第十二章:ガラスの翼、離反

 その誘いは、あまりにも、突然に、そして、あまりにも、甘美な毒のように、アリアの元へと、届けられた。 場所は、王都の、彼女たちの、新たな定宿となった、高級宿の一室。 アークライト公爵家の執事を名乗る、その、老獪な男は、終始、丁寧な物腰を、崩さなかった。だが、その言葉の、一つ一つには、巧みに、研ぎ澄まされた、刃が、隠されていた。

「――我が主、アークライト公爵は、あなた方『ガラスの翼』の、ご活躍を、かねてより、聞き及んでおります。その、類稀なる実力が、いまだ、B級という、不当な地位に、甘んじていることを、我がことのように、憂慮されておられる」

 男は、テーブルの上に、一枚の、分厚い羊皮紙を、滑らせた。それは、アークライト公爵家の、紋章が、厳重に、刻印された、正式な、後見契約の、提案書だった。

「リヒトハーフェン男爵閣下は、確かに、慧眼の士。あなた方の、価値を、最初に見抜いた。その功績は、認めましょう。ですが、彼女の下で、あなた方は、しょせん、『雇われの身』に過ぎない。どれほど、功績を上げようと、あなた方は、彼女の、事業の、一つの『駒』でしか、あり得ないのです」

 アリアは、何も、言い返せなかった。 男の言葉は、的確に、彼女が、ここ、数ヶ月、心の奥底で、感じていた、漠然とした、不安と、寂しさを、抉り出していたからだ。

「我が主が、あなた方に、お約束するのは、『真の独立』です。ギルドにも、いかなる、雇い主にも、縛られない、あなた方自身の、パーティー。そして、その、輝かしい功績に、相応しい、名誉と、地位」

 執事は、そこで、一度、言葉を切ると、まるで、とどめの一撃を、放つかのように、続けた。

「我が、アークライト公爵家には、国王陛下より、特別に、認められた、『公爵家直属騎士団』を、編成する、権利がございます。もちろん、国王陛下が、お与えになる、正式な、騎士爵とは、異なります。領地も、世襲も、許されない。ですが、その名誉は、下級貴族にも、勝るとも、劣らない。あなた方には、その、『名誉騎士(ホノラリー・ナイト)』の、地位を、お与えしよう、と、我が主は、仰せです。公爵家の、紋章を、その盾に、刻むことを、許された、誇り高き、騎士として、あなた方を、お迎えしたい、と」

 それは、彼女たちが、願ってもいないような地位だった。 女というだけで、不当に、虐げられ、その実力を、認められずに、悔し涙を、流した、あの日々。その、全ての、雪辱を、果たせる、約束。一介の、冒険者ではなく、王弟殿下の、直属の「騎士」となる。これ以上の、名誉が、他にあるだろうか。

「…お言葉ですが」

 アリアは、かろうじて、声を、絞り出した。

「あたしたちは、リーザ…いえ、エリザベート男爵と、契約を、結んでいます。彼女は、あたしたちの、恩人だ。その、恩を、仇で、返すような真似は…」

「恩、ですか」

 執事は、まるで、面白い冗談でも、聞いたかのように、その、薄い唇を、歪めた。

「今の、彼女に、そのような、人間的な感情が、通じると、お思いで? 彼女にとって、あなた方は、ただの、『投資対象』。貸借対照表(バランスシート)の上に、計上された、『資産』の一つに過ぎません。その証拠に、彼女は、あなた方との、旅の思い出を、全て、忘れてしまっている、と、伺っておりますが?」

 ぐさり、と。 心の、一番、柔らかい場所を、容赦なく、突き刺されたような、痛みが、走った。 その通りだった。 今の、エリザベートは、かつて、共に、死線を、潜り抜けた、あの、リーザでは、ない。 彼女の、碧眼には、自分たちの、姿は、映っていない。彼女が見ているのは、自分たちという「資産」が、生み出す、未来の、キャッシュフローだけだ。

 執事は、静かに、立ち上がった。 「良い、お返事を、お待ちしておりますぞ、英雄殿」 そう言い残し、男は、音もなく、部屋を、去っていった。

 その夜、『ガラスの翼』の、メンバーたちの部屋で、これまでで、最も、重く、そして、辛い、会議が、開かれていた。 アークライト公爵からの、提案。 それは、彼女たちの、心を、バラバラに、引き裂いた。

「…あたしは、反対だ!」

 最初に、声を上げたのは、斥候のキキだった。その目には、涙が、浮かんでいる。

「リーザは、あたしたちを、見つけてくれたんだ! 今の、あたしたちが、あるのは、全部、あいつの、おかげじゃないか! それを、忘れて、金や、地位に、目が眩むなんて、そんなの、あたしは、絶対に、嫌だよ!」

