尻震の家斉 ――ぷるん一発、天下動揺
海田ノリスケ
第1話 文政十五年、尻は今日も絶好調(なのに城も揺れる)
文政十五年——。
夏でも冬でも、朝でも夜でも、我が子の生き死にが関わるときですら
ある男は、ひとつのものを追い求め続けた。
尻である。
三十年あまり将軍職に君臨し、
いまや還暦もとうに過ぎた老将軍にして——
その心はただひとつ、尻への信念で満ちあふれていた。
その名も、徳川家斉。
齢を重ねれば普通は色欲といったものは落ち着くものだが、この男だけは違った。
性欲そのものは衰え、足腰もそれなりに弱りはじめているのに、
尻への関心だけは右肩上がり、天井知らず。
たいへんに、困った存在である。
「泰平とは尻の豊かさである」
その日の午後。
家斉は、大奥に上がる廊下を、上機嫌でずんずん歩いていた。
「ふふふ……泰平とは、尻の豊かさが教えてくれる」
誰にともなく、いつもの持論を語り出す。
「世が乱れておれば尻は痩せ、
世が安らげば尻は肥える。
つまり——尻を見れば天下がわかるのじゃ」
廊下の隅で控えている女中たちは、
(ああ、また始まった……)と目だけで会話を交わした。
止めたら最後、長いのである。
尻の尊さ、尻と米価の関係、
尻と風水、尻と政道、ついには尻と宇宙の相似まで語られ——
下手をすれば一刻二刻は終わらない。
一度など、
「尻は円にして球、球は天地の縮図……」
あたりから、侍女が三人ほど眠り落ちたことすらある。
——誰も、そんな尻講釈を正面から聞きたいとは思わない。
だが当の将軍は、いたって真面目だ。
「見よ、あの腰つきなど、とりわけ泰平の証よ」
すれ違った若い女中の後ろ姿を見て、いきなりありがたい顔つきになる。
「細すぎず、重すぎず、
尻の“座り”がよいというのは、政の“座り”もよいということじゃ」
「……は、はぁ」
付き従う小姓は、
(なんでも政に結びつければ許されると思っておられる……)
と心の中でだけツッコミを入れた。
尻で思考を満たしながら、目的の御簾の手前にまでたどり着いた。
一度足を止め、ひそかに胸の内で「本日の尻ラインナップ」を復唱する。
——ぷりっとした太鼓型・お楽の方。
——なめらかな長舟型・某御年配の方。
——柔らかさ特化の団子三連型・若い側室たち。
そして——
——特級ぷるん尻・お美代の方。
「ふふ……実に見事な布陣よ」
もはや尻の軍議である。
大奥の女中たちのあいだでは、
非公式ながら「ぷるん番付」というものがひそかに出回っており、
どの尻がどのくらい揺れやすいか、誰がどの夜に呼ばれたか、
こそこそ書き留められているらしい。
家斉はその存在を知らない。
だが、そんなものがなくとも、自分の中に「尻番付」は完璧に出来上がっていた。
番付の頂上に位置するのが、特級ぷるん尻・お美代である。
御簾をくぐると、奥では寵姫・お美代の方が、きちんと座して待っていた。
今日も麗しく、今日も尻は見事である。
腰まわりの布越しにでもわかる、張りと丸みと、ほどよい重み。
お美代がしとやかに一礼すると、着物の裾がふわりと揺れ、
その下で尻もまた、“予告ぷるん”を見せるかのようにわずかに震えた。
