第6話 新たな出会い
県立総合医療センター 5階病棟 — 病室へ向かうまもり
自動ドアが開くと、冷房のひんやりした空気と、消毒薬の匂いがふわりと鼻をくすぐった。
白と薄いグレーを基調とした清潔な廊下。 奥のナースステーションには、忙しく動くナースたちの姿が見える。
まもりは小さく息を整えてから、カウンターに近づいた。
「……あの、西松光希の……孫です。面会に来ました」
書類を整理していた若いナースが顔を上げる。 20代後半くらいの、髪を後ろで一つにまとめた、どこか疲労の影を持つ女性。
「あ、西松さんのご家族ですね。 どうぞ、531号室です。気をつけて行ってくださいね」
優しく微笑むように言って、軽く会釈をする。 その小さな優しさだけで、まもりは少し背筋の緊張がゆるむ。
「ありがとうございます……」
控えめに返事をしてから、廊下へ歩き出す。
廊下を歩いていると、病院特有の“静かだがせわしない”空気が流れていた。
忙しそうにメモを確認しながら早歩きするナース。 カルテのファイルを抱えて小走りする若い医師。 患者の部屋へ急ぐストレッチャー。
そのたびに、白衣やスクラブ姿の人たちがまもりに軽く会釈をする。
「どうも…」 「こんにちは」
まもりもお辞儀を返すが、声はとても小さい。 胸の奥がずっと緊張で固くなっている。
すれ違うナースたちは、忙しさの中でも丁寧に会釈をし、 まもりはその律儀さに、 “ここは本当に人の命を支えている場所なんだ…” とひそかに思った。
そんな感覚が、歩くたびに胸に広がる。
廊下の突き当たり近く、 “531” と書かれた銀色のプレートが見えた。
ふっと、まもりの表情が曇る。 扉の前に立つと、心臓が早くなる。
——おじいさん……大丈夫、かな。
震える指で、そっと扉に手を触れた。
静かに引き戸を開ける。
部屋の中は静かで、 生体モニターの ピッ…、ピッ… という規則的な音だけが響いている。
おじいさんは穏やかな寝息をたてているが、 酸素マスクのせいで少し苦しそうにも見えた。
まもりは、 ベッド脇の椅子に腰を下ろし、 そっとおじいさんの手に触れた。
——生きてる。ちゃんと呼吸してる…… それだけで胸が少しほどけていく。
そんな時、 ガラッ と急に扉が開いた。
入ってきたのは、 疲れ気味で、少し気が強そうなナースだった。
廊下ですれ違った穏やかな雰囲気のナースとは違い、どこか怖い雰囲気を醸し出していた。
彼女はまもりに視線も向けず、 無言で手際よく機器をチェックし始めた。
・点滴の流量を確認 ・針の固定を見直し ・体温の変化を電子カルテに入力 ・モニターの波形に異常がないか凝視
ただの一連の動作。 慣れたプロの動きで、余計な感情は一切入っていない。
カタカタとPCにサマリーを入力しながら、 突然、ぶっきらぼうに言い放った。
ナース「…あんた誰?」
まもりは肩をビクッと跳ねさせる。
「わ、若草…まもりです……孫です」
少し詰まりながら答える。
ナースは手を止めず、画面を見たまま言う。
「ふーん。ひとりで来たの?」
その言い方は、 “興味がない”でも“驚き”でもなく、 “確認作業のひとつ”というだけの無機質な声。
「……はい」
まもりは小さくうなずいた。
そのナースは電子カルテを閉じ、 スタンドを元の位置に戻しながら言った。
「この爺さんさ、寝言で“サトシ…サトシ…”ってよく言ってんだけど」
振り返り、まもりを見る。
「あんた、まもりって言ったよね? サトシって誰?」
心臓がきゅっと縮む。
