第5話 一級品の笑顔
餅米センター街の朝は、休日の活気に満ちていた。 隣接するスーパーの朝市では、地元農家の野菜や果物が山のように並び、 「安いよー!」「甘いよこれ!」という威勢のいい声が飛び交っている。 通りを行き交う人々の笑顔、子どものはしゃぐ声、 紙袋がこすれる音、焼きたてパンの香り—— 奈良の、いつもの穏やかで賑やかな休日の朝。
しかし、その喧騒から一歩奥へ入った夢長屋では違う空気が流れていた。 「定休日」の札を吊り下げたニャロン広報センターの小さな扉の向こう。 そこには、静かで温かな空間があった。
昨夜はウエルテルの提案で、広報センターにまもりを泊めることにした。シュバルツもまもりの様子に不安を感じていた。二人は店内のテーブル席で、まもりは店の奥にある畳の居住スペースで一夜を明かした。
店内には、昨夜の面影がまだ残っている。 畳の上に敷かれた客用布団、丸められたタオル。 そしてテーブルには、湯気を立てるポットと、準備中の朝食の香り。
ウエルテルがカウンターの奥で静かに作業していた。 小さなフードプロセッサーが低く唸り、 香ばしい匂いが部屋に広がる。
「――まだ名前を言ってなかったな。」
シュバルツがぽつりと口を開いた。 昨夜からずっとまもりのそばにいるその声は、 いつになく落ち着いていた。
まもりは座卓前に小さく座っている。 肩をすぼめ、手を膝の上で握りしめ、昨日よりは少しだけ表情がある。
「オレはシュバルツ。ニャロンの……まあ、いろいろやってる。よろしくな。」
その瞬間、ウエルテルが料理を盆に載せて運んできた。 アジアンテイストの甘い香りがふわりと漂う。
「そして、僕はウエルテルです。どうぞ、気軽に話しかけてください。」
一礼する姿は丁寧で、まもりは少し驚いたようにまばたきをした。
三人が座卓の周りに揃った瞬間、 ウエルテルがやわらかい声で、
「あなたのお名前を、教えてもらえますか?」
と尋ねた。
まもりは一瞬だけ言葉を失い、 指先をぎゅっと握ってから、小さな声で答えた。
「……わ、若草……まもり……」
「まもりさん。素敵な名前ですね。」 ウエルテルが優しく微笑む。
その瞬間、まもりの肩がほんの少しだけ緩んだ。
「さあ、食べましょう。できたてですよ。」
テーブルには、きつね色に焼き上がった特製カレーパンが並べられた。 ほんのりスパイスの香りが漂い、外はサクッと、中は具沢山。
「おおっ……いい匂いだな!」 シュバルツが鼻をひくひくさせる。
そして――
がぶっ!
そして次の瞬間、 彼はパンをまるごと、大きな口でがぶりといき、一気に飲みこんだ。
ウエルテルは呆れ顔で、 まるでお母さんのように眉をひそめる。
「シュバルツ。君、それは“味わう”という行為を完全に無視してる……」
「え、だってうまいんだもん!」
「だからって丸呑みはルール違反だよ……!」
軽いツッコミが飛び交い、 その小さなやり取りが、薄暗かった空気に少し光を落とす。
まもりは、膝の上で手を組み、落ち着かない様子でパンを見つめていた。
ウエルテルはそっと、まもりの前に一皿置く。
「無理しなくていい。でも……ちょっとだけ、食べてみて。」
まもりは小さく頷き、 カレーパンの端をほんの少し、かじった。
本当に少しだけ。
「……あ。あったかい……」
昨夜よりも、声を出し、反応するまもり。 まだ弱々しいが、その小さな一歩が確かにあった。
それを見て、シュバルツは大げさに親指を立てた。
「だろ!? このカレーパンは—— 天才シェフ、ウエルテル様が作った“とーーっても栄養がある”ヤツなんだぜ!」
ウエルテルは、「やめてよもう」と言いたそうに肩をすくめる。
しかしシュバルツは続けた。 まるでまもりの胸に光を押し込むように、 言葉を重ねていく。
「食べるってのはよ、まもり…… 生きるってことだ。 オレたちは、生きるために食うんだ。」
「……」
「だからさ、ちょっとずつでいいから。 少しずつ食べて、少しずつ生きるんだ。 昨日より、今日のほうがちょっと元気なら……それで十分。」
その声は大きいくせに、 やけに優しく、まっすぐだった。
まもりは返事をしない。 ただ、静かに、小さく、もう一口かじった。
その小さな動作を見て、 ウエルテルはほっと息を吐き、微笑んだ。
夢長屋の外からは、朝市の賑やかな声。 中の小部屋では、静かな3人の時間がゆっくり流れていた。
