D.iary-12二人のノアと、世界から忘れられた僕ら

二人を包んでいた光団がゆっくりと崩れ、細かな光の塵となり、空気中で音もなく溶けていく。


視界が少しずつ鮮明になり、色彩が再び凝固する。ノアの足が再び見慣れた床を踏みしめた――そこは彼が知り尽くした自室だった。


壁の時計は静かに指している――12:00。 わずかなズレもなく、時間とは本来そうあるべきだと言わんばかりに。


「母さんはもう出かけたのか……」


ノアは小声で呟いた。確認するようでもあり、胸に残るわずかな不安を隠すようでもあった。


その時、耳元であの透き通った声が響いた。


「ノア……回溯ポイントに到達しました」


セシリアは彼の傍らに立っていた。 彼女の手はまだ彼に強く握り締められていたが、彼女は静かに彼に握らせたまま、振りほどこうとはしなかった。ただその体温を自然に二人の間に留めていた。


ノアはようやく気付いた――光の海に落ちた瞬間から、一度も彼女の手を離していなかったことに。 それは緊張ではない。 恐怖でもない。 それは……消えさせてはならない、ある種の依存(リライアンス)。


記憶の中で、セシリアの声が反響する―― 『私の手を離さないでください』 その一言が今も胸に響いている。微弱だが安定した鼓動のように。


その手を握っている瞬間に感じたのは、危険の減退ではなく――安堵(ピース・オブ・マインド)だった。


ノアは深く息を吸い、激しく打つ心臓を徐々に落ち着かせた。 そしてようやく、指先の力を緩め、その手をそっと離した。相手を驚かせないように、動作は緩慢で慎重だった。


光の塵はとっくに消え失せていたが、その体温は残り火のように留まっていた。


「ノア、早く起きなさーい。ノア、起きなさーい」


聞き慣れたアラームが、悩ましい小言のように空気に纏わりつく。ようやく安定した呼吸が、再び波立たせられる。 これは彼が熟知している音、彼の寝室から聞こえてくるものだ。


ノアは眉をひそめ、無意識にそちらへ歩き出した。ドアノブを握り、回す――ドアを手前に引いた瞬間、彼は微かに硬直した。


ベッドの中央に、一人の少年が横たわっている。 黒髪は乱れ、大の字になり、泥のように眠っている。枕元で目覚まし時計が叫んでいるのに、瞼一つ動かさない。


その顔、その姿勢、その嗜眠癖の見慣れ具合――間違いなく、彼自身だ。


ノアはドア口で呆然とした。まるで時間線が音もなく引き裂かれ、刺すような白い亀裂が入ったかのようだ。 ベッドに寝ている「彼」と、ドア口に立つ「彼」が、同じ瞬間に、同じ部屋で並存している。


セシリアがそっと指を伸ばし、指先を時計に向けた。 「ピッ」という音と共に、あの耳障りなベル音が瞬時に消え、部屋は再び静止に帰した。


それと同時に――ノアの胸が唐突に虚ろになった。まるで魂と世界を繋ぐ何らかの線が、誰かに密かに切断されたかのように。 足元の大地はそこにあるのに、透明な膜を一枚隔てているようだ。空気は吸えるが、もはや彼のものではないような感覚。 彼は思わず隣を見た。


セシリアは光の中で、静止した残光のように佇んでいた。 彼女は顔を向け、微風のように軽い声を落とした。


「貴方の顕現レイヤーを、私と同じ階層(レベル)まで引き下げました。これにより私たちは世界から剥離され、外界は私たちの存在を感知できなくなります」


ノアは眉を寄せた。「顕現レイヤー?」


セシリアは説明を続ける。声は相変わらず波がなく、宇宙の自然な法則を述べているかのようだ。


「時間は唯一のものです。私たちが時間線を回溯した時、世界は自動的に上書き(オーバーライト)を行います――これは世界が自己整合性を保つためのメカニズムです」 彼女は目を上げ、ベッドで熟睡している「もう一人のノア」を見た。


「ここには空白のアンカーが存在しません。そのため、貴方の感情が独立したアンカーを生成し、そのアンカーを通じて、私は一回性の回溯を行うことができました」 「そして、私は旅人(トラベラー)――時間線において絶対的唯一性を持つ存在です」 「回溯が発生した時、私がもたらした影響は全て世界によって消去(クリア)されます」 「消去されるのは私ではなく、『私が存在した痕跡』です」