まもりは息を飲んだ。
胸の奥にしまっていた名前。 聞かれたくなかった名前。
——また、その名前を… ——聞かれるなんて……
その瞬間、 表情がほんの一瞬だけ強ばる。
しかし、声には出せない。
まもりの静かな口元が、 かすかに震えた——。
まもりは少し視線を落とし、唇を震わせながら答えた。
「……聡(さとし)は、私の兄です……。」
その声は、か細く、今にも消えてしまいそうだった。
ナースはカルテ入力の手を一瞬止め、横目でまもりをちらりと見る。
「ふーん。じゃ、そのサトシ兄さんは見舞いに来ないの?」
軽く投げるようなその言葉は、まもりの胸に鋭く刺さった。
――あの時の、あの消失事件。
病院の空調が低く唸る音と心電モニターの規則的な電子音が、やけに大きく響く。 まもりの視界がぼやけ、ぽたり、と頬から涙が落ちた。
それを見て、ナースは驚いて目を丸くする。
「えっ……ちょ、ちょっと……どうしたの? あんた大丈夫?」
さっきまでの無愛想さとは空気が変わり、ナースは慌ててまもりの顔を覗き込んだ。 しかし、まもりの涙は止まらない。胸の奥に閉じ込めていた記憶が、勝手に溢れ出すようだった。
おじいさんの呼吸音、モニターの安定したリズム、病室特有の消毒液の匂い。 そのすべてが、兄を失ったあの日とどこか重なって見えた。
ナースはハンカチを探すようにポケットをまさぐりながら、 まもりの背におそるおそる手を伸ばした——。
まもりの涙は止まらず、頬を静かに伝い続けていた。 ナースは思わず身を固くし、どうしていいのか分からない様子で視線を泳がせる。
「ちょ、ちょっと……ほんとに大丈夫? ああもう……」
時刻は昼前。 ナースは腕時計をちらりと見て、息を整えるように一度深呼吸した。
「……あ、あのね。今日の私、もうこのあと明けで終わりなのよ。」
ぎこちないが、さっきより明らかに優しい声音だった。 それでも普段の口調のぶっきらぼうさは抜けない。
「ねえ、あんた……朝ごはん……いや、昼ご飯は食べた?」
まもりはまだ俯いたまま、弱々しく首を横に振る。
ナースは一瞬だけ言葉を詰まらせた後、 ふっと力を抜いたような声で言った。
「……よし。お昼ご飯、奢るわ。ほら、一緒に食べよ。」
その言葉が病室の空気を少しだけ柔らかくした。 まもりは涙を袖で拭い、ほんの少しだけ間を置いてから、小さく首を縦に振った。
「決まりね。」 ナースはそう言って、カルテの端末を閉じた。
「じゃあ……病院の正面入り口で待ってて。すぐ行くから。」
曇り空の下、救急車のサイレンの遠い音だけが響いている。 正面玄関のガラス張りの影の中で、まもりは両手を胸の前で組み、静かに待っていた。
数分後、 「ブロロロ……」と少し軽いエンジン音を響かせながら、 黄色い軽自動車がロータリーに滑り込んできた。
運転席の窓が降り、ナースが顔を出す。
「こっちだよ。乗って。」
さっきまで「誰あんた」と言っていた態度からは想像できないほど、 柔らかい表情だった。
まもりは小さく頷き、車へと歩き出した——。
ナースは車を停めると、助手席側に回り込み、 「乗って」と言いながらドアを開けてくれた。
まもりは小さく会釈してから、そっと助手席に座る。 ドアが閉まると、外のざわつきが一気に遠ざかり、 車内はふたりだけの静かな空間になった。
ナースは運転席に戻り、エンジンを入れながら シートベルトをカチッと締める。
「えっとね……よく行く喫茶店なんだけど、 とーっても美味しいんだよ。ほんとに。」
