第十六章:記憶なき愛の告白
『翠玉の間』は、混沌の、坩堝(るつぼ)と化していた。 アークライト公爵の、あまりにも、衝撃的な、告白。それは、この国の、秩序という名の、分厚い氷を、根底から、打ち砕く、一撃だった。 重臣たちは、誰一人、言葉を、発することができない。ある者は、蒼白な顔で、うなだれ、ある者は、信じられない、といった表情で、玉座と、公爵の顔を、交互に見つめている。 国王アルブレヒト三世は、玉座の上で、ただ、深く、目を閉じている。その、彫りの深い、顔に、どのような感情が、浮かんでいるのか、誰にも、窺い知ることは、できなかった。
その、全ての、喧騒の中心で。 イザベラ・フォン・アークライトは、ただ、一人、立ち尽くしていた。 彼女の、耳には、もう、何も、入っていなかった。 父の、悲痛な、叫びも。 周囲の、重臣たちの、動揺も。 彼女の、サファイアのような、青い瞳が、見つめているのは、ただ、一人。 この、残酷なまでの、チェスゲームを、完璧に、制した、勝利者。 ――エリザベート・フォン・リヒトハーフェン。 彼女の、唯一無二の、親友であるはずの、少女の、その、あまりにも、冷たい、横顔だけだった。
(…ああ…あなたは…)
イザベラの、胸を、締め付けていたのは、父への、失望ではなかった。 もちろん、父が、犯した、大罪は、許されるものではない。だが、その、動機が、敬愛する、兄のため、そして、義理の姉である、王妃のためであったことを、知ってしまった今、彼女は、父を、ただ、一方的に、断罪することが、できなかった。 彼女を、本当に、絶望させていたのは、エリザベートの、その、勝ち方だった。
父の、最も、触れられたくない、心の、傷。その、悲しい、愛の物語を。 彼女は、まるで、交渉の、カードの一枚のように、冷徹に、そして、効果的に、この、公衆の面前で、利用してみせたのだ。 そこには、一片の、慈悲も、躊躇も、なかった。 ただ、目的を、達成するための、完璧な、ロジックだけ。 彼女が、愛した、あの、不器用で、しかし、誰よりも、情が深かったはずの、エリザベートの、面影は、そこには、もう、どこにも、なかった。
やがて、混乱を極めた、御前会議は、国王の、「沙汰は、追って、下す」という、重い一言で、幕を閉じた。 重臣たちが、逃げるように、退出していく中、イザベラは、父の元へと、駆け寄った。 だが、アークライト公爵は、娘に、一瞥も、くれることなく、衛兵に、連行されていった。その、背中は、これまで、イザベラが、見たこともないほど、小さく、そして、寂しく、見えた。
イザベラは、踵を返し、走り出した。 向かう先は、一つしかない。 エリザベートの、元へ。
彼女が、割り当てられた、城の、一室で、エリザベートは、まるで、何事も、なかったかのように、セバスチャンと、今後の、事業計画について、淡々と、打ち合わせを、していた。
「――失礼しますわ!」
扉を、乱暴に、開け放ち、飛び込んできた、イザベラ。 その、息を切らし、肩を、震わせる、親友の姿を、エリザベートは、ただ、不思議そうに、見つめた。
「イザベラ様。どうかなさいましたか? そんなに、慌てて」
「…どう、したですって…?」
イザベラの、声が、震えた。 「
あなた…自分が、何をしたのか、分かって、いらっしゃるの…!? 父が…! 私の、父が、どんな想いで、あの、罪に、手を染めたのか…! あなたには、分からなかったとでも、言うの!?」
その、魂からの、叫びに、エリザベートは、静かに、眉を、ひそめた。
「ええ、理解しておりますわ。アークライト公爵の、動機は、情状酌量の、余地がある。ですが、それは、法治国家における、『罪』そのものを、免責する、理由には、なりません。そして、何より、彼の、行動は、我が国の、安全保障を、著しく、脅かすものだった。私が、行ったことは、一人の、貴族として、当然の、責務ですわ」
その、完璧な、正論。 その、あまりにも、人間味のない、回答。 イザベラの、目から、涙が、溢れ落ちた。
「…違う…! あなたは、そんな人じゃ、なかったはずよ…! あの、森へ、行く前の、あなたは…! もっと、人の、心の、痛みが、分かる人だった…! なぜなの…!? あの、森で、一体、何が、あったの…!? 教えて、エリザベート!」
