第3話 孤独
♦︎病院、救急処置室
――消毒液の匂い。 どこか遠くで鳴る電子音。
まもりは、ゆっくりとまぶたを開いた。
白い天井。 光がぼやけて見える。 口元には酸素マスク。 腕には点滴の管がつながれている。
(……ここ、どこ……?)
視界が定まると、 ベッドのすぐそばに、祖父――光希が座っていた。
深く刻まれた皺のひとつひとつに、 どれほど心配し、 どれほど待ち続けたのかが滲んでいた。
まもりがわずかに動くと、祖父は息をのむように顔を上げ、 すぐにナースコールのボタンを押した。
すぐに看護師が入ってきて、 ベッドに近づき、柔らかい声で言う。
「意識、戻りましたね。担当医を呼びますから、安心してくださいね。」
看護師は静かに部屋を出ていった。
まもりは酸素の流れる音を聞きながら、 祖父の袖を掴もうと指を動かす。
(……トシ君……トシ君は……)
声にしようとするが、 喉が詰まってうまく出ない。
「……とし……く……ん……」
それは囁きというより、 風のように小さな音だった。
祖父はまもりの手を包み込み、 かすかに首を振った。
「まも……あとで話そう。今は体を戻さなきゃね。」
その時、担当医が慌ただしく入ってきた。 白衣のポケットにはペンライト。
祖父は一歩下がり、医師に場所を譲る。
「若草さん、わかりますか? 深呼吸できますか?」
医師が酸素マスクを軽くずらし、 そっとライトをまもりの瞳へ当てる。 まもりは弱々しく瞬きをした。
「……っ……」
聡の名前を言おうとするが、 医師の質問がそれを遮っていく。
「搬送された時、かなり過呼吸が強かったんです。SpO2も70を下回って呼吸困難の状態でした、しばらく安静にしてください。 痛いところや苦しいところはありますか?」
まもりは小さく首を振る。 涙は出ない。
ただ、胸の中だけがひどく重い。
医師の診察が続く中、 まもりは、もう一度だけ囁いた。
「……トシ……君……」
その声はあまりにも細くて、 誰にも届かなかった。
♦︎退院の日
退院の日。 薄曇りの空の色と同じような、青白い顔。
まもりは祖父に付き添われてタクシーに乗り、 揺れに身を預けたまま一度も窓の外を見なかった。 まばたきの回数すら少ない。 呼吸も浅く、無表情のまま家へ戻った。
玄関をくぐってからも、まもりの足取りは沈んだまま。 祖父は声をかけるべきか迷いながら、 ただそっと見守るしかなかった。
まもりは自室のドアを開け、 静かに入る。
机の前に立ち、 病院の看護師が丁寧にビニール袋へ入れてくれた あの日の浴衣をそっと置く。
紺地に淡い花柄の、夏の記憶。
その手つきは弱々しく、 まるで薄いガラスを扱うかのよう。
椅子を引く音が、 静まり返った部屋にやけに大きく響く。
椅子に上がり、 体育座りのまま小さく身を丸める。
ノートPCを開き、電源を入れる。 機械音すら重く感じる沈黙。
傍らに置いていたヘッドホンを両耳へかぶせ、 いつものプレイリストを開く。
――“にゃんこもろもろ”の曲。 やさしくて、どこか切ないボーカル。
イントロが流れ、 声が乗る。
その声は、 普段なら心を軽くしてくれるはずなのに。 今日は胸の奥を刺してくる。
しばらく、ただ音を聞いていた。 まもりは瞬きも忘れて浴衣を見つめる。
その布地に―― 脳裏に―― 聡の笑顔が鮮やかに浮かぶ。
「……っ」
涙が、 静かに、頬をつたう。
曲がサビに入り、 切ない歌声が一段と響いた瞬間、 涙は留まる場所を失ったように流れ出す。
ぽた、ぽた。 浴衣のビニール袋に、涙が落ちる。
堰を切ったように、 呼吸が震え、 でも声は出ない。
まもりはヘッドホンのボリュームを上げる。 音で胸の痛みを押しつぶすように。
涙は止まらず、 止める気力もない。
泣いて、泣いて、 息を吸うたびに胸が痛むほど泣き続け――、
そして、 音楽を流したまま、 疲れ果てた身体はそのまま眠りへ落ちていく。
椅子の上で丸くなったまま、 まもりは静かに眠り込んだ。
ヘッドホンからは、 相変わらず優しい声が響いていた。
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