少し緊張が混じった声。 普段ぶっきらぼうな彼女の、めずらしく控えめな話し方だった。
車を発進させながら、 「新大宮の方なんだけど……」と目線は前のまま続ける。
「今更だけどさ、家から遠かったりしない? ちょっと心配で。」
まもりは落ち着いた声で答える。
「私は……大船橋の方だから、大丈夫です。」
「えっ……大船橋?」
ナースが驚いたように目をまるくした。
「わ、私も! 大船橋商店街の近くのマンションに住んでるの!」
ほんの数分前まで涙に戸惑っていた人と同一人物とは思えないほど、 ナースの表情がふわっと明るくなる。
「奇遇だねぇ……ほんと、びっくり。」
ナースの声が少し弾んだことで、 車内の空気が柔らかくなった。
まもりはまだ緊張しているものの、 相手の明るい空気に包まれるように、小さく息をつく。
やがて車は、新大宮の静かな通りへ滑り込み、 クラシックな佇まいの喫茶店 「喫茶ルノアンヌ」 の前で停車した。
深い緑の庇、重厚な木の扉。 外観からすでに、店に流れる時間がゆっくりであることが伝わってくる。
ナースはシートベルトを外し、まもりの方へ向いて微笑んだ。
「着いたよ。ここ、ほんと美味しいの。」
まもりは静かに頷き—— ふたりは扉へと向かった。
喫茶ルノアンヌ
扉を押して入ると、 ベルの澄んだ音とともに、柔らかいコーヒーの香りがふわりと漂った。
店内は落ちついた照明に木目調の家具。 静かなジャズがふたりを迎えてくれる。
マスターが軽く会釈し、 「こちらへどうぞ」とテーブル席へ案内した。
木の椅子が控えめな音を立て、ふたりは腰を下ろす。 まもりは手を膝の上に揃え、まだ少し緊張したまま座っている。
メニューを手に取ったとき—— ナースが口を開いた。
「そうだ、まだ名乗ってなかったよね。」
まもりが顔を上げる。
「私、あかり。大島あかり、25歳。」
年齢までさらりと言い切ったあかり。 まもりは、思わず クスッ と微笑む。
その反応が嬉しかったのか、 あかりは続けざまに、わざとらしい昭和風の仕草で肩をすくめた。
「でもさー、この年齢になるとさ。 すーぐ“おばさん”とか言うやつがいるわけよ! でもね、あたしはピッチピチに若いんだから!」
胸の前で両手をぐっと握る“謎の昭和ポーズ”。
思わず、まもりは ふふっ と、さっきより大きく笑ってしまった。
少し肩が揺れるほどの、自然な笑い。
その笑みを見て、あかりは満足げに頷く。
「よしよし、その顔その顔。緊張してると、ご飯も美味しくないしね。」
コーヒーの香りが漂う中、 まもりの張りつめていた心が、ゆっくりとほどけていった。
「あのさ、まもりちゃん。」
メニューを閉じながら、あかりがにこっと笑う。
「私のおすすめ、食べてみない? 絶対びっくりするよ。」
そう言って、あかりは店員を呼ぶ。
「すみませーん、トリプルアンヌを2つお願いします!」
店員は慣れた様子で「はい、トリプルアンヌ2つですね」と軽く頭を下げていった。
しばらくすると—— 木のテーブルに大きな影が落ちる。
「お待たせしました〜、トリプルアンヌです。」
その瞬間、まもりの目が丸くなった。
皿には、 常識外れの厚みを持つ卵サンド4切れ。 ふわふわで、はち切れそうな卵焼きがパンから主張している。
そして、皿いっぱいに山盛りのサラダ。 さらに—— 何層あるかわからないほどのチョコ・いちご・バナナの巨大パフェ。
その迫力と彩りに、まもりは言葉を失った。
「……え……」
そして、堰を切ったように——
「ぷっ……ふふっ……あはははっ!
