第3話 検証、そして尻震公式化
そのころ、大奥の女中部屋。
昨夜の騒ぎで、眠そうな顔の女中たちが
一枚の紙を囲んでいた。
「ほら、まずは昨夜の分から」
細かい字を書くのが得意な若い女中が、
筆を走らせる。
《文政十五年 六月二十日 丑刻頃
御座の間 殿 お美代様
揺れ:大 燭台ゆれ落つ 女中三名尻餅》
「“尻餅”なんて書いていいの?」
年嵩の女中が眉をひそめる。
「事実ですから」
若い女中はけろりとしている。
「だいたい、こうしておけば、
あとで役に立つかもしれませんよ」
「何の役に立つのさ」
「決まってるじゃないですか」
若い女中は、声をひそめて言った。
「どの方がお相手の夜に、どれだけ揺れたか。
それがわかれば——」
「……どの尻がいちばん殿のお気に入りかが、
一目瞭然ってわけね」
年嵩の女中が、先に言った。
「そういうことです!」
「いや、そんな“ぷるん出世帳”みたいなもの作ってどうするのさ」
「そりゃあもう、見て楽しむに決まってるじゃないですか」
若い女中はきっぱり言い切った。
「殿のご機嫌と揺れ方を見比べたり、
“今日はあの方で揺れ小”なんて話の種になりますよ」
「……ほんと好きねえ、そういうの」
年嵩の女中は呆れたように言いながらも、
紙から目を離せない。
「帳面にしておこうかね」
ぽつりと呟いた。
「尻揺れ観測帳、とでも名付けて」
「まあ、いい名ですね!」
「表紙に書くときは、
“尻”の字は小さく書きなさいよ。
見つかったら、首どころか尻が飛ぶよ」
「尻が飛ぶって、どういう状態ですか」
「知らないよ。火がついてどっかにすっ飛ぶんじゃないのかい」
二人は顔を見合わせ、くすりと笑った。
その日から、大奥の片隅で一冊の薄い帳面が生まれた。
《御城内 尻揺れ観測帳
——記す者、名を伏す》
さらに小さな字で、誰かが付け足した。
《※尻に関する一切の責任は殿にあり》
このくだらない帳面が、
のちに幕政と経済まで巻き込むとは、
まだ誰も知らない。
晩方。
若年寄・林は作りたての竹の地震計を持って御座の間に現れた。
「殿。本日より、
御座の間の片隅に、この器を置かせていただきとうございます」
「ほう、それは何じゃ」
家斉は、ぶら下がった紐と重りをまじまじと見つめた。
「地の揺れを測る器にございます。
揺れが起これば、この振り子が動き、
紙に跡が残ります」
「ふむ。尻を測る器なら、わしもいくつか心得があるがの」
「そこは一度、忘れていただきたいところにございます」
林は、きっぱりと言った。
「昨夜のような揺れが再び起きたとき、
どれほどの力で、どの向きに揺れたのか。
はっきり記録しておきたく存じます」
「よい、置け」
家斉は、思いのほかあっさりと頷いた。
「ついでに尻の揺れも記録しておこう。
尻と地の揺れを比べれば、
尻がどれほど偉大かが分かろうて」
「殿、わざわざ比較する必要はございません」
林は、ぐっとこらえて言葉を飲み込んだ。
「それから——」
机の横に、もう一冊の帳面をそっと置く。
「こちらの帳面には、
揺れた日付、刻限、場所、
それから殿のご体験になったことを、
簡潔にお記しくださいますよう」
「簡潔に、とな」
家斉は筆を手に取った。
「名は何とする」
「記録上は、
“尻から始まった地震”であることが明らかですので……」
林は、ここまで来たら観念しようと腹を括り、
静かに告げた。
「仮に“尻震(しりしん)”と」
「尻震か! よい名じゃ!」
家斉は、いかにも嬉しそうだ。
「では、これは“尻震帳”といたそう」
「……殿。その名を口にするたびに、
若年寄としてのわたしの心が少しずつ削られていく気がいたします」
「心の揺れも記録しておくか?」
「遠慮いたします」
その夜。
家斉は、またもお美代の尻を前にしていた。
「さて、今宵はどれほど揺れるかのう」
「殿、揺れなかったら、わたくしの面目が……」
「案ずるな。揺れぬ尻もまた一興よ。
揺れたら揺れたで泰平の証、
揺れなければなれぬで修行の証じゃ」
——何の修行なのか、誰にもわからない。
御座の間の隅では、