(……よい)
家斉は、それだけで一日の疲れが吹き飛ぶ思いだった。
「殿、お越しでございましたか」
「うむ、今宵もよく育っておるな」
「育つ、でございますか……」
お美代は思わず苦笑する。
彼女の尻は、近年の家斉の生きがいそのものだった。
政務の帳面が山のように積み上がっていようと、諸藩からの訴えが届いていようと、
「今夜はお美代の番だ」と聞けば、家斉は迷わずこちらを優先する。
——そういう意味では、確かに天下泰平の象徴ではある。
「では……今宵も、あれを?」
お美代が、わずかに頬を染めて問う。
「うむ。泰平維持のための大事な儀であるからな」
本人はいたって真面目である。
家斉は、自ら編み出した尻への敬意の作法を
「尻礼式」と呼んでいた。
① 左手で輪郭をなでる
② 右手で中央をそっと押す
③ 最後に双方の手で、やさしく、しかし的確に揺らす
「これぞ、わしの心得である」
半眼になって言い切るあたり、
他人から見ればただの変態でも、
当人にとっては立派な“儀式”なのであった。
ぷるん、ぷるんぷるん、ぷるるん——
その夜も、手順通りに事は進んだ。
お美代がそっと身を翻し、布の下で形のよく整った尻を、家斉の前に差し出す。
家斉は、まず左手で輪郭をなでた。
(ふむ、今日も張りよし。
尻台の縁まできっちり張り詰めておる……)
次に、右手で中央をそっと押す。
(ほどよい弾力……米蔵もこうであればよいがな……)
最後に、両の手で——
呼吸を整え、心を鎮め、すこし拝むような心持ちで、そっと揺らす。
ぷるん
お美代の尻が、揺れた。
ただ揺れた、だけではない。
家斉の手のひら、指先、手首の骨、
腕から肩、背骨、首筋にいたるまで——
ぷるん、という一瞬の震えが、五感すべてを直撃した。
布の下で震えた肉の感触だけでなく、耳には、かすかな衣擦れの音、
鼻先には湯上がりの香がふわりと立ちのぼり、
目には、尻の輪郭に沿って波打つ布のひだまで、
一筋残らず見えてしまう。
(……来たな)
家斉は、思わずうっとりと目を細めた。
ぷるんぷるん。
尻は揺れ続けている。
すでに家斉の両手は、意識せぬうちに
揺れのリズムに合わせて、小刻みに動き出していた。
尻を中心に、生まれては広がる揺れの波紋——
尻を起点とした波紋、すなわち「尻波紋」である。
(これが……尻波紋……!)
これまでも何度となく尻を愛でてきたが、
ここまで「波」としてはっきりと感じられたことはなかった。
尻が揺れ、布が揺れ、お美代の全身が揺れ、
自分の腕から胸までが、同じ波に乗せられて揺れている。
ぷるんぷるんぷるるん。
ますます尻を揺らす手が止まらない。
手から感じる尻の至高の感触。
掌に広がる弾力。
指の腹を返すたびに押し寄せる尻波紋。
(ああ、たまらぬ……!)
家斉は、尻の一点に全神経を集中させていた。
今日は尻だけでなく、自分の身体も、
内側から揺れているかのようだ。
尻が揺れ、自分が揺れ、
お美代の身体が揺れ——。
ぷるるん……ぷるるるん……
尻の揺れが、妙に長い。
(……ん?)
そして城が、本気で揺れた
(待て、今の揺れは……尻の範囲を超えておらぬか?)