笑い声がこぼれた。 肩を震わせながら、声を押し殺せない。
まもりが笑いながら言う。
「これ……シュバルツさんと同じ……!」
その表情は、 あの“一級品の笑顔”。
ぱあっと世界が明るくなるような、 柔らかくて、眩しくて、見る者の心をさらってしまう笑顔。
その笑顔を真正面から見てしまったあかりは——
——瞬間、呼吸を飲んだ。
胸の奥がきゅっと熱くなる。 頬に淡いピンクがじわっと浮かび上がる。
(……なに、これ。やば…… 女の子相手なのに……好きになりそう……)
あかりは思わず視線をそらし、 手元の水のグラスを持ち上げて誤魔化した。
「……ほ、ほらっ、とりあえず食べよっか!」
声がわずかに裏返り、 自分でも驚いたように咳払いをする。
まもりはまだ笑いを引きずりながら、 「はい……」と優しく答える。
その笑顔に、あかりの胸はさらに跳ねた。
シーン:喫茶ルノアンヌ 食後のテーブル
大きなトリプルアンヌを前に、2人は少しずつ、しかし確実に空腹を満たしていった。
あかりはパフェをつつきながら、ふと喋り出す。
「看護師ってね、もう……大変なんだよ。」
まもりは箸を止めて、興味深そうに目を向ける。
「まずね、先輩ナースがめちゃくちゃ怖い。 あたし、点滴のライン間違えて引っ張ってさ、 『大島ぁ!!アンタ何やってんの!!』って、 病棟の端から端まで響くくらい怒鳴られたんだから。」
まもりは目を丸くして、 次の瞬間、ぷっと笑う。
あかりは肩をすくめて続けた。
「でさ、あの禿げた医者。あれがさ、回診のたびにさりげなく肩触ってくるの。 “患者のカルテ確認ね〜”とか言ってるけど、完全に嘘! あれは触りたいだけ! 完全にジジイのセクハラ!」
口調は軽快。 怒っているようで、どこか吹っ切れている。
まもりはくすくすと笑いが止まらない。
「でもね、夜勤明けに飲む缶コーヒーだけは最高なの。 “あぁ……生きてる……”って感じる瞬間。 ……変でしょ、あたし。」
「変じゃないです……」 まもりは思わず声を出した。 柔らかい声。 自然と笑っている。
あかりはその声に気づき、嬉しそうに微笑む。
二人はその後も、お互いの知らない世界の話をした。 まもりは、病院の裏側のリアルな話に引き込まれ、 自分の部屋で塞ぎ込んでいた世界から、 少しだけ離れた気がした。
食事が終わり、 テーブルの上にはコーヒーカップと水のグラスが残るだけ。
ふと、あかりが真面目な顔をした。
その目の奥に職務の光が宿る。
「……ねえ、まもりちゃん。」
「はい……」
「ナースとして……質問していいかな?」
まもりは、小さく息を吸った。 喉が少しだけ震えながらも——
こくん、と首を縦に振る。
あかりの瞳が、まもりをまっすぐ見つめた。
喫茶店のざわめきが、急に遠くなった。
シーン:喫茶ルノアンヌ 静かな昼下がり
コーヒーの香りが淡く漂い、店内のざわめきがゆっくりと流れていく。 あかりはグラスの水を一口飲み、そっと置くと、姿勢を少し正した。
「……ねえ、まもりちゃん。」
その声は、先ほどまでの軽快さとは違い、 どこか慎重で、でも温かかった。
「あのね。答えたくなければ、答えなくていいの。 それは絶対に守るから。」
まもりは、膝の上で手を強く握りしめる。
あかりは続ける。
「でも……さっき病室で泣いた時、 あれ、ただの涙じゃなかった。」
まもりの肩が、小さく震えた。
「人ってね、悲しい時は泣くけど…… 壊れそうになる時の涙って、もっと違う流れ方をするんだよ。」
まもりは、俯いたまま固まっている。
あかりは、ゆっくりと言葉を選ぶように話した。
「だから……あたし、心配なんだ。 このままだと、あなたが…… ほんとに壊れちゃうんじゃないかって。」
その声は震えてはいない。でも必死だった。
「病室で、あの“サトシ”って名前が出た時の…… まもりちゃんの反応。 ただの兄妹の話じゃないって、すぐにわかった。」
沈黙。
長い沈黙。 カップの立てる小さな音さえ響くほどの静けさ。
