春信の錦

kiri

第1話 芝神明前(しば しんめいまえ)にて

 八代将軍徳川吉宗よしむねが将軍職を辞し、家重いえしげが九代将軍の座に就いたのは先年のことだ。

 将軍が代わっても相変わらず幕府は倹約にうるさい。江戸の庶民は小便くさい子どもをあやす爺のごとと、下世話に落として辛辣しんらつに笑い飛ばす。


 それでもここ数年は大きな飢饉もない。そぞろ歩くにはいい季節だ。吉原に植え替えられた桜も連日、人を呼び盛況だという。今日は上野の寛永寺かんえいじ、明日は渋谷しぶや金王桜こんのうざくらと参詣にかこつけて浮かれ歩くのもいい。江戸の春はまだまだ続くだろう。


 だが芝神明しば しんめい前の版元はんもと江見屋えみやの中からは晴れ晴れとした穏やかさとは程遠い声が聞こえてくる。


「だから役者絵を頼むって言ってるじゃないか」


 江見屋の主人が疲れたような声を出した。


女形おやまだって役者じゃないですか。女形も駄目なんですか」


 長い押し問答の挙句に手元に戻ってきた絵を見ながら、男にしては少し高い声がやけくそ気味の言い訳を返す。それが江見屋のかんに障ったか、ぎろりと睨み返された。


「あのなあ、そういうことを言ってるんじゃないんだよ。わかってるだろう」


 盛大なため息とともに眉根を揉んだ江見屋がなにかを諦めたような顔になった。相対する男の耳に届けられたのはなだめるような口調だ。


「女を描けるのはいいが、それだけじゃやってけない。売れるのは二枚目の看板役者の絵だよ。お前さんの好きな物語だって男女両方書かれてるだろう。光源氏ひかるげんじ在原業平ありわらのなりひらがいなきゃ話が成り立たない」

「業平は伊勢物語の男とは違うかもしれないでしょう」

「うるせぇ、知ってるよ! そういうことじゃねえっつってんだろ」

「あたしだってわかってますよ! あたし好みの絵じゃなくて売れる絵を描けってことでしょう」

「そうだよ、当たり前だろ」


 男は言葉に詰まる。目元涼し気な男前の顔も不貞腐れた表情で台無しだ。

 二十歳はたちを超えたばかりの駆け出し浮世絵師など、版元の目の端に引っかかっているだけまだいい方だ。それを理解しろと江見屋は男の前に、ずいっと寄ってくる。


「慈悲がほしいならそこの増上寺ぞうじょうじにでも行きな。うちは慈善で仕事をやってるわけじゃないんだ。お前さんの生煮えの飯みたいな絵じゃ食えないんだよ。腹ぁ壊しちまう。とにかく、もう少し男衆おとこしを描けるようになっとくれ。一度は描いただろう? あの感じで頼むよ。そしたら紅摺べにずりで摺ってやらんこともない」


 そう言って江見屋は男の肩を叩いた。


「頼んだよ、鈴木すずき春信はるのぶ先生」


 むすっとした顔のまま立ち上がり、春信は江見屋を辞した。


「ちくしょう! あたしの絵が下手なのはわかってるさ。なんだい、墨摺すみずりでも一度は摺ってくれたのに」


 ふつふつとたぎってきた怒りをぶつぶつと吐き出しながら春信は通りを行く。


「けど描いたら紅摺絵べにずりえか。あたしの絵に赤や緑の色を摺ってもらえる……」


 春信は自分の絵が摺られたところを想像し、ほうっとため息をついた。

 紅摺りは江見屋が考え出した摺りの手法で色用の版木はんぎを別に作って摺るものだ。これは色摺り絵が一気に摺りあがるという利点がある。


 今までは墨の一色摺りに筆で色を塗っていたのだが、色塗りの手間が省ければ他の版元よりも先に売り出せる。二色ほどでも色版いろはんを作ればどんどん摺りあがるのだから、できあがりの早さは格段に上がる。


「摺りの印を工夫したって教えてくれたっけなあ。あの時は江見屋さんの顔が輝いてたっけ。きらきらしてほんとにいい顔してた。ああいう顔には男だって惚れるさね」


 春信はうっとりと江見屋の言葉を思い出す。


「いいかい、春信先生。よっく見ときな。ここの版木の隅、紙に添うように印があるだろ。そこに元の絵を摺った紙を当てるんだ。これで色の版木と元の絵は、ずれないって寸法さ。これなら色の塗り残しもない」


 色が乗った浮世絵が一気にできあがる。そう言った江見屋の自慢気な顔がよみがえる。江見屋は他の版元とどうにか差をつけたいと思っていたのだろう。対抗手段を見つけて嬉しかったに違いない。

 それでもまだこの技術には工夫がいるらしい。店頭に並ぶのは色塗りをして売り出す紅絵べにえが多かった。


「あたしの絵もあんな風に綺麗な一枚絵になるなら嬉しいね。それにしても……」


 春信は摺ってもらった時と同じように描いてるつもりだが、毎回つっ返されるのは何が違うのだろうと首を捻った。

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