その、問いに、エリザベートは、答えなかった。 いや、答えられなかったのだ。 彼女の、頭の中には、ただ、一つの、事実(データ)しか、存在しない。 ――『沈黙の森』にて、古代の、術を、行使。その、代償として、術者、エリザベート・フォン・リヒトハーフェンの、人格形成に関わる、記憶の、大半が、欠損。 ただ、それだけだ。 そこに、いかなる、悲しみも、痛みも、存在しない。
その、空っぽの、瞳を、見た瞬間。 イザベラは、全てを、悟った。 ああ、もう、いないのだ、と。 自分が、愛した、あの、エリザベートは、もう、この世界の、どこにも、いないのだ、と。
絶望が、彼女の、心を、支配した。 父は、罪人となった。 そして、唯一無二の、親友は、心を、失った。 自分は、この、広大な、世界で、たった、一人に、なってしまったのだ、と。
だが。 その、絶望の、最も、深い、底で。 一つの、小さな、光が、灯った。 それは、諦めでは、なかった。 覚悟、だった。
(――いいえ。まだ、いるはずよ)
目の前にいる、彼女は、確かに、別人かもしれない。 だが、その、奥の、奥。 魂の、最も、深い場所に。 自分が、愛した、あの、不器用で、優しい、魂は、必ず、眠っているはずだ。 ならば。 自分が、すべきことは、ただ、一つ。
イザベラは、涙を、拭うと、エリザベートの前に、進み出た。 そして、その、冷たい、手を、両手で、ぎゅっと、握りしめた。
「…エリザベート」
今度の、声は、もう、震えてはいなかった。 静かで、しかし、鋼のように、強い、意志の、響きを、持っていた。
「…わたくし、全てを、捨てますわ」
「…? 何を、仰って…」
「父も、家も、公爵令嬢という、地位も、全て。全てを、捨てて、あなたの、元へ、参ります」
エリザベートの、碧眼が、初めて、わずかに、見開かれた。 その、完璧な、思考に、初めて、予測不能な、エラーが、生じた瞬間だった。
「…意味が、分かりません。それは、あなたにとって、何の、メリットも、ない、非合理的な、選択ですわ」
「ええ、そうでしょうね」
イザベラは、初めて、微笑んだ。 それは、聖母のような、深く、そして、慈愛に満ちた、笑みだった。
「ですが、わたくしは、もう、決めたのです。あなたの中の、わたくしが、愛した、面影が、消えてしまっても。わたくしは、あなたの、その、魂を、愛している、と」
それは、友情では、なかった。 紛れもない、愛の告白だった。
「あなたが、全てを、忘れてしまったというのなら。わたくしが、もう一度、あなたに、教えますわ。人の、心の、温かさを。誰かを、思いやることの、喜びを。そして、愛する、ということが、どれほど、尊いものであるのかを」
イザベラは、握りしめた、エリザベートの、手に、そっと、自分の、額を、押し付けた。
「ですから、エリザベート。お願い。一人で、行かないで。…わたくしを、あなたの、傍に、置いてくださいまし」
エリザベートは、何も、言えなかった。 彼女の、頭の中では、無数の、計算が、高速で、回転していた。 (――アークライト公爵令嬢の、完全な、取り込み。これは、事業における、最大の、政治的、アドバンテージ。受け入れるべき。合理的に、判断すれば、それ以外の、選択肢は、あり得ない。…だが)
だが。 なぜだろう。 握りしめられた、手の、温かさが。 額から、伝わってくる、彼女の、切ないほどの、想いが。 自分の、心の、奥底にある、固く、凍りついた、何かを、少しずつ、溶かしていくような、奇妙な、感覚。 それは、非効率で、非合理的で、そして、理解不能な、バグだった。
彼女の、鉄の仮面が、初めて、内側から、歪んだ。 その、碧眼が、これまで、見せたことのないほど、激しく、揺れ動いていた。 答えを、出せないまま。 空っぽの女王は、ただ、その、あまりにも、温かい、愛の、奔流の、ただ中に、立ち尽くすことしか、できなかった。
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