そう思ったときには、もう遅かった。
尻の下の畳が、その向こうの柱が、
部屋の空気そのものが——
ぷるるんぷるるるん ゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
大奥・御座の間そのものが、
尻のリズムに合わせて揺れだしたのである。
燭台がぎいぎい揺れ、
壁に掛けられた山水画の滝が、
本物さながらにざあざあと流れはじめたように見える。
床の間の花瓶の水はざぶんと波打ち、
床板の下からは、きしむ音が一斉に鳴り上がった。
揺れは御座の間だけにとどまらなかった。
すぐ隣の廊下では、行灯がひっくり返りかけて女中が悲鳴を上げ、
台所では大釜が「ぐつぐつ」から「ちゃぷんちゃぷん」に音を変え、
料理人が味噌汁を抱えたまま左右に揺さぶられている。
「熱っ……いや揺れっ……いややっぱり熱っ!」
奥向長局では、
箪笥の上に並べて置いてあった櫛と簪がまとめてがらがらと落ち、
寝巻き姿の女中たちが一斉に尻餅をついた。
「きゃあああああっ!?」「あいたたたたっ!」
「だ、誰の尻ですか、これぇ!」
「知らないわよ!あだっ!でかいケツ押し付けないでよ!」
中奥の廊下では、
夜番の小姓が、槍立てに頭をぶつけながら叫んだ。
「地震だーっ!!」
「いや、風かもしれぬ!」
「まさか……尻が!?」
「尻が揺れたからって城まで揺れてたまるか!」
「いやでも殿のことであればあり得るような気も……!」
叫ぶたびに揺れが強くなった気がして、
最後には全員黙った。
厠では、
ちょうど用を足していた年配の用人が、
壁にもたれたまま情けない声をあげた。
「こ、こんなときに揺らさないでくれぇ……!」
その声は、やはり誰にも届かなかった。
大奥の庭では、
池の鯉がびっくりして跳ね上がり、
見回り中の猫が、勝手に尻尾を膨らませたまま縁の下に潜り込む。
——そして、その中心にいる家斉はというと。
なおも両手をお美代の腰のあたりに添えたまま、
半分は恍惚、半分は呆然と立ち尽くしていた。
(……尻道、極まったかと思うたが……)
——普通に城ごと揺れておる。
尻の感触と尻波紋に夢中で、
そこに至るまで、まったく気付かなかったのである。
城下は無風・無震
やがて揺れがおさまりかけたころ、
大奥には悲鳴とどよめきと尻餅の痛みだけが残った。
女中たちが慌てて御座の間に駆け込む。
「殿、ご無事に……きゃっ、また揺れるかと思いました!」
「燭台が落ちかけておりまする!」
「香炉が転げて灰が……ああ、これ掃くのわたしたちですね……」
お美代は、尻を押さえたまま、
まだ状況が呑み込めていないらしい。
「まぁ……とうとう城まで揺らしてしまいましたの、わたくし……?」
なぜか少し誇らしげだった。
そこへ、中奥の方から小走りの足音が三つ。
現れたのは、小納戸頭取・美濃部茂育と、御側御用取次・水野忠篤、
それから顔色の悪い若い小姓であった。
美濃部は細身で、目つきの鋭い男である。
将軍の身の回り一切について取り仕切る役職であるが
この男、政にも関わっている。
あらゆる帳簿と記録に執念を燃やし、冷徹に物事を観察して楽しむ。
今でいうオタク気質の持ち主であるが、
俗物根性が強く世渡りもこなせ、水野との相性もいいので出世した。
生まれの家格が高ければ勘定奉行にもなっていただろう、
城内きっての「数字と論理の鬼」である。
「ただいま城下を確かめさせましたが——」
美濃部は息も乱さず、淡々と報告した。
「江戸の町は、揺れておりませぬ。 風一つ吹いておりませぬな。
揺れておりましたのは、江戸城のうち、この大奥と御殿の一部のみ」
「なんと……」
女中たちがざわめく。
鼻息荒くその横に立つのは、水野忠篤。
老中と将軍のあいだを取り次ぎ御側御用取次という役職にある。
本来は「表」の世界の老中と「奥」の世界の将軍を結び付けるだけの役職だが、
権力をその間にある自身と一部の者に集中させ、政を回し、
賄賂三昧の春を謳歌している。
時に賄賂と人事と米相場をひとつの帳面で睨みつける、幕閣一の欲深である。
