揺れがまた起きれば、
どの向きに、どれほど揺れたかがわかる」
「そんな妙なものをお作りにならずとも、
地震なら地震と書き付けておけばよろしいのでは」
「ならぬ」
林はきっぱりと言った。
「“殿が尻を撫でて城が揺れた”などという記録を、
ただ書き付けるわけにはゆかぬ。
せめて“妖による揺れ”という形に整えておかねばならん」
「それは……確かに」
小姓は、思わず納得しかけて、
(いや、納得してよいのだろうか)と首をかしげた。
「ともあれ、次に揺れが起きたときには、
この振り子の振れ方を記録しておきたい。
揺れの強さも、揺れ方も、場所ごとに違いがあるはずだ」
「場所ごと……と申しますと」
「大奥、小納戸、中奥、表御殿。
そして——殿のお手元である」
「やはり尻も調べるおつもりで」
「尻という言葉を出さないでもらえるか」
林は、こめかみを押さえた。
「わたしはただ、地の揺れを知りたいだけだ」
(尻の揺れは、もう十分すぎるほど殿の日記に記録されている……)
そう心の中でだけ呟き、
林は竹の枠を持って御座の間へと向かった。
一方そのころ、
表向きは涼しい顔で、
裏では常に損得勘定をしている男がひとり。
御側御用取次・水野忠篤である。
「ふむ……越後の某家から二百両、
出羽の某家から百五十両……」
このひと月のうちに届いた献金の記録を眺めながら、
水野は口の端だけで笑った。
その横で、淡々と帳面を繰っているのは
小納戸頭取・美濃部茂育だ。
細身で目つきが鋭く、
あらゆる帳簿と記録に執念を燃やす、
城内きっての「数字と論理の鬼」である。
「……お美代様のご実家からの献金も、
ここ数年でじわじわ増えておりますな」
美濃部が、さらりと指摘する。
「尻の番も増えておるからな」
水野は悪びれずに言った。
「尻の番が増えれば、
自然とこちらへの“心付け”も増える。
よくできた世の中ではないか」
「“よくできた”と申すのもどうかと思いますが」
美濃部は、相変わらず感情の薄い声で返した。
「ところで水野様。
昨夜の揺れですが」
「大奥と御殿の一部だけ揺れたという、
あの妙な地震のことか」
「はい。
殿とお美代様が御同座の刻限と一致いたします」
水野の目が、細く笑った。
「やはり尻か」
「記録上は、“そうとしか言いようがない”かと」
「では、美濃部」
水野は、机の上の別の帳面を指で叩いた。
「尻の番付と、献金の額と、昨夜のような揺れ。
この三つのあいだの“関わり”を、
ひとつ調べてみてはどうか」
「尻と金と地震の、相関……でございますか」
「そうだ」
水野は楽しそうだ。
「尻が揺れれば城が揺れる。
城が揺れれば、誰かが不安になる。
不安になれば、金を出す」
「……筋だけ聞けば、それなりに理屈は通っておりますな」
「だろう?」
美濃部は淡々と頷いた。
「では、尻の揺れの記録が必要になりますな」
「それが問題なのだ」
水野は肩をすくめる。
「殿は尻のこととなると饒舌だが、
公式の帳面には載せたがらん」
「大奥の女中たちが、
こっそり書き留めている可能性はございます」
「おお、さすが小納戸頭取。
そういうところに目が行く」
二人は視線を交わし、
何やらよからぬ帳面の影を、
同時に思い浮かべていた。
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妻の尻を揺らして思いついた話、まさかの2話目です。
奇跡的に衝撃力を失わず書けました。
小説を書いたのは初めてですが、
一人でも多くの歴史好き、江戸時代好き、大河好き、何より尻道探究者の皆様に読んでもらえたらと思います。
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