第十一章:公爵家の甘い罠
王都は、一つの噂で、持ちきりだった。 リヒトハーフェン辺境伯家の令嬢、エリザベート・フォン・リヒトハーフェン。 かつては、その悪行で、学園を放校処分になった、札付きの悪役令嬢。今や、『海鮮男爵』の称号を持ち、さらには、国王陛下から、新たに、独立した領地を与えられた、弱冠十六歳の、女男爵。 彼女が、その荒れ地に、共和国からの難民を受け入れ、画期的な、魔術工芸品の工房を、作り上げた、という話。そして、その事業が、今、凄まじい勢いで、王国中の富を、吸い寄せ始めている、という噂。
その噂は、もちろん、王国の、権力の中枢に座す、男の耳にも、届いていた。 王弟、アークライト公爵。 国王アルブレヒト三世の実の弟にして、王国内に、絶大な影響力を持つ、大貴族。そして、エリザベートの、唯一無二の親友である、イザベラの、実の父親。
公爵家の、豪奢な執務室。 アークライト公爵は、椅子に、深く、身を沈め、目の前に立つ、執事からの報告を、静かに、聞いていた。その、怜悧な顔には、何の、感情も、浮かんでいない。だが、その、指先だけが、椅子の、金の装飾が施された、肘掛けを、こと、こと、と、苛立たしげに、叩いていた。
「――以上が、かの、リヒトハーフェン男爵領の、表向きの、現状にございます。この、数ヶ月で、工房の売上は、我が公爵家が、懇意にしている、どの商会をも、遥かに、上回る、規模にまで、膨れ上がっております」
「…表向き、だと?」 公爵の、低い問いに、執事は、恭しく、頭を下げた。
「はっ。先日、あの荒れ地に、潜ませておいた『目』より、極めて、興味深い報告が、上がってきております。男爵閣下は、『ガラスの翼』なる、冒険者パーティーと共に、『沈黙の森』へ、踏み入った後…どうやら、その、内面に、重大な、変化があった、と」
「…続けろ」
「はっ。詳細は、不明ながら、かの地で、何らかの、禁術の類を、行使した可能性が。帰還後の男爵閣下は、それ以前の、親しみやすさを、完全に、失い、まるで、別人のように、冷徹な、経営の怪物と化している、と。パーティーのメンバーとの間にも、深い、溝が、生まれている、とのことにございます」
執事の報告を聞きながら、アークライト公爵の脳裏に、一つの、確信が、浮かび上がっていた。 (――なるほど。あの小娘、自らの、才に溺れ、禁忌に、手を染めたか。その結果、自らの、人間性(ヒューマニティ)を、失った、というわけか)
それは、彼にとって、最高の、ニュースだった。 辺境の、田舎貴族の、娘。しかも、過去には、素行不良で、王家の権威に、泥を塗った、問題児。 その小娘が、今や、国王陛下の、寵愛を受け、国の経済を、揺るがしかねないほどの、力を、その手に、収めつつある。それは、彼が、長年、築き上げてきた、この国の、パワーバランスという名の、美しい庭園を、荒らす、害虫以外の、何物でもなかった。
(しかも、あの娘は、我が娘、イザベラの、心を、掴んで離さない)
それこそが、彼にとって、最も、許しがたいことだった。 娘、イザベラは、聡明で、美しい。いずれは、王家の、さらなる、繁栄のため、最も、価値のある、婚姻を結ばせる、彼の、最高の「駒」であるはずだった。 だが、その娘が、あの、エリザベートという、得体の知れない女に、心酔している。その瞳は、もはや、父である、自分ではなく、あの、辺境の、成り上がりの方を、向いている。
(――放置できん)
それは、嫉妬ではなかった。 ただ、冷徹な、政治判断だった。 あの小娘の、翼は、今のうちに、へし折っておかねばならない。完全に、飛べなくなるまで、徹底的に。
だが、相手は、国王陛下が、直々に、爵位を与えた、貴族。 正面から、潰すのは、得策ではない。 ならば。 彼女が、最も、信頼し、その力の、源泉としている、その「翼」そのものを、彼女自身から、奪い取ってやれば、いい。
「執事」
「はっ」
「冒険者パーティー、『ガラスの翼』の、リーダー、アリアとやら。それに、接触しろ」
「…と、申されますと?」
アークライト公爵は、初めて、その口元に、氷のような、笑みを、浮かべた。
「――こう、伝えるのだ。『真の、独立と、それに、相応しい、地位に、興味はないか』、と。あの、成り上がりの、下請け仕事で、一生を、終えるつもりか、と。我が、アークライト公爵家が、彼女たちの、新たな『翼』となることを、約束する、と、な」
それは、あまりにも、甘美で、そして、抗いがたい、悪魔の、囁きだった。 虐げられてきた、彼女たちの、心の、最も、柔らかい部分を、的確に、抉る、毒の刃。
「…しかし、公爵様。彼女たちは、あの、エリザベート男爵と、固い、契約で、結ばれているはず。果たして、その誘いに、乗ってきますかな」
執事の、もっともな、懸念に、アークライト公爵は、くっくっく、と、喉の奥で、笑った。
「お前は、分かっておらん。あの、エリザベートとかいう小娘は、今や、ただの、冷血な、経営の怪物だ。友情も、恩義も、通じぬ、ただの、数字の奴隷に、誰が、心からの、忠誠を、誓うものか。彼女たちは、今、まさに、その、人間味のない『頭脳』に、辟易しているはずだ。そこに、我々が、手を、差し伸べるのだ」
彼は、窓の外の、完璧な、薔薇園を、見下ろした。 その庭園の、片隅で、一匹の、美しい蝶が、優雅に、舞っている。
「蝶は、より、蜜の、甘い花へと、移るものだ。…それだけの、話だよ」
その、冷たい声は、執事の耳に、まるで、神の、託宣のように、響いていた。 王都の、水面下で。 エリザベートの、気づかぬうちに。 彼女の、最も、信頼すべき、パートナーの、その、足元に、巨大な、亀裂が、静かに、そして、確実に、走り始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます