第八章:呪われた鉱脈
『ガラスの翼』と、リーザと名乗る謎の投資家との、正式な契約は、静かに、そして、迅速に執り行われた。 場所は、前回と同じ、酒場『迷い猫の止まり木亭』。契約書に、アリアが、震える手でサインをし、そして、リーザが、こともなげに、約束の前金…金貨にして、百枚という、B級パーティーが、一生かかっても、手にすることができないであろう、大金をテーブルの上に置いた時、彼女たちの冒険は、もう、後戻りのできない、新たなステージへと、突入したのだった。
それからの、一週間。 『ガラスの翼』のメンバーたちは、まるで、夢の中にいるかのようだった。 リーザが、費用を全額負担し、王都で、最高クラスの武具職人や、魔術師を、次々と紹介してくれたのだ。 リーダーのアリアの、古びた魔法剣は、ミスリル銀を編み込んだ、軽量かつ、魔力伝導率の極めて高い、最新のものに。盾役フレイヤの、傷だらけだった大盾と全身鎧は、衝撃を吸収する、特殊な合金で、新調された。斥候キキの短剣や弓、賢者ルーナの杖、僧侶エララの聖印に至るまで、その全てが、これまで、彼女たちが、ショーウィンドウの向こうから、溜息混じりに眺めることしかできなかった、一級品へと、生まれ変わった。
「…なんだか、身体が、ふわふわするよ」
「分かるわ。この杖、魔力の流れが、今までとは、比べ物にならない…」
「借金で、首が回らなくなりそうだけどね…」
「大丈夫よ。あの、とんでもない『頭脳』が持ってくれる契約だし、きっと、それ以上に元を取らせてくれるわ」
彼女たちの間には、不安と、それを遥かに上回る、高揚感が、渦巻いていた。 そして、全ての準備が整った、ある、晴れた朝。 一行は、ついに、『沈黙の森』へと続く、古道に、その第一歩を、踏み出した。
森は、その名の通り、静かだった。 入り口を一歩、くぐっただけで、外の世界の、あらゆる音が、ぴたりと、止む。鳥の声も、虫の音も、風が、木々の葉を揺らす音さえも、聞こえない。ただ、自分の、心臓の鼓動と、息遣いだけが、やけに、大きく耳に響く。 巨大な木々が、空を覆い尽くし、昼間だというのに、森の中は、薄暗い。地面には、何百年も、陽の光を浴びていないであろう、湿った、黒い土と、苔が、絨毯のように、敷き詰められている。時折、足元で、青白い光を放つ、奇妙なキノコだけが、唯一の、光源だった。
三時間が、経過した。 一行は、まだ、森の、入り口付近を、進んでいるに過ぎない。だが、その空気は、明らかに、重く、そして、邪悪なものへと、変質し始めていた。
その時だった。 「――待って!」 斥候のキキが、鋭く、短い声を上げた。そして、その場に、ぴたりと、足を止める。 パーティー全員に、緊張が走った。
「…どうした、キキ」 「…匂うんだ。この先から…甘い、花の蜜のような匂いがする。それも、一つや、二つじゃない。ものすごい、数だ…」 甘い、花の蜜の匂い。 その、一見、無害そうな言葉に、賢者のルーナと、僧侶のエララの顔から、さっと、血の気が引いた。
「まさか…『マンドラゴラ』の、群生地…!?」
マンドラゴラ。 その根は、万病に効く、霊薬として知られるが、同時に、その花は、生物の精神を蝕む、甘い香りの、幻覚性の毒を、撒き散らす。そして、ひとたび、引き抜かれれば、その断末魔の叫び声を聞いた者は、発狂して、死に至る、という。 一体、一体でも、B級パーティーが、苦戦する、厄介な魔物。それが、群生している。
「…まずいな。迂回するしかない。だが、この先の、道は…」
アリアが、苦々しげに、地図を広げる。 迂回するには、危険な、沼地を、通らなければならない。どちらを選んでも、待っているのは、地獄だった。 その、絶望的な状況の中で、リーザが、静かに、口を開いた。
「――突破しますわ」
「はあ!? あんた、正気かい!」
アリアが、素っ頓狂な声を上げた。