あかりは、テーブルの向こうから手を伸ばすことはしない。 ただ、まもりの表情を壊さないように見守るだけ。
「……話せるならでいい。 話してほしいな。 あなたの中で、何が起きたのか。」
まもりは、唇をぎゅっと結んだまま動かない。 視線がテーブルの一点に固定されている。
胸の奥で何かが渦巻いている。 言葉にすれば崩れてしまいそうな感情。
まもりは——黙って、考え続けた。
静かに。 必死に。 心の奥の扉を、どう開ければいいのかを。
シーン:喫茶ルノアンヌ まもりの告白
店内の空気が、まるで時間をゆっくり固めるように静まり返っていく。
まもりは、両手を膝の上で握りしめたまま、 震える息を一つゆっくり吐いた。
そして——
「……私、小学生の時……両親を事故で亡くしました。」
その声は細い。でも、消え入りそうなのにしっかりと響いていた。
あかりの表情が、そっと曇る。
「それで……兄と一緒に横浜を離れて、母の実家の奈良に来たんです。 北まち漢方……。」
その言葉を聞いた瞬間、あかりは目を丸くした。
「えっ……! 北まち漢方の…… あの西松先生のお孫さん!?」
驚きが口から漏れたが、まもりは反応しない。 まるで、記憶の奥をひとつひとつ辿っているかのように。
「……私、小さい頃から兄のことが好きで…… ずっと、くっついてました。」
まもりの声の端に、微かに懐かしさと痛みが混じる。
「兄は……ダサいんです。 おじいちゃんの服を借りて着るくらい。 でも……すごく優しくて…… 本当に……大好きで……。」
語れば語るほど、まもりの肩が小さく震え始める。
あかりは何も言わない。 ただ、強いまなざしで見守っていた。
「……半月前、宇治川の花火大会の日。 兄が……チラシをくれて、誘ってくれて……」
まもりの喉が詰まるように動く。
「待ち合わせの時間になっても、兄が来なくて…… 兄は……時間にルーズだから…… またか……って思って……。」
そこで、まもりは初めて顔を伏せる。
「……迎えに行ったんです。 兄の……大学の中まで……。」
テーブルの上に落ちる影が、揺れる。
それは、まもりが震えているせいだった。
続きが言葉にならない。 でも、止められない記憶の流れが まもりの中で押し寄せている。
あかりは、その沈黙がどれほど重いものなのかに気づき、 そっと唇を噛みしめた。
まもりは唇を震わせ、涙をこらえるように一度まぶたを強く閉じた。 あかりはまもりの手の近くにそっと手を置き、触れはしないが「ここにいるよ」と言うように寄り添った視線を向ける。
「……兄を、研究室まで迎えに行ったんです。」
まもりの声は、今にも途切れそうなほど細く弱かった。
「花火大会の日、兄は“すぐ行く”って言ってたのに、時間になっても来なくて……。大学の中、暗くなり始めてて、でも中庭には学生がたくさんいて──なんだか、祭りみたいにざわざわしてて……。」
視線は床へ落ち、手がひざの上で小さく震えている。
「あの研究室の前に着いた時、ドアの隙間から……光が、漏れてたんです。白い光で、昼みたいに明るくて。中に兄がいるって思って、開けたら……」
まもりの喉がかすかにつまる。
「兄が、光に……飲まれていったんです。ほんとうに一瞬で。 叫ぶこともできなくて……。気づいたら、そこには何も残ってなくて……」
ぽとり、と涙が落ちる音がした。
あかりは息を呑んだが、まもりの話の途中で口を挟まない。ただ、必死にこらえているまもりの痛みを静かに受け止めようとするように、まっすぐ見つめていた。
まもりは両手で顔を覆いながら、声を震わせてつぶやく。
「……あの光が何だったのかも分からないし、兄がどこに行ったのかも分からない。 でも……あの日から、ずっと怖くて……誰にも言えなくて……」
震える肩が小刻みに上下した。
その姿を前に、あかりはそっと椅子を引き寄せ、静かにまもりの隣に座った。
「まもりちゃん……」
