第九章:記憶という名の代償

『沈黙の森』に足を踏み入れてから、七日が経過した。 もはや、誰も、正確な日付や、時間を、意識してはいなかった。空は、常に、分厚い木々の葉に覆われ、昼も、夜も、青白い苔の光だけが、ぼんやりと、あたりを照らしている。一行は、リーザの、驚くほど正確な知識と、マジックバッグから供給される、尽きることのない食料だけを頼りに、ただ、ひたすらに、森の奥へ、奥へと、進み続けていた。

 マンドラゴラの群生地を抜けた後も、彼女たちの道行きは、困難を極めた。 視覚を狂わせる、幻覚の胞子を撒き散らす、巨大なキノコの森。音もなく、背後から忍び寄り、その、鋼鉄さえも切り裂く、カマで、命を刈り取ろうとする、カマキリの魔物『ソウルイーター』。そして、底なしの沼では、擬態した、巨大な水棲魔物が、一行を、丸呑みにしようと、その顎を、開いた。

 だが、その、全ての危機を、彼女たちは、乗り越えてきた。 いや、乗り越えさせられてきた、と言うべきだろう。 リーザという名の、『頭脳』によって。

「フレイヤさん、三歩、右へ! そこは、底なし沼の、最も、底が浅い場所です!」

「ルーナさん、詠唱を! ソウルイーターの甲殻の、第七関節部分だけが、唯一、魔法が通じる、脆弱点ですわ!」

「皆さん、呼吸を止め、この布で、口と鼻を覆って! この胞子の幻覚効果は、吸引後、約十分。効果が切れるまで、決して、動かないで!」

 彼女の指示は、常に、冷静で、的確だった。 その知識は、もはや、人間業とは思えない。まるで、この森の創造主であるかのように、彼女は、森の、全ての法則を、知り尽くしているかのようだった。 『ガラスの翼』のメンバーたちは、当初の、尊敬の念を通り越し、今や、リーザに対して、一種の、畏怖の念すら、抱き始めていた。

 そして、八日目の朝。 一行は、ついに、その場所に、たどり着いた。 森の、最も、深い場所。巨大な、谷底。 そこに、それは、あった。

「…嘘…だろ…」

 斥候のキキが、呆然と、呟いた。 目の前に広がる光景は、あまりにも、幻想的で、そして、あまりにも、冒涜的だった。

 谷底一帯が、巨大な、一つの、鉱脈となっていたのだ。 岩壁の、至る所から、まるで、巨大な結晶のように、青白い鉱石が、突き出している。その一つ一つが、月光そのものを、その内に、閉じ込めたかのように、淡く、そして、美しく、発光していた。 『月長石(げっちょうせき)』。 疑いようもなかった。バルタザールの文献にあった、伝説の鉱脈。その規模は、想像を、遥かに、超えていた。これだけの量があれば、魔導具の工房を、十は、作ることができるだろう。

「やった…やったぞ…! これで、あたしたちは…!」 アリアの目に、歓喜の光が、宿った。 だが、その歓声は、すぐに、途切れた。

「――待て」

 リーダーである、彼女よりも先に、その異常に気づいたのは、パーティーの、守りの要である、フレイヤだった。

「…おかしい。何かが、おかしいぞ。静かすぎる。ここには、魔物一匹、いや、虫一匹、いやしない」

 フレイヤの言う通りだった。 これほどの、膨大な魔力を秘めた、鉱脈の周囲には、本来、その魔力に引き寄せられ、強力な魔物たちが、巣くっているはずなのだ。だが、この谷底には、不気味なほどの、完全な『無』が、広がっていた。

 その時、一行の中で、最も、魔力に敏感な、賢者のルーナが、ふらりと、よろめいた。

「…うっ…頭が…割れるように…」

「どうした、ルーナ!」

 僧侶のエララが、慌てて、彼女の体を、支える。 ルーナは、真っ青な顔で、鉱脈の中心を、指さした。

「…あれを…見て…」

 彼女が指さす、鉱脈の、最も、中心部。 そこに、それは、あった。 巨大な、黒い、祭壇のような岩。 そして、その岩に、突き刺さるようにして、何本もの、錆びついた、巨大な『杭』が、打ち込まれていた。その杭には、もはや、解読不能となった、古代のルーン文字が、びっしりと、刻まれている。 それは、明らかに、自然の造形物ではなかった。 何者かが、遥か、古代。この場所に、何か、恐ろしいものを、『封印』した、その痕跡だった。

 そして、一行は、気づいてしまった。 月長石が放つ、美しい、青白い光。それは、ただ、美しいだけではない。 その光に、長く、身を晒していると、心の、奥底から、じわじわと、言い知れぬ『喪失感』とでも言うべき、奇妙な感情が、湧き上がってくるのだ。 故郷への、郷愁。 忘れてしまった、過去の、後悔。 失ってしまった、誰かへの、思慕。 そういった、感傷的な、しかし、抗いがたいほどの、負の感情が、精神を、少しずつ、蝕んでいく。

