第2話 スパ&プールでの遭遇戦
テストが終わって三日後。
奇跡的に数学は52点だった。赤点ラインの50点をわずか2点だけ超えた。美玲は「湊のおかげー!」と抱きついてきたくせに、自分の点数が68点だと知って「えへへ、私の方が上じゃん♪」とドヤ顔してきた。あの笑顔、ムカつくほど可愛い。
放課後、俺は「脳をリセットしたい」と言い訳して、一人で33階のジムに行くことにした。
ブリリアマーレ有明のフィットネスエリアは、まるで外資系ホテルだ。
ジム、25m屋内プール、ジャグジー、サウナ、屋外テラスまで全部繋がっていて、夜9時以降は住民しか入れないから空いている。最高のリフレッシュスポットだった。
……はずだった。
エレベーターで33階に着いて、カードキーをかざしてドアを開けた瞬間、俺は完全にルートを間違えたことに気づいた。
そこはジムじゃなくて、屋内プールだった。
夜の照明に照らされた水面が、鏡みたいに静かに光っている。そしてその水の中に、
「……あれ?」
一人の女の子が優雅にクロールしていた。
黒のビキニ。
背中の紐が細くて、大人っぽいデザイン。
学校のスクール水着とは比べ物にならない、明らかに「ここ専用」のやつだ。
しかもその泳ぎ慣れたフォームと、濡れて艶めく長い髪。
……美玲だった。
(あいつ、あんな水着持ってたのかよ……)
気づいた瞬間、俺の頭が真っ白になった。
美玲も俺に気づいたらしい。
水面から顔を上げた途端、目が完全に点になって、
「きゃあああああああっ!!」
プールサイドに飛び上がると、タオルを巻こうとして滑って転びそうになる。
「ちょ、ちょっと湊! 何見てんのよ変態!!」
「見てねーよ!! てか俺はジムに行くつもりだったんだよ!!」
「嘘つけー! 目が泳いでる!!」
「泳いでるのはお前だろ!!」
美玲は真っ赤な顔でタオルを巻いて、プールサイドのデッキチェアに座り込んだ。
「もう……びっくりしたじゃん。心臓止まるかと思った」
「……悪い。でもなんで学校の水着じゃないんだよ」
美玲はふんっと鼻を鳴らした。
「ここで紺のスク水とか着てたら完全に浮くでしょ。大人のお姉様方に失礼でしょ。TPOって知ってる?」
確かに、夜のプールエリアには30代くらいの綺麗なお姉さんたちが何人かいて、みんなおしゃれな水着だった。俺は完全に場違いな高校生だった。
「てか、湊こそなんでプールサイドまで来てんのよ。ジムはあっち」
「……間違えた」
「ぷっ……あはは! バカ!」
美玲はしばらく笑い転げて、それから立ち上がった。
「ま、いいや。せっかくだし一緒に泳ごうよ。私、もうちょっと泳ぎたいし」
「お前……俺、水着持ってねーぞ」
「男子更衣室に予備のトランクスあるじゃん。前に湊が忘れたやつ、まだロッカーに入ってるはずだよ?」
……確かにあった。去年の夏に忘れた黒のボードショーツ。
結局、俺はそれを引っ張り出して着替えて、プールに入った。
夜の屋内プールは、水温がちょうどよくて気持ちいい。
天井はガラス張りで、頭上には星空と飛行機の灯りが流れる。
美玲はまたクロールを始め、俺はゆっくり平泳ぎで隣を泳いだ。
「湊、遅いー! もっと本気で泳ぎなよー!」
「お前が速すぎんだよ」
「だってここ、毎日来てるもん」
……そういえば最近、妙に肩が引き締まってると思ってた。
しばらく泳いでから、二人でジャグジーに入った。
ぷくぷくと泡が立つ中、美玲が隣に座って、ため息をついた。
「はー……生き返るー」
「……お前、ほんとこのマンション使いこなしてるな」
「だって便利なんだもん。ジムもプールもスパも24時間空いてるし、コンビニも1階にあるし」
美玲は濡れた髪をぎゅっと絞って、俺の方を見た。
「でもさ……」
少し声を落とす。
「なんか、ここ便利すぎて、ここから出なくても一生生きていける気がするよね」
「ああ……まあな」
俺は空を見上げた。ガラス越しに見える東京の夜景が、水面に反射して揺れている。
「でも、私は……」
美玲が急に小声になった。
「湊と一緒なら、どこの街でもいいけどね」
さらっと言われた。
一瞬、ジャグジーの泡の音しか聞こえなかった。
美玲は自分が言ったことに気づいたらしく、顔を真っ赤にして水の中に沈んだ。
「ち、違う! そういう意味じゃなくて! ただの例えだから!」
「……おい、溺れるぞ」
俺は苦笑いしながら、美玲の腕を掴んで引き上げた。
その後、二人で着替えて、33階の屋外テラスに出た。
夏の夜風が気持ちいい。髪がまだ濡れている美玲の横顔が、街灯に照らされて綺麗だった。
東京タワーとスカイツリーが両方見える、贅沢すぎる夜景。
俺たちは手すりに寄りかかって、しばらく無言だった。
「……あのさ」
美玲がぽつりと言った。
「さっきの……忘れて」
「いや、忘れねーよ」
「うわ、やっぱり聞いてた!?」
「聞こえたに決まってんだろ」
美玲は恥ずかしそうに顔を背けた。
俺は夜空を見上げたまま、小さく呟いた。
「……俺も、どこの街でもいいってわけじゃねーよ」
美玲がびくっと肩を震わせた。
でも、俺はそれ以上何も言わなかった。
風が吹いて、濡れた髪の甘い香りがした。
このまま時間が止まればいいのに、と思った。
でも、エレベーターは相変わらず速すぎて、
15階に着くまでの時間は、あっという間だった。
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