ノアは呆然として言った。「つまり……ここはセシリアが存在しなかった世界ってことか」


彼女は隣に立つノアを見上げた。


「今、貴方が立っているこの瞬間も含めて――貴方もまた、もはやこの世界流の表層には属していません」


彼女の口調は柔らかい。


「ここが、本来の世界です」 「旅人も、日記もなく、貴方が経験したあの未来も存在しない世界」


ノアはその場に立ち尽くした。現実とのズレが生んだ感覚に、一瞬呼吸が詰まる。


「俺は……自分の世界に属していない?」


その言葉を口にした時、声は震えていた。だが次の瞬間、彼は何かに猛然と気付き、瞳孔を収縮させた。


「じゃあ――母さんは……もう事故には遭わないってことか?」


セシリアは、ノアの瞳に一瞬咲いた希望を見た。目の前のこの少年においては、母親の無事こそが最優先事項なのだろう。


彼女は目を上げ、透き通った瞳の色が光の中で微かに揺れた。やがて、彼女は静かに口を開いた。


「……いいえ」 「ノア、私は新たな時間線で推演(シミュレーション)を行いました」


彼女の声は軽いが、無慈悲なほど明瞭だった。


「擾乱因子を排除した場合でも、回溯が成功したとしても……貴方のお母様には依然として事故の可能性が存在します」


空気が急激に重くなる。 ノアの瞳孔が限界まで収縮した。セシリアは続ける。


「事象の根源は単一の『時間点』ではありません」 「より深層にある……因果の累積です」 「回溯は経路(パス)を変えることはできますが、すべてのリスクを抹消することはできません」


ノアの呼吸が止まり、それに伴う沈黙が薄霧のように二人の間に降りた。


彼は部屋に足を踏み入れた。空気中に漂う微かな湿った匂いが神経を逆撫でする。彼は窓辺に行き、窓を押し開けた。 早朝の風が冷気を伴って室内に流れ込み、胸のつかえを少しだけ散らした。


空は依然として早朝の静けさを保っている。 ノアは遠くを眺め、指先を無意識に握り締めた。


「……なら、俺がシミュレーションの結果を乱してやるよ」


セシリアは静かに彼を見つめた。 少年は横顔を窓外に向けていたが、その言葉と表情は、世界全体に対して何らかの決意を宣告しているかのようだった。


次の瞬間、ノアは勢いよく窓枠に手をかけ、身を翻して窓の外へと飛び出した。


「……?」 「……?」


セシリアは瞬きをし、反応することすら面倒だと言わんばかりに、ただ手を上げた。


見えない力がノアを空中でピタリと静止させた。不格好な落下の姿勢のまま固められ、そして小動物を摘まみ上げるように、彼女によって軽く部屋の中へ引き戻された。


「距離が離れすぎると、貴方の顕現レイヤーは自動的に低下(ドロップ)します」


彼女は天気の話をするように平然と言った。「いくつかの……不必要な誤解を引き起こすのを避けるためです」


セシリアは手を放し、ドアを指差した。


「ですから、正面玄関を通ってください」


セシリアによって再び部屋に「放り込まれた」ノアは、よろめきながら体勢を立て直し、小声で文句を言った。


「別に、一緒に飛び降りてくれてもよかったんだぜ」


「否決(リジェクト)」


セシリアの回答は躊躇ゼロだった。


ノアは望み薄と悟り、軽く溜息をつくしかなかった。 ドアノブを回して廊下に出る。最後の一歩を踏み出す前、ノアは振り返り、ベッドで眠る「自分」を深く見つめた。


寝室のドアが彼の背後で静かに閉まる。


ノアはゆっくりと玄関へ向かった。視界の端に、見慣れた傘が映る。 彼は一瞬立ち止まり、その傘を手に取って握り締めた。何らかの開始の合図を握るように。


彼は玄関のドアを開けた。


12:10。


正午の光が足元に降り注ぐ。


一人の少年と、一人の少女が、世界の基底データへと足を踏み入れ、未だ書かれていない未来を押し開こうとしていた。

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