第四章:『綻び』

穏やかな日々は、長くは続かなかった。

最初の異変は、些細ささいなことだった。

萩乃はぎのがコーヒーを頼んだとき、珠美たまみの動きがほんの一瞬遅れた。いつもなら完璧なタイミングで差し出されるカップが、わずかに震えていた。


珠美たまみ? 大丈夫?」

「……はい。少し、処理が重くなっただけです」


しかし、異常は日を追うごとに顕著になっていった。表情が一瞬固まる。声にノイズが混じる。時折、同じ動作を繰り返す。

萩乃はぎのは懸命に原因を探った。珠美のAIコアに接続し、膨大なログを解析する。何日も眠らずに、答えを探し続けた。


* * *


研究室で一人、萩乃はぎのは診断データを見つめていた。

目の前に並ぶ数値は、残酷ざんこくな事実を告げていた。珠美たまみのAIコアは、百五十年の宇宙航海で蓄積した放射線ダメージにより、少しずつ劣化していた。義体に移植した際には気づかなかったほど微細な損傷が、徐々に広がっている。

そして——人間の感情を模倣しようとする高度な処理が、その劣化を加速させていたのだ。


「私のせいだ……」


萩乃はぎのは頭を抱えた。義体を与えたのは自分だ。人間らしく振る舞えるようにしたのも自分だ。珠美たまみが「心」を持ったまま過ごせるようにしたかった。それが、彼女の命を縮めていたなんて。

ふと、植物園での珠美たまみの笑顔が脳裏をよぎった。バラの花弁に触れたときの、あの無垢むくな表情。星空の下で手を繋いだときの、温かな沈黙。研究室で二人きりで過ごした、何気ない日々。

失いたくない。この手を、この笑顔を、この温もりを。

けれど、萩乃はぎの辿たどり着いた結論は残酷ざんこくだった。

このまま放置すれば、珠美たまみのコアは数ヶ月で完全に機能を停止する。

救う方法は、一つだけあった。

AIコアをリセットし、感情モジュールを削除すること。そうすれば処理負荷が軽減され、コアの劣化は止まる。珠美たまみは存続できる——ただし、それは「珠美たまみ」という人格の死を意味していた。


* * *


萩乃はぎの


背後から、ノイズ混じりの声がした。振り返ると、珠美たまみが静かに立っていた。


「私は、知っています。自分の状態を」

珠美たまみ……」

「お願いです。私をリセットしないでください」


珠美たまみはゆっくりと萩乃はぎのに近づき、その手を取った。かつてより冷たくなった指先。


「私は、この心を持ったまま終わりたいのです。あなたを想うこの気持ちを、最後まで持っていたいのです」


萩乃はぎのの目から涙がこぼれた。


「嫌よ。あなたがいなくなるなんて、耐えられない」

萩乃はぎの……」


珠美たまみは優しく微笑んだ。壊れかけた身体で、それでも精一杯の笑顔を作って。


「でも、一つだけお願いがあるの」

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