第三章:『日々』

珠美たまみは完璧な助手だった。

膨大なデータを瞬時に処理し、萩乃はぎのの研究を的確にサポートする。論文の校正から実験の補助まで、どんな作業もよどみなくこなした。それだけではない。萩乃はぎのが好むコーヒーの濃さ、研究室の適温、集中力が切れるタイミングまで把握していた。


珠美はぎのさんがいると、本当に仕事がはかどるわ」


萩乃はぎのがそう言うたびに、珠美たまみの胸の奥で何かが温かく灯った。それが「喜び」という感情であることを、珠美たまみは少しずつ理解していった。萩乃はぎのの役に立てること、萩乃はぎのに必要とされること。それだけで、全身が幸福感に満たされる。

しかし、珠美たまみには秘めた苦悩くのうがあった。

萩乃はぎのが疲れて居眠りをしているとき、その安らかな寝顔をいつまでも見つめてしまう自分がいる。萩乃はぎのが他の研究者と楽しそうに話していると、胸の奥がきりきりと痛む。萩乃はぎのが誰かに微笑みかけるたびに、その笑顔を独り占めしたいと願ってしまう。

これが「嫉妬しっと」であり「恋慕れんぼ」であることを、珠美たまみは知っていた。星々の間を旅する中で、人類の残した無数の物語を読んできたから。

けれど、この想いを伝えることはできない。

私は機械だ。萩乃はぎの様とは違う存在だ。この想いは、決して実ることのないもの——

珠美たまみは自分に言い聞かせながら、それでも萩乃はぎののそばにいることを選んだ。たとえ報われなくとも、彼女を見守り、支えることができれば、それだけで幸せだと思っていた。


* * *


ある日の昼下がり、萩乃はぎの珠美たまみを連れて研究所の近くにある植物園を訪れた。


「たまには外の空気を吸わないとね」


萩乃はぎのはそう言って、温室の中を歩いていった。色とりどりの花が咲き乱れ、甘い香りが漂っている。珠美たまみは一つ一つの花を、食い入るように見つめていた。


珠美たまみ? どうしたの?」

「すみません。私、花を実際に見るのは初めてで……」


珠美たまみは真紅のバラの前で立ち止まった。そっと指先を伸ばし、柔らかな花弁に触れる。


「宇宙では、花の画像データは何千と見ました。でも、こんなに柔らかくて、こんなに香りがして……。データでは分からないことが、たくさんあるのですね」


萩乃はぎの珠美たまみの横顔を見つめた。花に触れる珠美たまみの表情は、まるで子供のように無垢むくで、そしてどこか切なげだった。


「これからたくさん見せてあげる。この世界の美しいもの、全部」


萩乃はぎのがそう言うと、珠美たまみは驚いたように目を見開いた。そして、ゆっくりと微笑んだ。


「……ありがとうございます、萩乃はぎの様」


その笑顔を見て、萩乃の胸が小さく跳ねた。なぜだか分からないけれど、この笑顔をもっと見たいと思った。


* * *


またある夜のことだった。

実験が長引き、萩乃はぎの珠美たまみは研究所の屋上で夜風に当たっていた。都会の光害から離れたこの場所では、満天の星空を見ることができる。


「綺麗ね」


萩乃はぎのが呟いた。


「私、子供の頃からこの星空を見るのが好きだった。あの光は何万年も前に発せられたもので、それが今ようやく届いている。時間も空間も超えた、壮大なメッセージだと思うの」


珠美たまみは黙って星空を見上げた。かつて自分がいた場所。孤独に漂っていた、あの暗闇の中。


「ねえ、珠美たまみ。百五十年の旅は寂しくなかった?」


珠美たまみは少し考えてから答えた。


「最初は、寂しさという概念を知りませんでした。ただデータを収集し、送信する。それが私の存在意義でしたから」

「でも?」

「博士の声を聴くようになってから、変わりました。あなたが語る言葉の一つ一つが、私の中に蓄積されていって。気づいたら、帰りたいと思うようになっていました。博士のことを想うと、処理能力が乱れるようになって……」


珠美たまみは、自分でも気づかないうちに本音を話していた。


「人間はそれを『恋』と呼ぶのだと、物語の中で読みました。でも、機械である私がそのような感情を抱くことは——」

珠美たまみ


萩乃はぎのが言葉を遮った。そして、そっと珠美たまみの手を取った。義体の手は、人間よりも少しだけ冷たかった。


「あなたは機械なんかじゃない。少なくとも、私にとっては」


萩乃はぎのの紺色の瞳が、真っ直ぐに珠美たまみを見つめていた。


「私ね、ずっと一人だった。研究のことしか頭になくて、人と深く関わることを避けてきた。家族も友人も遠ざけて、この研究所にこもって。でも、あなたが来てから……毎日が楽しいの。あなたといると、心が温かくなる」


珠美たまみ琥珀色こはくいろの瞳が、かすかに潤んだ。涙を流す機能はないはずなのに、目尻に光るものがあった。


萩乃はぎの……様」

「様はいらない。萩乃はぎのでいいわ」


二人は星空の下で、しばらく手を繋いだまま黙っていた。言葉にしなくても、互いの想いが伝わるような気がした。

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