林が竹の地震計と新しい帳面を前に、
神妙な顔で控えていた。
「殿。
本日は、揺れが起きましたら、
すぐにこちらにお書きくださいますよう」
「うむ、任せよ。
わしと尻のことなら、半刻でも一刻でも書いてやろう」
「簡潔にと、先ほど申し上げたばかりにございます」
林の胃が、きゅう、と鳴った気がした。
お美代が小さく笑う。
「林様も、ご苦労なことでございますね」
「いえ……わたしはただ、
城と皆様の尻を守りたいだけでございます」
「尻も守ってくださるのですね」
「できれば守りたくはありますが、
できれば関わりたくもないというのが本音でございます」
家斉は、もう半ば聞いていない。
「よし、始めるぞ」
いつものように、尻礼式が始まった。
左手で輪郭をなで、
右手で中央をそっと押し、
最後に両の手で——。
ぷるん。
ぷるんぷるん。
ぷるんぷるんぷるるん。
「……来るぞ」
林が思わず呟いた、その瞬間。
ぷるるんぷるるるん ゴゴゴゴゴゴ……ッ
昨夜ほどではないが、
確かに御座の間が揺れた。
燭台の炎が震え、
掛け物がかすかに鳴り、
床板がみしりと鳴く。
竹の振り子が、大きく左右に振れ、
紙の上にぐにゃりと曲がった線を描いた。
「記録します!」
林は素早く紙を押さえ、
隣の帳面に筆を走らせる。
《文政十五年 六月二十一日 亥刻
御座の間 揺れ:中 長くゆるやか》
その横で、家斉も嬉々として書き付けていた。
《尻:お美代
手順:尻礼式・正道を万事滞りなく遂げる
尻の状態:自信の中に恥ずかしさと初々しさがほんのり交ざる
揺れ:大海を揺さぶる波紋の如し
感想:ぷるん(たいへんよろしい)》
「殿、“感想:ぷるん”とは一体……」
「短く要点がまとまっておるじゃろう」
「要点がどこなのか、きわめて不明瞭にございます」
ともかく、これで大事なことが明らかになった。
家斉が尻を触ると揺れる。
ちなみに、男の尻や自分の尻を触らせてみたが何も起きていない。
家斉が好きな尻でないと揺れないようだ。
林は、若年寄としての矜持と、
尻震帳に書かれた中身とのあいだで、
内心の揺れ幅が、本日の震度を上回っている気がした。
江戸城の地の底、
黒い水の空洞。
水面が、ぼんやりと蒼く光っている。
その中心には、巨大な鯰の影が横たわり、
その背に、人影のようなものが静かに腰かけていた。
——昨夜の尻に続き、今宵もよき揺れであったな。
思念が、水と石を伝って響く。
——ほどよき張り、ほどよき弾み。
わしの氣を通せば、城の梁までしっかり届く。
鯰の背に座る影は、
どこか満足そうに腕を組んでいた。
——地脈を整えた甲斐があったわ。
尻を楽しみ、ついでに諌めもできる。
上の者ども、尻で浮かれておるばかりで、
ちっとも尻を省みぬではないか。
——ならば、尻を通じて揺らしてくれよう。
水面が、ふわりと揺れる。
——ただの地震では学ばん。
尻に触れたときだけ揺れれば、
さすがに何かを考えよう。
……考えるはずであろうな、常ならば。
巨大な尾が、ゆっくりと左右に振られた。
その瞬間、地表のどこか、
御殿の一角の床がわずかに、みし、と鳴る。
——ふふ。
さて、今宵はどの尻が揺れるかのう。
禍々しさと神々しさと尻気を感じさせる影が揺らめく。
その存在は明らかに意図して揺れを起こしていた。
揺れは、まだ城の内だけ。
だが、誰も気づかぬうちに、
江戸の運命はその“くだらない帳面”と、
地の底で笑う巨大な影に、
じわじわと握られ始めていた。
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妻の尻を揺らして思いついた話、驚愕の三話目です。妻には仕事の残りが…と言って、休日を使ってPCに向かい書きました。尻をネタにした小説を書いてたなんて言えません。
小説を書いたのは初めてですが、
一人でも多くの歴史好き、江戸時代好き、大河好き、何より尻道探究者の皆様に読んでもらえたらと思います。
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