その声は、まもりの壊れそうな心に触れないように、そっと包むような柔らかさだった。
まもりは、胸の奥に押し込めていたものがとうとう溢れだすように、ぽつりぽつりと言葉を落としていった。
「兄が……いなくなってから……。 部屋にこもって、ずっと音楽ばかり聴いて……。 おじいさんのこと、何も考えられなくて……。体調が悪くても、気にしてあげられなくて……」
涙が一筋、頬をつたい落ちる。 指先で拭おうとするが、次々とあふれ、追いつかない。
あかりは眉をひそめ、そっと声をかける。
「おじいさんは……大丈夫だよ。そんな──」
しかし、まもりは激しく首を横に振った。
「大丈夫じゃない……! 私は自分のことばっかりで……。 おじいさんだって、トシ君のこと気にしてるに決まってるのに……!」
言葉が震えながら堰を切ったように流れ出す。
「自分だけが不幸みたいに思って……独りよがりで……。 おじいさんのことも、トシ君のことも……何も考えてなくて……! ほんとに、ほんとに……バカで……!」
そこまで言ったとき、まもりの体がふるふると震えはじめた。 涙があふれて、もう止めることさえできない。
その瞬間だった。
あかりがそっと両腕を伸ばし、まもりを抱きしめた。 振り払わず、ただ受け止めるように、あたたかく、やわらかく。
「……大丈夫だよ、まもりちゃん」
耳元で、息を整えるように優しく言う。
「今は苦しくて、自分のことだけでいっぱいいっぱいいになっちゃっても……それでいいの。 そんなの、誰だってそうなる。 あなたはバカじゃないよ。ちゃんと、ちゃんと痛がってるだけだよ」
まもりは、あかりの肩に顔を埋めるようにして、子どもみたいに泣きじゃくった。
あかりはその背を、一定のリズムでやさしく撫でながら、もう一度だけ、包み込むように言った。
「……私がいるよ。 大丈夫。ひとりじゃない」
その言葉は、静かに、まもりの壊れかけた心を抱きとめていくようだった。
店を出たあと、夕方の空は少し赤みを帯びていた。 涼しい風が吹き、泣いたあとのまもりの頬を優しく撫でる。
あかりは車のドアを開けて、まもりを後部座席ではなく、あえて隣の助手席に座らせた。 「こっちの方が安心するでしょ」と言うように軽く笑いながら。
車が静かに走り出す。 二人の間にはさっきまでの涙の余韻があったが、重たいものではなく、どこか柔らかい空気に変わっていた。
しばらくすると、まもりの家の前に到着した。
エンジンを止めたあと、あかりはバッグをごそごそと漁り、小さなメモ紙を取り出す。 そして、さらさらと自分の字で電話番号とLINE IDを書き込み、折りたたんでまもりの手のひらにそっと押し込んだ。
「……はい、これ」
軽い調子で言うが、その声には揺るがない優しさが滲んでいる。
「何かあったら、遠慮なく連絡して。 あたしんちすぐそこだから、すっ飛んでくるし。 ……っていうか、別に何もなくても連絡していいし」
ちょっとそっぽを向きながら言う。 ぶっきらぼうだけど、言葉の端々に真心が溢れていた。
「……あたしがいるからさ」
最後だけは、真正面からまもりの目を見て、真剣な声で。
まもりはきょとんとした表情のままメモを見つめ、 胸の奥が温かく満たされるのを感じた。
そして、顔を上げると——。
「──はい!」
いつもより少し大きく、澄んだ声で答えた。 まるで吹っ切れたように、まるで光が差し込んだように。
その声と一緒に浮かんだ笑顔は、 泣き顔のあとに咲く、柔らかい、まっすぐな笑みだった。
あかりは一瞬、見惚れたように瞬きを忘れ、 照れ隠しのように頬を指でかいた。
「……よし、元気出たなら、それでよろしい!」
わざと大げさに言うと、まもりはくすっと笑った。
車のドアを閉める音が、静かな夕方の街に響いた。
まもりは家に入ると、靴を脱ぎながら小さく息をついた。 ただの帰宅の動作なのに、胸の奥にはさっきと違う何かがあった。