「ええ、正気です。この風向きと、風速ならば、道の、南側の、崖沿いギリギリを進めば、毒の、有効範囲から、僅かに、外れることができるはず。そして、マンドラゴラは、根を張っているため、移動はできません。つまり、『音を立てずに、息を殺して、走り抜ける』ことさえできれば、我々は、ノーリスクで、この場を、突破できます」
「無茶だ!」 アリアが、叫んだ。 「一歩、間違えれば、全員、お陀仏じゃないか! なんて、無茶なリスクを取らせるんだ!」
その、賞賛と、非難が入り混じった、アリアの言葉に、リーザは、こともなげに、首を横に振った。
「いいえ、アリアさん。無茶でもなければ、高いリスクでもありませんわ」
「はあ? 何を言って…」
「本当の『リスク』とは、本来、『不確実性』のことを言いますの。何が起こるか、分からないこと。それこそが、リスクなのです」
リーザは、にっこりと、微笑んだ。その笑みは、まるで、子供に、難しい計算式を、一つ一つ、解き明かして聞かせる、家庭教師のようだった。
「私は、毒の拡散範囲と、あなた方の脚の速さを、事前に、正確に、分析し、予測しました。そして、その結果、『成功確率、九割九分以上』と、判断できていた。――つまり、あの作戦における『不確実性』は、ほぼ、ゼロですわ。見た目は、派手な博打でも、その実態は、極めて、安全な、『低リスク』な戦術ですのよ」
リーザは、マジックバッグから、水筒を取り出すと、呆気に取られている、アリアに、差し出した。
「リスクとは、ただ、恐れるものではありませんわ。正しく、分析し、計測し、そして、『制御(コントロール)』するものなのです」
その、絶対的な自信に満ちた、碧眼に見つめられ、アリアは、ぐっと、言葉に、詰まった。 この娘の「知識」は、前回の、グレイウルフの狩りで、既に、証明されている。
アリアは、ごくりと、喉を鳴らすと、仲間たちの顔を、見回した。 仲間たちは、恐怖に、顔を引きつらせながらも、最後は、リーダーである、アリアに、その判断を、委ねていた。 アリアは、大きく、息を吸い込むと、決然と、言い放った。
「――分かった。あんたの、その、狂った計算に、乗ってやる。全員、準備はいいな! リーザの言う通り、絶対に、音を立てるなよ!」
一行は、息を殺し、崖沿いの、僅かな道に、足を踏み入れた。 すぐに、キキが言っていた、むせ返るような、甘い匂いが、鼻腔を、突き刺す。頭が、くらくらする。だが、リーザの言う通り、崖の縁を歩く限り、その濃度は、意識を失うほどでは、なかった。 やがて、道の先に、開けた場所が見えてきた。 そこには、無数の、赤ん坊の頭のような、不気味な花が、咲き乱れていた。その花々が、ゆらゆらと、揺れながら、甘い香りを、あたり一面に、撒き散らしている。
(――行くわよ)
アリアの合図で、全員が、一斉に、駆け出した。 心臓が、張り裂けそうだ。 肺が、焼けるように、痛い。 だが、誰一人、声を上げず、ただ、ひたすらに、前だけを見て、走り抜ける。 数十秒が、まるで、永遠のようにも、感じられた。
そして、ついに、一行は、その、悪夢のような、花の群生地を、完全に、突破した。 全員が、その場に、へたり込み、荒い息を、繰り返している。 誰も、傷一つ、負っていない。
「…はあ…はあ…。嘘だろ…本当に、走り抜けちまった…」 アリアが、信じられない、といった表情で、リーザの顔を、見た。 その顔は、相変わらず、涼しい顔をしていた。
だが、彼女たちは、まだ、知らない。 この、マンドラゴラの群生地は、この『沈黙の森』が、彼女たちに仕掛けた、最初の、そして、最も、生易しい「罠」に過ぎなかったことを。 そして、この森の、さらに、奥深く。 古代の、邪神の封印と、そして、呪われた鉱脈が、新たな、生贄の到着を、静かに、待ち構えていることを。 本当の、悪夢は、まだ、始まったばかりだった。
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