「…これは…呪いよ…」

 僧侶のエララが、震える声で、言った。

「この鉱脈そのものが、一つの、巨大な『呪い』の、塊になっているんだわ…! この石に触れた者は、きっと、心を、食われてしまう…!」

 絶望が、一行を、支配した。 命を懸けて、たどり着いた、宝の山。 だが、それは、決して、触れてはならない、呪われた果実だったのだ。

 その、誰もが、立ち尽くす中で。 リーザ(エリザベート)だけが、冷静だった。 彼女の碧眼は、目の前の、呪われた鉱脈を、まるで、値踏みするかのように、冷徹に、分析していた。 彼女の脳裏に、あの、元宮廷錬金術師、マスター・ペテルギウスの、言葉が、蘇る。

(――『呪いとは、すなわち、極めて、高度で、指向性を持った、魔術汚染(マジック・コンタミネーション)に過ぎん。そして、汚染があるならば、必ず、その『中和剤(カウンター・エージェント)』も、存在する』…)

 彼女は、静かに、一歩、前に、踏み出した。

「アリアさん。撤退の、必要は、ありませんわ」

「…! リーザ、あんた、何を…!」

「この呪いを、解く方法が、あります。…ただし、それには、『代償』が、必要になりますが」

 リーザは、懐から、小さな、羊皮紙の巻物を、取り出した。それは、ペテルギウスから、金貨百枚という、破格の値段で、買い取った、禁断の、古代文献の写しだった。

「この文献によれば、この種の、精神汚染系の、古代の呪いを、完全に、中和するためには、ただ、一つ。術者の、『最も、価値のある、記憶』を、触媒として、捧げるしか、ないと」

「…記憶、だと…?」

「ええ。術者が、これまでの人生で、最も、大切にしてきた、思い出。喜びも、悲しみも、その全てを、一つの、魔力の塊として、この地に捧げる。そうすることで、初めて、この呪いは、鎮まる、と」

 それは、あまりにも、非現実的で、そして、あまりにも、残酷な、解決策だった。 『ガラスの翼』の、誰もが、顔を、見合わせる。 自分たちの、最も、大切な記憶? 仲間たちと、初めて、出会った日。 苦しい時に、支え合った、夜。 そんな、かけがえのない宝物を、差し出せる者など、いるはずもなかった。

 だが、リーザは、静かに、続けた。 その声には、いかなる、感情も、宿っていなかった。

「――この術は、私(わたくし)が、やりますわ」

「…!」

 全員が、息を呑んだ。

「あなた方の、誰一人として、その宝物を、失う必要は、ありません。この『事業』の、リスクは、全て、投資家である、私が、負うべきものですから」

 彼女は、そう言うと、まるで、日常の、挨拶でもするかのように、あっさりと、言い放った。

「わたくしが、捧げるのは、『エリザベート・フォン・リヒトハーフェン』として生きてきた、十六年分の、全ての記憶ですわ」

 その、あまりにも、衝撃的な言葉の意味を、アリアたちが、完全に、理解するよりも、早く。 リーザは、羊皮紙に書かれた、古代の術式を、静かに、詠唱し始めていた。 彼女の足元から、淡い、金色の光が、溢れ出す。 それは、彼女の、魂そのものの、輝きだった。

「やめろ、リーザ! あんた、自分が、何を言ってるのか、分かってるのか!」

 アリアが、叫びながら、駆け寄ろうとする。 だが、見えない、魔力の壁が、それを、阻んだ。

 リーザは、悲しげに、微笑んだ。 その碧眼には、初めて、経営者ではない、一人の、少女としての、寂しげな色が、浮かんでいた。

「大丈夫よ、アリアさん。私には、まだ、もう一つの、人生の記憶が、ありますから。それに…」

 彼女は、一度、言葉を切ると、まるで、自分自身に、言い聞かせるように、呟いた。

「悪役令嬢として生きてきた、十六年間など…しょせん、この事業の、貸借対照表(バランスシート)の上では、切り捨てるべき『負債』でしか、ありませんでしたもの」

 それが、彼女が、最後に、発した、言葉だった。 金色の光が、爆ぜた。 その、眩い光の中で、アリアは、確かに、見た。 光の奔流の中に、溶けていく、無数の、思い出の断片を。 父に、頭を撫でられた、温もり。 イザベラと、初めて、心を通わせた、夜会。 そして、自分たち『ガラスの翼』と、出会った、あの、ギルドでの、喧騒。 その全てが、まるで、燃え尽きていく、写真のように、儚く、消えていくのを。

 やがて、光が、収まった時。 そこには、リーザが、静かに、佇んでいた。 その表情は、以前と、何も、変わらない。 だが、ア-リアには、分かった。 目の前にいる、彼女の中から、何かが、決定的に、失われてしまったことを。

 谷底に満ちていた、あの、心を蝕む、邪悪な気配は、嘘のように、消え去っていた。 月長石は、ただ、静かに、美しい、青白い光を、放っているだけだった。 呪いは、解かれたのだ。

 リーザは、ゆっくりと、アリアたちの方に、向き直った。 そして、こてり、と、不思議そうに、首を、傾げた。

「――申し訳ございません。わたくし、少し、記憶が、混乱しているようですわ。ところで、あなた方は、どなた、でしたかしら?」

 その、あまりにも、無垢な問いかけが、静まり返った、谷底に、いつまでも、いつまでも、響き渡っていた。

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