第十章:空っぽの女王
時間は、止まっていた。 谷底に満ちる、静寂。それは、もはや、『沈黙の森』の、魔力によるものではなかった。 アリアの、そして、『ガラスの翼』の、全てのメンバーの心臓が、凍りついたかのような、絶望的な静寂だった。
「…あんた、何を、言ってるんだ…?」
アリアが、かろうじて、絞り出した声は、ひどく、かすれていた。 目の前に立つ、リーザと名乗った、少女。 その、陽光を弾く、金の髪も、吸い込まれそうな、蒼穹の瞳も、何も、変わらない。 だが、その瞳が、今、自分たちを見つめる、その眼差しは、決定的に、異なっていた。 そこには、これまでの、七日間の旅路で、育んできたはずの、親密さも、信頼も、悪戯っぽい、温かみも、何一つ、存在しなかった。 まるで、初めて見る、道端の石ころでも、値踏みするかのような、無機質で、分析的な光だけが、宿っていた。
「申し訳、ありません。どうやら、先ほどの術の影響で、記憶に、障害が発生しているようです」
リーザは、淡々と、自分自身の状態を、分析してみせた。
「ですが、ご心配なく。契約内容は、覚えています。あなた方は、『ガラスの翼』。私と、独占契約を結んだ、B級冒険者パーティー。…それで、間違い、ありませんわね?」
その、あまりにも、他人行儀な、確認の言葉。 斥候のキキが、わっと、泣き出した。
「…ひどいよ、リーザ! あたしらのこと、忘れちまったのかい!? 一緒に、ご飯、食べたじゃないか! 一緒に、魔物と、戦ったじゃないか!」
「キキ、やめな…!」
アリアが、その小さな肩を、抱き寄せる。 だが、そのアリア自身の瞳も、赤く、潤んでいた。
リーザは、泣きじゃくるキキを、ただ、不思議そうに、眺めていた。 (――感情的な、反応。契約の履行に、支障をきたす、レベルか? いや、現時点では、問題ない、と判断) 彼女の頭の中では、ただ、冷静な、状況分析だけが、高速で、行われていた。 彼女は、目の前の、呪いが解かれた、鉱脈へと、向き直った。
「それよりも、今は、この『資産』を、どう、回収するか、ですわ。この量は、マジックバッグだけでは、全てを、持ち帰ることは、不可能。優先順位をつけ、最も、魔力純度の高い部分から、回収を開始します。フレイヤさん、ルーナさん、あなた方は、周囲の警戒を。アリアさんと、キキさんは、回収作業の準備を。エララさんは、引き続き、ルーナさんの、体調管理を」
その指示は、あまりにも、的確で、合理的で、そして、血が、通っていなかった。 まるで、手足の駒を、動かすかのように。 アリアは、唇を、強く、噛み締めた。そして、涙を、ぐっと、こらえた。 今、自分が、リーダーとして、すべきことは、泣くことではない。 この、記憶を失った、孤独な「頭脳」を、そして、この、事業の、未来そのものである、月長石を、無事に、文明社会まで、持ち帰ることだ。
帰り道は、行きとは、全く、別の意味で、地獄だった。 パーティーの中に、会話は、ほとんど、なかった。 リーザは、時折、思い出せない、知識の欠片を、埋めるかのように、淡々と、アリアたちに、質問を、投げかけた。
「辺境伯領の、ギルド長の名前は?」
「王都での、私の、協力者は、誰と、誰ですの?」
その、一つ一つの質問が、彼女たちの心を、鋭い、氷の刃のように、切り刻んでいった。
そして、十日後。 一行が、リヒトハーフェン辺境伯領の、男爵領へと、帰還した時。 その、異変に、最初に気づいたのは、完璧なる執事、セバスチャンだった。
「――お帰りなさいませ、お嬢様。そして、皆様も、ご無事で、何よりでございます」
出迎えたセバスチャンは、エリザベートの顔を、一目、見ただけで、その表情を、凍りつかせた。 その、完璧な、ポーカーフェイスが、僅かに、揺らいだのを、アリアは、見逃さなかった。
「セバスチャン、ですね。報告は、後ほど、執務室で、詳細に。それより、レオンハルトは? 回収した、この『月長石』の、分析と、加工ラインの、構築を、急がせますわ」
「…かしこまり、ました」
セバスチャンの声が、硬い。 彼は、それ以上、何も、問わなかった。だが、その目に宿った、深い、深い、悲しみの色を、エリザベートは、気づく素振りも、見せなかった。
その日から、エリザベートは、変わった。 いや、戻った、というべきなのかもしれない。 長谷川梓という、経営の、怪物へと。
彼女は、眠る時間も、惜しむかのように、仕事に、没頭した。 月長石を、触媒とした、新たな、魔導具の工房が、驚異的な速度で、建設されていく。 ヴァレリウスと、バルタザールという、二人の、気難しい天才を、完璧な、管理術(マネジメント)で、手懐け、新商品の開発を、急ピッチで、進めさせた。 彼女の采配は、常に、的確で、一切の、無駄がなかった。 その姿は、まるで、冷たい、玉座に座る、女王のようだった。 完璧で、孤高で、そして、空っぽの、女王。
事業は、爆発的な、成功を、収め始めた。 呪いが解かれた月長石と、二つの文化の融合によって生まれた、魔術工芸品は、王都の商人たちの間で、瞬く間に、噂となった。 工房には、注文の依頼書が、雪崩のように、舞い込んでくる。 その、熱狂の中心で、エリザベートは、ただ、静かに、貸借対照表(バランスシート)の、資産の部に、積み上がっていく、数字を、眺めていた。 その、碧眼には、何の、感情も、浮かんでいない。 ただ、事業が、計画通りに、進んでいるという、冷たい、満足感だけが、そこには、あった。
ある夜、執務室で、一人、書類の山と、格闘している、エリザベートの元に、セバスチャンが、一枚の、手紙を、運んできた。 アークライト公爵家の、美しい紋章が、刻印された、封蝋。 イザベラからの、手紙だった。
「…お嬢様。イザベラ様から、近況を、お伺いしたい、との、お手紙が」
「そうですか」
エリザベートは、その手紙に、目を、やることもなく、言った。
「『事業が、多忙なため、返信は、遅れる』と、そう、お伝えなさい。それと、セバスチャン。明日の朝までに、共和国との、穀物輸出に関する、第一次交渉の、草案を、まとめておくように」
「……」
「何か?」
「…いえ。かしこまり、ました」
セバスチャンは、深く、一礼すると、音もなく、執務室を、退出した。 一人、残された、エリザベートは、机の上の、イザベラからの手紙を、ちらりと、一瞥した。 その、美しい、紋章を見ても、彼女の心は、凪いだ、湖面のように、静まり返っていた。 (イザベラ・フォン・アークライト…王家の血を引く、公爵令嬢。今後の、王都での、事業展開における、最重要、キーパーソン…)
彼女の頭の中には、ただ、その、事実(データ)だけが、浮かんでいた。 そこに、かつて、あったはずの、温かい、友情の記憶は、もう、どこにも、残ってはいなかった。 彼女が、自らの、人生を、犠牲にしてまで、守ったはずの、その、かけがえのない宝物の、価値さえも、忘れて。 空っぽの女王は、ただ、静かに、その、孤独な、玉座に、座り続けていた。 物語は、輝かしい成功の、その頂点で、最も、深く、暗い、悲劇の、ただ中に、あった。
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