洗面所で水を流し、手を洗い、そして顔を洗う。 冷たい水が皮膚に触れて、涙の熱をさらっていった。
顔を上げて鏡を見る。 赤くなった目元、濡れた頬の跡。 まもりはしばらくじっと、自分の瞳を見つめ続けた。
「……」
見ているうちに、胸の奥のざわめきがゆっくりと形になっていく――そんな感覚がした。
階段を上がり、自室のドアを閉めると、 まもりはいつものようにノートPCを開く。 ヘッドフォンを手に取り、耳に当てる。 カチリ。
にゃんこもろもろの音楽が流れ始める。
気だるい曲、夜に沈むような曲、ふざけた曲…… いくつかの曲が過ぎていく。
そして。
バンド結成初期の曲──「大回転」が流れる。
ジャン、と弾けるギター音。 粗削りなのに勢いがあるリズム。
そして、まもりが何度も聴いたフレーズが耳を打つ。
——欲しいなら自分で掴み取れ。 ——欲しいなら自分が変われ。
その瞬間、まもりの目が見開かれた。
涙で曇っていた瞳の奥に、決意の光が宿る。
まもりはヘッドフォンを外し、スマホを掴むと、 迷いなくあかりにメッセージを送った。
『あかりさん、今いいですか? 来てほしい』
送信して数秒で返信が来た。
『すぐ行く! まってて!』
その言葉の速さに驚く暇もなく、 10分後──インターホンが鳴る。 ドタドタと階段を駆け上がってくる足音。
「まもり!? ど、どうしたの……っ!」
ドアを開けたあかりは、肩で息をしながら立っていた。 髪は少し乱れていて、本当に全力で走ってきたのがわかる。
まもりはゆっくり立ち上がる。
そして、真っ直ぐにあかりを見た。
「……決めた」
「な、何を……?」
あかりはまだ息を整えられずにいる。
まもりは一瞬だけ微笑み、力強く言い放った。
「もちろん──トシ君を探す!」
その声は、泣いていた少女のものではなかった。 迷いのない、いつもの強気なまもりの声だった。
あかりは、息が止まるような一瞬の驚きを見せたあと、 戸惑いの表情を浮かべる。
「……はぁ。まったく……」
息を切らすあかりの前で、まもりは真っ直ぐあかりを見据えていた。 その瞳にはもう迷いがなかった。 いつものまもり――いや、それ以上に強い意志の光を宿していた。
「決めたの。私、トシ君を探す。必ず見つける。」
夜の静かな家の玄関に、まもりの声が響く。 あかりは瞬きし、まだ肩で呼吸しながら戸惑った。
「……え、えっと……どこを?どうやって? だって、今は警察だって探してるんだよ?そ まもりちゃん一人で――」
「警察を待ってるだけじゃダメなの。 待ってたら、もっと遠くへ行っちゃう。 だから、掴み取るんだよ。自分で。」
言い切るまもりに、あかりは思わず眉間にしわを寄せる。
「……つ、掴み取るって……? え、何?どういう意味?」
まもりの勢いと温度差についていけず、あかりの頭の中に「???」がいくつも浮かぶ。
「ま、まさか何かあてがあるの……? あんた……もしかして……」
不安を押し隠しきれず、あかりは慎重に言葉を探す。
まもりは深く息を吸い、ふっと笑った。
「もちろんあるよ。」
自信たっぷりな口調。 あかりはさらに混乱する。 そして、つぎの一言で固まった。
「――宇宙人だよ。」
玄関の空気が止まる。
「…………え?」
あかりは一瞬、本気でまもりの中で何かが壊れたのだと思った。
「ま、まもりちゃん、今日は……あたしの家に泊まろっか。 ね?一緒に寝よう? 大丈夫、大丈夫だから……」
完全に保護モードに入るあかり。 両手でまもりの肩をそっとつかんで、優しく諭すように言う。
だが、まもりは即座に首を振った。
「違うよ。おかしくなんてなってない。 宇宙人――ニャロンのことだよ。」
一瞬であかりの瞳が見開かれる。
「彼らに協力してもらうの。 トシ君を探すために。」
まもりの表情は真剣そのものだった。 あかりは唇を開きかけて、言葉を失ったまま固まる。
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