「だが、キキ。あの執事の言うことにも、一理ある」

 静かに、反論したのは、賢者のルーナだった。

「今の、エリザベート様は、もはや、我々の知る、リーザではない。我々は、彼女にとって、ただの、事業の、一部だ。このまま、彼女の下にいても、我々は、ただ、彼女の、帝国を、拡大させるための、道具として、消費されていくくだけ、なのかもしれない…」

「あたしは…あたしは、どっちの、気持ちも、分かるよ…」

 僧侶のエララが、苦しげに、胸を、押さえた。

「リーザへの、恩義も、ある。でも、これ以上、あの、何もかもを、見透かしたような、冷たい目で、あたしたちを、『管理』されるのは…正直、もう、耐えられない…」

 盾役のフレイヤは、ただ、黙って、腕を組んでいた。 そして、最後に、リーダーである、アリアが、口を開いた。

「…昨日、あたしは、エリザベートに、会ってきた」

 全員の、視線が、アリアに、集まる。

「あたしは、あいつに、聞いたんだ。『沈黙の森』での、旅のこと、覚えてるか、って。一緒に、マンドラゴラの、群生地を、駆け抜けたこと。グレイウルフの、洞窟で、月光茸を、見つけたこと。…その、全部を、話した」

 アリアは、一度、言葉を切ると、自嘲するような、笑みを、浮かべた。

「…あいつの、答え、なんだと、思う?」

「……」

「『その、経験によって、得られた、戦術データと、追加収益は、今後の、事業計画において、極めて、有益です。感謝します』…だとよ」

 部屋に、絶望的な、沈黙が、落ちた。 それは、彼女たちの、最後の、希望の糸が、ぷつりと、断ち切られた、音だった。

「…あたしは、決めた」

 アリアは、顔を上げた。その目には、もう、迷いはなかった。 「あたしたちは、これ以上、あいつの、駒じゃ、ない。あたしたちは、あたしたち自身の、物語を、生きるべきだ。…たとえ、それが、茨の道だとしても、な」

 それは、『ガラスの翼』が、初めて、自らの、意志で、その、未来を、選択した、瞬間だった。

 翌日。 アリアは、一人で、エリザベートの、執務室の、扉を、叩いた。 記憶を失う前と、何も、変わらない、その部屋。 だが、そこに座る、主の、姿だけが、あまりにも、遠く、感じられた。

「――契約の、破棄、ですって?」

 エリザベートは、書類から、顔を、上げることなく、言った。その声は、凪いだ、湖面のように、静かだった。

「ええ。あたしたちは、独立する。アークライト公爵の、庇護の元でね」

「…なるほど。アークライト公爵家。確かに、私(わたくし)よりも、遥かに、大きく、安定した、『乗り換え先(プラットフォーム)』ですわね。あなた方の、『企業価値』を、最大化するための、極めて、合理的で、正しい、経営判断だと、思います」

 その、あまりにも、人間味のない、完璧な「理解」に、アリアは、言葉を、失った。 エリザベートは、そこで、初めて、顔を上げた。 そして、まるで、チェスの、次の、一手を、考えるかのように、言った。

「ですが、こちらも、ただで、優良な『資産』を、手放すわけには、いきませんわ。対抗提案(カウンター・オファー)を、いたしましょう。あなた方の、成功報酬を、現在の、三割から、四割へと、引き上げます。加えて、装備の、維持管理費用も、こちらで、全額、負担する。…これで、いかがかしら?」

 金。金。金。 全てが、数字。 アリアは、もう、それ以上、聞いていることは、できなかった。

「…もう、いいよ」

 彼女は、静かに、首を、横に振った。

「あんたには、もう、何も、聞こえないんだな」

 そう、一言だけ、言い残し、アリアは、執務室を、後にした。 扉が、閉まる、その、最後の、瞬間。 アリアには、見えた気がした。 エリザベートの、その、完璧な、無表情の、奥の、奥。 ほんの、一瞬だけ、迷子になった、子供のような、寂しげな色が、揺らいだのを。 だが、それは、きっと、自分の、感傷が、見せた、幻に、違いなかった。

 一人、残された、執務室。 エリザベートは、ただ、静かに、目の前の、貸借対照表(バランスシート)を、眺めていた。 そして、資産の部に、計上されていた、『ガラスの翼』という、最も、価値のある、項目の一つを、赤い、インクの、ペンで、静かに、横線を、引いて、消した。 彼女の、心臓は、何も、感じていなかった。 ただ、完璧だったはずの、自分の、事業計画に、一つ、大きな、『損失(ロス)』が、生まれた。 その、事実だけが、冷たい、現実として、そこには、あった。

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