【後編】序章:国境の煙と、貸借対照表の好機

 秋の陽光は、まるで熟成された蜂蜜のように、とろりとした黄金色をしていた。リヒトハーフェン辺境伯領の、城館の最も日当たりの良いテラス。エリザベート・フォン・リヒトハーフェンは、この数ヶ月、忘れることすらしていた穏やかな時間の中に、その身を浸していた。

 白磁のカップを縁取る金彩が、午後の光を吸い込んでは、控えめな輝きを散らす。立ち上る湯気と共に鼻腔をくすぐるのは、東方の国から取り寄せたという、希少な茶葉の芳醇な香り。セバスチャンが淹れる紅茶は、常に完璧だった。一口含めば、花の蜜のような甘みと、森の下草を思わせる微かな渋みが、舌の上で幾重にもほどけていく。傍らの銀皿には、領地で採れたばかりの木苺をふんだんに使った、料理長特製のタルト。さくりと音を立てる生地、瑞々しい果実の酸味、そして、滑らかなカスタードクリームの優しい甘さ。

 全てが満ち足りていた。 王都での事業は、クラウディアという得難い駒を得て、今や、エリザベートが描いた設計図を遥かに超える速度で、その版図を拡大している 。領地の経営も、海産物事業という新たなエンジンを得て、驚くほど安定していた 。 前世の、長谷川梓であった頃の自分が、夢にまで見た風景。パワハラと無力感にすり潰される日々の果てに、渇望してやまなかった、穏やかで、満たされた時間 。 (――たまには、こういうのも、悪くないわね) 長いまつ毛を伏せ、彼女がカップに再び口をつけようとした、その刹那だった。

「エリザベート様! 緊急のご報告です!」

 テラスへと続くガラスの扉が、悲鳴のような音を立てて開かれる。そこに立っていたのは、肩で大きく息をしながら、額に汗の玉を滲ませた、腹心のレオンハルトだった。その手には、王家の紋章よりも厳重な、黒い封蝋で固められた書簡が握られている。それは、エリザベートが、莫大な私財を投じて南の国境線に張り巡らせた、私設の情報網からの、最も優先順位の高い特級伝書だった 。

 空気が、凍る。 先ほどまでの蜂蜜色の時間は、一瞬にして、張り詰めた硝子へと変質した。 エリザベートは、音もなくカップをソーサーに戻すと、静かに立ち上がった。その所作には、十六歳の少女のそれではない、幾多の修羅場を潜り抜けてきた経営者の、冷たい落ち着きが宿っていた。

「ご苦労様、レオンハルト。セバスチャン、彼に水を」

「はっ」

 彼女は、差し出された書簡を受け取ると、ペーパーナイフで、慎重に封蝋を切り開いた。滑らかな羊皮紙の上に並ぶのは、彼女と、ごく一部の人間にしか解読できない、簡潔な暗号文。その一つ一つの文字を、彼女の灰色の瞳が、猛禽のように滑っていく。

 ――クレスタ共和国、穀物三大生産地、旱魃ニヨリ全滅。

 ――王都ヨリノ配給、機能不全。地方貴族、領民ヲ見捨テ、備蓄ヲ独占。

 ――国境付近ニ、餓エタ流民、日々増加。一部、武装化。

 ――昨日未明、国境警備隊ト小競リ合イ。死者数名。

 ――国境ニ、不穏ナ煙。

 短い報告文の行間から、乾いた土の匂い、腐敗した作物の澱み、そして、腹を空かせた赤子の、か細い泣き声が、幻のように立ち上ってくる。彼女の脳裏に、一つの単語が、燃えるような朱色で点滅した。

『飢饉』

 レオンハルトが、息を整えながら、硬い声で言った。

「――これは、もはや、単なる暴動ではありません。放置すれば、数十、数百の単位で、難民が国境を越えてくる可能性が。辺境伯であるお父上にも、すぐにご報告し、国境警備隊の増強を…!」

「お待ちしておりました、エリザベート様」 いつの間にか、セバスチャンが、冷たい水の入ったグラスをトレイに乗せ、レオンハルトに差し出しながら、静かに佇んでいた。 「レオンハルト殿の仰る通り、軍事的な脅威度は、極めて高いかと。しかし同時に、彼らは武器を捨てれば、庇護を求めるべき『民』でもあります。人道的な観点からの判断も…」

 二人の忠臣の、的確で、そして真っ当な意見。 それらを聞きながら、エリザベートの意識は、全く別の場所に飛んでいた。 彼女の瞳は、テラスの向こうの、穏やかな領地の風景を見てはいなかった。彼女の頭の中では、高速で、無数の数字とチャートが、目まぐるしく回転していた。

(――旱魃による、供給の完全な停止(サプライ・ショック)。政府の機能不全による、流通網の崩壊(サプライチェーン・コラプス)。これは、クレスタ共和国という、一つの巨大な『市場』の、致命的なまでの『市場の失敗(マーケット・フェイラー)』だわ)

 レオンハルトが見ているのは、『戦争』というリスク。 セバスチャンが見ているのは、『人道』というコスト。

 だが、長谷川梓の記憶を持つ、エリザベートが見ているのは、そのどちらでもなかった。 彼女の唇の端が、ほんのわずかに、吊り上がった。それは、テラスで浮かべていた穏やかな笑みとは、全く質の異なる、獰猛な肉食獣のそれだった。

(リスクとコストの裏側には、常に、それらを上回る『機会(オポチュニティ)』が眠っている)

 難民。それは、受け入れれば、領地の財政を圧迫する『負債(ライアビリティ)』だ。 だが、視点を変えれば? 適切な『マネジメント』さえできれば、彼らは、新たな価値を生み出す、未開発の『人的資産(ヒューマン・アセット)』へと転換できる。 飢饉。それは、隣国を滅ぼしかねない悲劇だ。 だが、見方を変えれば? 食料という、最も根源的な需要が、供給を圧倒的に上回っている、巨大な『ブルーオーシャン市場』が、一夜にして、国境の向こうに出現したということだ。

 そして、彼女の頭の中で、バラバラだったパズルのピースが、一つの美しい絵を形作った。 ――この、溢れ出る『人的資産』。 ――そして、第一巻で、海産物事業の成功の影で、不満を募らせていた、伝統工芸ギルドという、領内の『遊休資産(アイドル・アセット)』。 この二つを組み合わせることができたなら。

「レオンハルト、セバスチャン」

 凛とした声に、二人が、はっと顔を上げる。 そこにいたのは、穏やかな午後のティータイムを楽しんでいた、可憐な貴族令嬢ではなかった。 獲物を見つけた鷹のように、その碧眼を、底光りさせる、一人の経営者だった。

「戦争の準備ではありませんわ」

 彼女は、羊皮紙を、まるで新たな事業計画書のように、テーブルの上に広げた。

「――新しい『建国』の準備を、始めるのです」

 その言葉の意味を、レオンハルトも、セバスチャンも、まだ、理解できずにいた。 ただ、彼らの主君が、再び、誰も見たことのない、途方もない事業(ゲーム)を始めようとしていることだけは、肌で感じ取っていた。 南の国境から吹き付ける風が、にわかに、鉄の匂いを帯び始めたような気がした。

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