幕間:ガラスの破片を拾う者

 リヒトハーフェン男爵領の城館を後にする馬車の中で、イザベラ・フォン・アークライトは、膝の上で組み合わせた両手を、白くなるほど強く握りしめていた。  指先が震えている。いや、指先だけではない。身体の芯が、凍えるように震えていた。

 たった今、終わったばかりの「再会」の光景が、脳裏に焼き付いて離れない。

『――お久しぶりですわ、イザベラ様。本日は、どのようなご用件でしょうか? アークライト公爵家からの、新たな通商協定の打診であれば、まずは書面にて……』

 執務室で迎えたエリザベートは、美しかった。  以前よりもさらに洗練され、隙のない所作。完璧なカーテシー。  けれど、その蒼穹の瞳は、まるで磨き上げられた鏡のようだった。  イザベラの姿を映してはいる。けれど、そこには何の感情も、体温も宿っていない。  かつて、悪戯っぽく笑い合った時の輝きも。  不安に声を震わせ、弱さを見せてくれた時の揺らぎも。  そのすべてが、綺麗さっぱりと消失していた。

 彼女は、私を「見て」いなかった。  ただ、「公爵令嬢」という属性を持つ「政治的リソース」として、分析し、処理しようとしていただけだ。

「……嘘つき」

 ポツリと、乾いた言葉が漏れた。

「私と一緒に戦うって、言ったじゃない……」

 あの収穫祭の夜。  群衆の前で、震えながらも毅然と頭を下げた彼女。  あんなに弱くて、あんなに強かった彼女。  私の手を取り、「ありがとう」と泣きそうな顔で微笑んでくれた、たった一人の親友。

 彼女は、あの『沈黙の森』で、何を差し出したというの?  領民を守るために? 事業を成功させるために?  その代償が、あなた自身の「心」だったというの?

 馬車が大きく揺れた。  イザベラは、堪えきれず、座席に顔を伏せた。

「……ひどいわ、エリザベート……」

 涙が、堰を切ったように溢れ出した。  悲しかった。悔しかった。  彼女が成し遂げた偉業――難民の救済、新産業の創出――が大きければ大きいほど、その陰で彼女が支払った犠牲の大きさを思い知らされる。  彼女はたった一人で、誰にも相談せず、自分の人生そのものを「経費(コスト)」として切り捨てたのだ。

 あんなに温かかった魂を、冷たい数字に変えて。

(もう、いないのね……)

 私が愛した、不器用で優しいエリザベートは、もう二度と戻らない。  今そこにいるのは、エリザベートの記憶を持つ、完璧な「自動人形(オートマタ)」だ。

 絶望が、黒いタールのように胸を満たしていく。  もう、会うのはやめよう。  会えば会うほど、喪失感に殺されてしまう。  彼女はもう、私を必要としていない。彼女が必要としているのは、優秀な部下と、有利な取引先だけなのだから。

 ――カシャン。

 ふと、脳裏で音がした。  それは、かつてエリザベートが、自分自身を形容した音のような気がした。  『私は、ガラス細工のように脆い』と、彼女は言わなかったけれど、その瞳はずっとそう語っていた。

 そうだ。  彼女は、割れてしまったのだ。  過酷な運命と、重すぎる責任に耐えきれず、粉々に砕け散ってしまった。  そして、その破片を繋ぎ合わせて、無理やり「完璧な経営者」という形を保っているだけに過ぎない。

(……もし)

 イザベラは、涙で濡れた顔を上げた。

(もし、彼女が自分の心を捨ててしまったのなら。今、彼女の胸の中にあるのは、冷たい空洞だけだというのなら)

 誰が、彼女を暖めるの?  誰が、彼女の代わりに泣くの?  誰が、あの凍りついた孤独な城で、彼女の手を握るの?

 誰もいない。  レオンハルトも、セバスチャンも、彼女の「主君」としての強さを尊重するあまり、その聖域には踏み込めない。  私しか、いない。  彼女の「弱さ」を知っている、私しか。

「……ずるい人」

 イザベラは、涙を拭った。  ハンカチを握りしめる手に、力がこもる。

 逃げるわけにはいかない。  彼女が、私たちのために、自分の心を殺してまで戦っているのに。  私だけが、「昔の彼女がいなくなって寂しい」なんて感傷に浸って、安全な場所にいるわけにはいかない。

 失われた記憶は、戻らないかもしれない。  あの温かい笑顔は、もう二度と見られないかもしれない。  それでも。

「あなたが忘れてしまったのなら、私が覚えている」

 イザベラの瞳に、サファイアのような、硬質で強い光が宿った。

「あなたが愛し方を忘れてしまったのなら、私が二倍、あなたを愛するわ」

 それは、友情などという生温かいものではなかった。  それは、共犯の誓い。  彼女が地獄へ落ちるというなら、喜んでその手を取って、一緒に底まで落ちていくという、狂気にも似た覚悟。

(父上は、エリザベートを敵視している) (公爵家は、いずれ彼女を潰しにかかるでしょう)

 ならば、答えは一つだ。  邪魔なものは、すべて捨てる。  父も、家名も、地位も、誇りも。  そんなものは、あの孤独な少女の、冷え切った指先を暖める価値に比べれば、塵芥(ちりあくた)に等しい。

「待っていて、エリザベート」

 イザベラは、車窓の外、遠ざかっていくリヒトハーフェンの城を見つめた。

「私は、あなたの『心』になりに行くわ。……たとえあなたが、それを拒絶したとしても」

 馬車は王都へ向かう。  だが、彼女の魂はすでに、王都にはない。  煌びやかな公爵令嬢イザベラ・フォン・アークライトは、この日、死んだ。  そして、ただ一人の少女を愛し、守り抜くための、一人の「騎士」が生まれたのだ。

 雪が、降り始めていた。  それは、来たるべき、美しくも過酷な愛の物語の幕開けを告げるように、静かに世界を白く染め上げていった。

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