第2話
~妹の風邪は国家の一大事~
・緊急事態発生(コード・レッド)
「一ノ瀬さん、この資料の件なんだけど」
「部長、その件はB案で修正済みです。稟議も通しておきました」
午前11時。
私はいつものように涼しい顔で業務を遂行していた。
スマホが震えるまでは。
ディスプレイの端に表示された通知。
『優奈:熱出た。学校早退する』
その瞬間、私の脳内で警報が鳴り響いた。
『緊急事態発生! 緊急事態発生! エンジェル優奈が発熱! 繰り返す、エンジェル優奈が発熱!』
「……部長」
「ん? どうした一ノ瀬くん、顔色が悪いぞ」
「申し訳ありません。家族が急病で倒れました。午後の会議の資料はデスクにあります。私の有給残日数は40日あるはずです。失礼します!」
「えっ、ちょっ、一ノ瀬く……!?」
部長の制止を振り切り、私は風のようにオフィスを飛び出した。
優奈が熱? 37度か? それとも39度か?
まさかインフルエンザ?
いや、もしかして未知のウイルス?
地球が優奈の免疫力を試しているの? 許せない。
私はタクシーに飛び乗り、運転手さんに一万円札を突きつけた。
「運転手さん、可能な限り急いでください。人の命……いや、世界の宝がかかっているんです!」
・一ノ瀬家の野戦病院化
スーパーと薬局をハシゴし、両手いっぱいの荷物を抱えて帰宅した私は、すぐさま優奈の部屋へ突入した。
「優奈ちゃん!! 生きてる!? お姉ちゃんが来たからもう大丈夫だよ!!」
「……ん……うるさい……」
ベッドの布団の山から、顔を真っ赤にした優奈が少しだけ顔を出した。
熱のせいか、目が潤んでいる。
か、可愛い……じゃなくて!
「ごめんね、辛いね……! 今すぐお熱下げるからね!」
私は買ってきた物資を床に広げた。
冷却シート(大人用・子供用・敏感肌用 全種類)
スポーツドリンク 2リットル×5本
高級ゼリー 10個
最高級松阪牛(体力がつくと聞いて)
加湿器(最新式を家電量販店で買ってきた)
「……買いすぎ……」
優奈が呆れたように呟く。
「備えあれば憂いなしだよ! さあ、まずはおでこ冷やそうねー」
私は冷却シートを優奈の額に貼る。
普段なら「自分でやる」と手を払いのける優奈だが、今日はされるがままだ。
それほど辛いのだろう。胸が締め付けられる。
「何か食べられそう? 桃缶あるよ? それとも最高級アワビ粥作る?」
「……普通のおかゆ……梅干しのやつ……」
「了解! 任せて! シェフ一ノ瀬が世界一のおかゆを作るわ!」
私はキッチンへ走り、土鍋を取り出した。
米から炊く。水はミネラルウォーター。塩は岩塩。梅干しは紀州南高梅の特選品だ。
優奈の体内に入るものだもの、妥協は許されない。
・弱った妹の破壊力
30分後。
私は完璧な温度に冷ましたおかゆを盆に乗せ、優奈の部屋に戻った。
「優奈ちゃん、できたよ。起き上がれる?」
優奈はのろのろと身体を起こす。私が背中にクッションを挟んで支えると、彼女は小さく「ん」と頷いた。
「はい、あーん」
スプーンにおかゆを乗せて差し出す。
これは……! 全シスコンが夢見るシチュエーション、「看病あーん」!!
「……自分で食べれる」
「ダメです。病人は手を動かしてはいけません。はい、あーん」
「……」
優奈は不服そうに少し眉を寄せたが、抵抗する気力もないのか、小さく口を開けてパクりと食べた。
「……おいしい」
「!!(ガッツポーズ)」
心の中でサンバを踊りながら、私は次々と口へ運ぶ。
半分ほど食べたところで、優奈が「もういい」と首を振った。
薬を飲ませ、再び布団に寝かせる。
私はベッドの脇に椅子を持ってきて座った。
「何かあったらすぐ呼んでね。お姉ちゃん、ここで見張ってるから」
「……会社、いいの?」
優奈が布団から目だけ出して聞いてくる。
「優奈ちゃんより大事な仕事なんて、この世に存在しません」
即答する私に、優奈はふっと小さく笑った気がした。
「……お姉ちゃんの手、冷たくて気持ちいい」
優奈の手が布団から伸びてきて、私の手を弱々しく握った。
熱い掌。
普段は私を避けるその手が、今は私を求めている。
「……ありがと。……おやすみ」
「うん、おやすみ。大好きだよ、優奈ちゃん」
握られた手を両手で包み込みながら、私は誓った。
この寝顔を守るためなら、私はどんなウイルスとも戦うし、部長の説教も甘んじて受けよう、と。
・翌朝の悲劇
翌朝。
小鳥のさえずりと共に目が覚めた。
「……んぅ……頭が痛い……」
身体が鉛のように重い。喉が痛い。関節がキシキシする。
これは……完全に移った。
「お姉ちゃん? 起きてる?」
ドアが開き、すっかり顔色の良くなった優奈が入ってきた。制服姿が眩しい。
「ゆ、優奈ちゃん……元気になった?」
「うん、おかげさまで熱下がった。……ってお姉ちゃん、顔赤いよ」
優奈が私の額に手を当てる。
その手がひんやりとしていて、たまらなく心地よかった。
「うわ、熱っ! バカじゃないの!? 昨日の今日で移るとか!」
「へへ……優奈ちゃんの風邪をもらえて……光栄です……」
「何言ってんの、キモい」
優奈は呆れつつも、テキパキと私が昨日買ってきた冷却シートを取り出し、私の額に貼り付けた。
「今日は会社休んで。私が学校終わったら、プリン買ってきてあげるから」
「えっ……優奈ちゃんの看病……?」
「……昨日のお礼。寝てて!」
バタン、とドアが閉まる。
私は熱に浮かされた頭で、天井を見上げながらニヤけた。
妹に看病されるなんて。
風邪ひくのも、悪くないかもしれない。
「でも優奈ちゃん、プリンはプッチンプリンのBigサイズでお願い……」
私の掠れた声は、登校する妹には届かなかったけれど。
一ノ瀬家の朝は、今日も平和(?)だった。
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