「つまり震源は、殿のお手元……」
水野は、わざとらしく咳払いをして言い直した。
「もとい、お美代様の——その、尻のあたりでございましょうな?」
お美代は、しとやかに尻を押さえた。
「まぁ……城を揺らすほどの尻だなんて……」
なぜか半分うっとりしている。
「やめてください、その方向で誇られるの」
小姓が小声でツッコミを入れたが、
誰にも届かなかった。
「わしの尻道が、天に通じた」
「ふふふ……」
ようやく我に返った家斉が、
なぜか恍惚とした笑みを浮かべて口を開いた。
「見たか、美濃部、水野。
ついに、わしの尻道が天に通じおったわ」
「……は?」
「わしが尻礼式を極めたところ、
城が応えて揺れたのじゃ。
これはもう、天意と見てよかろう」
「いやどこからどう見ても、
“尻のせいで城が危ない”という天意ではございませんか」
小姓が勇気を振り絞って言った。
美濃部は淡々と続ける。
「殿。記録上は、“大奥と城内の一部のみが揺れた異常地震”として
控えさせていただきとうございますが……」
「異常ではあるまい。尻さえ揺れておれば正常じゃ」
「尻を基準に正常を決めないでください」
水野は、口の端だけで笑った。
「しかし……殿のお手から城が揺れるとなれば、
これをうまく使えば、何かと便利かもしれませぬな」
「水野殿、その考え方がいちばん危のうございます」
小姓のツッコミは、やはり誰にも届かなかった。
その夜のお開きのあと。
ある一室で、若年寄・林忠英は、
頭痛をこらえるようにこめかみを押さえていた。
「……また、妙な噂が……」
大奥の女中たちから伝わってきた話は、要するにこうだ。
——殿が尻を撫でておられたら城が揺れた。
「地震か?」「風か?」「まさか尻か!?」
と叫び声が上がり、実際に城下は揺れておらず、揺れたのは城だけ。
そんな馬鹿な話があってたまるか、と理性は叫んでいる。
それでも、この城で長く暮らしてきた勘が囁いていた。
——あの殿なら、やりかねない。
林は、几帳面な字で日記をつけた。
《文政十五年六月二十日 丑刻
大奥御座の間にて地震。
城下には揺れ無しとの報。
震源、殿のお手元との風聞あり。信じがたし。
要調査。》
「……明日から、忙しくなりそうだな」
その頃。
江戸城の地の底、
誰も知らぬ黒い水の空洞で、なにかが微かに揺れた。
闇の底で長く眠っていた巨大な影が、
さきほどの「ぷるん」と「ゴゴゴゴゴゴ」の波を、
遠い夢の中でなぞるように感じ取る。
——……ほう……。
黒い水面に、うっすらと泡が立った。
——この尻……よき震えよ……。
——余の気と、よう響いておる……
それは声とも思念ともつかぬものだったが、
空洞いっぱいに低く響き渡り、水面に細い波紋をいく筋も走らせた。
その波紋は、かすかにお美代の奥ゆかしい“特級ぷるん”に似ている。
だが、それに気付く者は——少なくとも地上には、まだいない。
江戸の町は何事もなかったかのように夜を迎え、
ただひとり、城の上では家斉だけが布団の中で目を輝かせていた。
(尻とは、なんと神秘的なものか……
尻波紋……よい名じゃ……)
——尻を撫でれば城が鳴る。
——城が鳴れば、天下もまた……。
そんなことを考えては、
にやにやと笑って眠れぬ夜を過ごしていたのである。
この日を境に、江戸城は少しずつおかしくなり始める。
そして家斉が気付かぬまま、
「尻と地震」がひとつに結びついた始まりの日が、
今、静かに——しかしやたらとぷるんぷるんしながら——
幕を開けたのだった。
_______________________________________
はじめまして。
ある日妻の尻を揺らしてたら家が揺れてる気がしたたこの話を思いつきました。
小説を書いたのは初めてですが、
一人でも多くの歴史好き、江戸時代好き、大河好き、何より尻道探究者の皆様に読んでもらえたらと思います。
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