———————
カレーパンの香ばしい匂いがまだ室内に漂っている。 まもりは小さく一口だけかじったカレーパンを皿に戻し、ぽつりと問いかけた。
「……そういえば……2人は、どうして私の家に来ていたの?」
その声は弱々しいが、昨夜よりずっと“まもりが戻ってきている”気配があった。
シュバルツは飲み物を飲もうとしていた手を止め、ウエルテルを見る。 先に話せ、というような目だ。
ウエルテルは深くため息をつきながら、椅子の背もたれに体を預ける。 そして、すこし細い目になり、わざとらしく咳払いをした。
「……実はですね。シュバルツが――」
「ちょ、ちょっとウエルテル!? 余計なことはだな!」
「――食べすぎて、お腹を壊しました。」
まもりの手がぴたりと止まる。 シュバルツが盛大にむせる。
「ちょ、ちょっと待て! お前、言い方ってものがあるだろ!!」
ウエルテルは肩をすくめ、口元にうっすら笑みを浮かべながら続ける。
「昨日、あの人は“おやつの試作品”を味見と称して大量に食べましてね。 結果、腹痛でのたうちまわり、“助けてウエルテル~”と私の部屋まで来たのです」
「言ってねえ!! そんな情けない言い方してねえからな!!」
ウエルテルはまるで決定的な証拠を出すかのように、ポン、と指を立てる。
「で、漢方薬を切らしていたので、薬草を分けてもらえないかと。 あなたのおじいさんは薬草の扱いを心得ていますから」
まもりの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。 ほんのわずか、だが確かな変化だ。
「……そうだったんだ」
シュバルツはまだ文句をぶつぶつ言っている。
「いや、だってよ……あの腹痛はマジで死ぬかと思ったんだぞ…… ウエルテルの薬は効くんだよ、すぐ治るんだよ……って、なんで俺が恥かかされてんだよ」
ウエルテルは冷ややかに言う。
「自業自得です」
そのやり取りが、 ほんの少しだけ、 まもりの胸の奥に“暖かさ”を戻していく。
3人の空気が、ゆっくりと柔らかくほどけていく。
朝の光が広報センターの窓から差し込み、カレーパンの香りがまだふんわり漂っている。
まもりは黙って指先をいじっていたが、突然顔を上げた。
「……あの……ごめんなさい」
その声は小さいが、はっきりしていた。
シュバルツは飲みかけのコーヒーを危うくこぼしそうになり、目を丸くする。
「えっ? ど、どうしたんだ?」
まもりは視線を伏せ、両手を膝の上でぎゅっと握りしめた。
「この前、マンナで…… シュバルツさんに……すごく怒って……ごめんなさい」
沈んだ声。 自分を責めるような言い方。
シュバルツは慌てて手を振る。
「いやいや! 俺の方こそ悪かったって! あれは俺が、ちょっと……ほんとに調子に乗ってて……」
そこに、クスクスと笑う声が落ちてきた。
ウエルテルだ。
「シュバルツはいつも“がっついて食べる”から困っていたんですよ。 怒ってくれて、むしろ感謝です、まもりさん」
わざとらしいほど丁寧な口調。 まるでからかっているように。
シュバルツが「おい!」と抗議するより早く――
まもりが、 ふっと笑った。
それは、ここ数日まったく見られなかった、 あの“一級品の笑顔”。
ぱっと花が咲くように明るくて、 柔らかくて、 ほんの一瞬でその場の空気を変えてしまう。
その笑顔を正面から受け止めてしまった2人は――
「っ……!」
「……っ……」
一瞬で赤くなる。
頬が熱くなる。 視線がぶつかり、慌てて互いに目をそらす。 シュバルツは耳まで赤い。 ウエルテルでさえ珍しく動揺している。
まもりは首をかしげた。
「え……どうしたの?」
シュバルツは口ごもる。
「い、いや! いや別に! その……な?」
ウエルテルも珍しく言葉を噛む。
「こ、こちらこそ……あの……健康的で……大変よろしい……笑顔で……ええ……」
そのしどろもどろな様子が可笑しくて、 まもりはまた、くすっと笑った。
そして――
その“一級品の笑顔”が再び放たれる。
まっすぐ、2人の方へ。
シュバルツとウエルテルは、同時にまた顔をそらし、 椅子の上で固まってしまう。
センターの中に、 久しぶりに、 柔らかい笑い声が響く。
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