レベル∞の元社畜、気ままに異世界無双します

月宮 翠

異世界最強の暇人

​「ゴブリン討伐……っと」

アレス・クロノスは、ざらついた羊皮紙に記された依頼内容を、指先で退屈そうに撫でた。


​場所:東の森。

難易度:G(最低)。

報酬:銀貨五枚。

彼が所属する冒険者ギルド『鉄の錨』の掲示板の中で、最も簡単で、最も報酬の低い依頼だ。

「えーと、アレスさん。本当にこれでよろしいんですか?」

受付カウンターの向こうで、髪をきっちり結った若い女性職員、リナが心配そうな顔で尋ねてきた。彼女はアレスのギルドカードを手に持ち、その記録されたステータスをもう一度確認している。

名前:アレス・クロノス

​職業:冒険者

​レベル:

リナはそこで言葉を詰まらせた。

​(まただわ。いつ見ても『計測不能』の文字が、私の目を狂わせているんじゃないかと不安になるわ。)

​計測不能、すなわち上限突破。それこそが、アレスが異世界に転生した際に神々から授けられた、規格外の力の証だった。

「はい、これでいいですよ、リナさん。急を要するSランクの依頼は、最近出てないでしょう?」

「は、はい……魔王討伐依頼は、三年前にアレスさんが三秒で片付けてしまって以来、出なくなりましたから……」

リナは引きつった笑顔で答えた。彼女にとって、アレスは街の治安を守る最重要人物だが、同時にギルドの存続を脅かす「依頼クラッシャー」でもある。何しろ、世界の危機レベルの事件ですら、彼にかかれば一瞬で解決してしまうのだ。

「ああ、そうでしたね。あの時はもう少し手こずるかと思ったんですが、魔王城ごと概念的に消滅させたら、何か文句を言われそうでやめたんですよ。あれでも私なりに手加減したんです」

「……ありがとうございます。おかげでこの世界は平和です」

リナは額に滲んだ汗をそっと拭った。

​(手加減の結果、魔王は故郷の星系ごと別の宇宙に強制移住させられました。あの事件以来、誰もアレスさんに面倒な依頼を持ってこないのは、当然でしょう……)

​アレスが求めるのは、世界の命運を賭けた大戦でも、伝説の秘宝探しでもない。ただ、**「やることがない」**という、最強ゆえの深刻な暇つぶしだった。

​依頼書を受け取ったアレスは、軽装のままギルドを出た。

「さて、ゴブリンか。久々の**『戦闘』**だ。体が鈍っているかもしれないな」

最強の男の「体が鈍っている」という発言は、世界中のどんな鍛え上げられた戦士に対する、何よりの皮肉だった。

​目的地である東の森に近づくにつれて、血と鉄の匂いが鼻をつく。

そして、かすかに響く叫び声と、剣がぶつかり合う音。

「くそっ、多すぎる!治癒術師(ヒーラー)を庇え!」


「きゃあ!」

それは、まだ駆け出しの冒険者たちが、依頼の難易度を遥かに超えたゴブリンの群れに襲われている光景だった。

​アレスは、木々の隙間からその惨状を一瞥した。

​(やれやれ。私のゴブリンを奪わないでほしいな。それにしても、手際が悪いな。新人かな?)

​中心には、細身のローブを纏った一人の少女が、辛うじて盾を持った騎士風の男に守られている。少女――フィーリアは、怯えながらも、負傷した仲間に治癒魔法をかけようと懸命に祈っていた。

​しかし、その願いは間に合わない。巨大なゴブリンが一歩踏み出し、仲間の男を吹き飛ばした。

「い、いやああ!」

フィーリアの悲鳴が森に響く。ゴブリンは、その鈍い刃を振り上げ、無防備な少女に振り下ろそうとした。

​アレスは、ため息をついた。

「ああ、面倒くさいな。早く終わらせて家に帰って寝たいのに」


​彼はゴブリンの群れに向けて、指先をクイッと、ほんのわずかに動かした。

​ガッ、と、世界が一瞬、止まったように錯覚する音を立てた。

​アレスのチートスキル『全知全能(あるふぁ・あんど・おめが)』が、「ちょっとだけ」発動した。

​次の瞬間、ゴブリンを襲ったのは、彼らが想像しうる、いかなる魔法、いかなる物理現象でもなかった。

​それは、まるで空気が激怒したかのような、超々々々々々々音速の風圧の壁だった。

​ドォォォォォン……という音は、風圧がゴブリンの群れを通り過ぎ、遥か遠くの山脈に到達してから、遅れて響いた残響にすぎない。

​ゴブリンの群れ(推定百体以上)は、痛みを感じる暇もなく、森の木々や土砂、そして空気そのものと一緒に、文字通り大空の彼方へと吹き飛ばされ、たちまち肉眼で見えないほどの星屑になった。

​そこには、巨大なゴブリンが振り上げた剣と、怯えるフィーリア、そしてアレス、そして呆然と倒れている騎士風の男だけが、無傷で残されていた。

「…ふう。あれでも、殺傷能力ゼロの設定で、宇宙の端まで飛ばしただけ、という私なりの手加減なんですがね」

アレスは、まるで虫を払ったかのように無関心な態度で、残された一匹の巨大なホブゴブリンへと視線を移した。


残されたホブゴブリンは、目の前で起こった光景を理解できず、その巨体を震わせていた。仲間が一瞬で、まるで神の悪戯のように、ただの風圧で宇宙の彼方に消え去ったのだ。

​ホブゴブリンは本能的な恐怖に駆られ、剣を捨てて逃げ出そうとした。

「おっと、待ちなさい」

アレスは声を上げたが、その声には一切の焦りがない。彼はポケットから取り出した、固くなった干し肉を一口齧りながら、もう一方の手で指を一本、ホブゴブリンの頭上に向かって立てた。

​スキル『重力操作』。

​ドスン、と鈍い音がした。

​ホブゴブリンの巨体が、まるで高空から落とされた鉄塊のように、地面にめり込んだ。正確には、この場所の重力が地球の千倍に設定されたのだ。

「う、グガ……!?」

ホブゴブリンは、肺の空気をすべて吐き出し、地面に張り付けられたカエルのように、ピクリとも動けなくなった。その皮膚が裂け、骨が軋む音が、静まり返った森に妙に生々しく響く。

「これで逃げられませんね。少し反省していてください」

アレスは、ようやく残りの干し肉を口に運び、ゆっくりと咀嚼した。

​それを見ていた新人治癒術師のフィーリアは、膝をついたまま、震える声で尋ねた。

「あ、あなたは……何をしたの?どうして、あんなにたくさんいた魔物が、一瞬で……」


​「ああ、風が強かっただけですよ。そして今のは、ちょっと座らせただけです」


​アレスは嘘をついた。彼が『全知全能』で何をしているかなど、この世界の常識では理解不能だろう。彼は面倒くさがりなので、詳しい説明は常に避ける。

​その時だった。

​地面に縫い付けられたホブゴブリンの背後、森の奥から、地響きとともにさらに巨大な影が現れた。

「グルアアアアア!」

それは、全身を硬質な皮膚と分厚い筋肉で覆われた、身の丈三メートルはある巨体。その右手に握られた、粗末だが巨大な金棒が、木の幹を叩き割る。

​オーガロード。ゴブリンの群れを統率する、この地域の最高位の魔物だ。通常、ランクD以上のパーティでなければ太刀打ちできない。

​オーガロードは、地面に張り付いたホブゴブリンと、その横に立つアレスを一瞥し、そして最も弱そうな標的、フィーリアへと金棒を振り上げた。

​騎士風の男は意識が朦朧として動けず、フィーリアは恐怖で声も出せない。

「きゃっ!」

オーガロードの金棒が、フィーリアの頭上に振り下ろされる――その瞬間。

​アレスは、心底うんざりした表情で、天を仰いだ。

「あー……もう、本当にやめてくれませんか。今日はもう疲れたんですよ。早く家に帰って、昨日録画したドラマが見たいのに」

彼の**「うんざり」**は、この世界で最も恐ろしい最終宣告だ。

​アレスは、ポケットから干し肉の包み紙を取り出し、それを握りつぶした。

​『全知全能(あるふぁ・あんど・おめが)』。

​今度は、指をクイっと動かす必要も、風圧を起こす必要もない。彼はただ、そう望んだ。

「このオーガロードは、最初から存在しなかったことにする」

ゼロ。

​音が消えた。光が消えた。空気の動きが止まった。

​フィーリアの頭上にあったはずの巨大な金棒も、その持ち主であるオーガロードの巨体も、痕跡一つ残さず消滅した。

​物理的な消滅ではない。時間遡行でもない。

​アレスの**『因果律操作』により、その魔物がこの空間に存在し、フィーリアに危害を加えようとした「事実そのもの」**が、世界の歴史から抹消されたのだ。

​残されたのは、アレスの足元で未だ重力に苦しむホブゴブリン(巻き込まれると面倒なので除外した)と、そして今、目の前で起きた事態を全く理解できない三人の新人冒険者だけだった。

「な、何が……起こったの?」

フィーリアが、全身を硬直させながら、か細く尋ねた。

​アレスは、干し肉の包み紙を適当に森の土に返すと(もちろんすぐに分解される)、答えた。

「ん?ああ、もう終わりましたよ。何でもないです。さあ、ホブゴブリンは**『座ったまま』**捕獲しましたし、依頼の目的は達成ですね」

アレスは、地面にめり込んだホブゴブリンを指差した。重力操作は解除されているが、突然の重圧で魔物はすでに失神している。

​彼は依頼書を回収し、さっさと踵を返した。

「じゃあ、私は先にギルドに戻ります。お大事に」

「あ、待って!あなた、名前は!?」

「アレスです。……ああ、それと」

アレスは足を止め、振り返った。その瞳は、宇宙のすべてを見通し、全てに飽きてしまったような、深遠な色をしていた。

「もし本当に強い魔物と会ったら、私を呼ばないでください。この世界、本当に平和なんですから」

そう言い残し、アレスはあっという間に森の奥へと消えていった。

​フィーリアは、ただ一人、残された魔物の痕跡もない空間で、膝を抱えたまま呟いた。

「彼は一体、何者なんだろう……」

一方で、アレスは夕日を背にしながら街へと戻る道すがら、また一人、小さく、誰にも聞こえないように呟いた。

「……それにしても、今日も平和だった。暇だ」


(終わり)

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