第一章:父という名の壁、娘という名の武器

 リヒトハーフェン辺境伯、ヴィルヘルム・フォン・リヒトハーフェンの執務室は、彼という人間そのものを写し取ったかのような空間だった。 壁一面を埋め尽くすのは、戦術地図や、過去の戦で鹵獲したであろう敵国の武具。空気は、古紙の匂いと、革製品、そして、微かに硝煙の残り香が混じり合ったような、重々しい匂いで満たされている。窓から差し込む陽光でさえ、この部屋の中では、その輝きを一段、潜めているように感じられた。

 その、城の心臓とも言える部屋で、エリザベートは、父と対峙していた。 巨大な黒檀の執務机を挟んで。父の背後の壁には、一際大きな、熊の毛皮が飾られている。かつて、若き日の父が、たった一人で仕留めたという伝説の主。そのガラスの瞳が、まるで父の代わりであるかのように、エリザベートを射抜いていた。

「――以上が、わたくしの提案する、『国境経済特区』構想の概要ですわ、お父様」

 エリザベートは、この日のために用意した、数十ページに及ぶ事業計画書を、父の前に広げていた。 共和国難民を、単なる被災者ではなく「労働力」と捉え、職業訓練を施すこと。領内の伝統工芸ギルドの職人を「教官」として雇用し、両者の間に新たな師弟関係を築くこと。そして、そこで生産された製品を、食糧と共に共和国へ「輸出」することで、新たなサプライチェーンと、経済的な従属関係を構築すること。 その全てが、冷徹なまでの数字と、緻密なシミュレーションによって裏付けられている。彼女が、長谷川梓として培った、知識と経験の全てを注ぎ込んだ、完璧な計画書だった。

 だが、ヴィルヘルム辺境伯は、その分厚い書類に、一瞥もくれなかった。 組んだ腕の、岩のような筋肉が、ピクリと動く。その深い皺の刻まれた眉間が、苦々しげに寄せられた。

「……くだらん」

 絞り出すような、低い声。それは、エリザベートの完璧なロジックを、根底から否定する、拒絶の響きを帯びていた。

「エリザベート。お前は、机上の空論を弄んでいるに過ぎん。国境というものが、何のためにあるのか、忘れたか。あれは、地図の上に引かれた、ただの線ではない。幾多の兵士たちの血と、この地に生きる民の涙で引かれた、鉄の壁だ」

「ですが、お父様。軍事的な緊張と、経済的な機会は、両立いたします。いえ、むしろ、経済的な繋がりこそが、長期的な安全保障に…」

「黙れ!」

 一喝。 部屋の空気が、びりびりと震えた。壁に飾られた武具が、カタカタと、小さな悲鳴を上げた。 ヴィルヘルムは、ゆっくりと立ち上がった。その巨躯が、エリザベートの前に、巨大な影を落とす。

「わしは、この半生を、あの共和国との戦いに捧げてきた。わしの部下たちが、何人、奴らの刃に倒れたと思っている。その遺族たちの顔に、どうやって泥を塗れと申すか。昨日まで我々に剣を向けていた連中を、この領地に招き入れ、我々の税金で食わせ、技術まで教えろだと? それは、人道ではない。ただの、裏切りだ」

 それは、理論ではなかった。感情だった。 武人として、領主として、そして、部下を愛する一人の将として、彼が、その身に刻み込んできた、消えることのない年輪。その全てが、エリザベートの計画を「否」と断じている。 (――ダメだわ。これでは、通じない) エリザベートは、瞬時に悟った。 今、父の前に立っているのは、「経営者・長谷川梓」だ。だが、父が見ているのは、その仮面ではない。彼の娘、「エリザベート」だ。そして、その娘が、彼の信じる、全ての世界を、否定しようとしている。 この壁を、MBAの正論(ハンマー)で打ち破ることは、不可能だ。 ならば。 ならば、彼女が使うべき武器は、一つしかない。

 ふぅ、と、エリザベートは、小さく息を吐いた。 そして、次に顔を上げた時、彼女の纏う空気は、完全に変質していた。 背筋を伸ばし、理路整然と語っていた経営者の仮面が、音もなく剥がれ落ちる。代わりに現れたのは、少しだけ肩をすくめ、唇を微かに尖らせた、ただの十六歳の、不満げな少女の顔だった。

 彼女は、父の巨大な執務机を、回り込むようにして歩いた。そして、腕を組み、仁王立ちになっている父の腕に、そっと、自分の腕を絡ませた。まるで、幼い頃に、おねだりをする時のように。

「……お父様」

 声のトーンが、数段、甘くなる。それは、ロジックを語る声ではなく、感情に訴えかける、ねだるような響きだった。

「わたくしの申し上げていることが、お父様のお気持ちを逆なでするようなことだとは、分かっておりますわ。でも…でも、わたくし、このままでは、領地の未来が、どうしても心配なのですもの」

 潤んだ青色の瞳が、下から、父の顔を覗き込む。 ヴィルヘルムの、鋼のような表情が、ほんのわずかに、揺らいだ。

「わがままを言っているのは、承知しております。ですが、お父様、わたくしの我儘、これまでも、たくさん聞いてくださいましたでしょう?」

「……それは…」

「今回も、一つだけ。一つだけで、よろしいのです。わたくしのこの計画が、本当に、ただの机上の空論なのかどうか。それを、国王陛下に、直接ご判断いただく機会を、いただけませんでしょうか」

 それは、交渉ではなかった。ただの、甘えだった。 前世の記憶が戻る前の、どうしようもなく手が掛かり、しかし、心の底から愛していた、一人娘の、懐かしい仕草。ヴィルヘルムは、娘のこの「武器」に、生涯、勝ち目がないことを、知り抜いていた。

「……陛下を、巻き込むというのか」

「ええ。もし、陛下が『否』と仰るのでしたら、わたくし、綺麗さっぱり、この計画は諦めますわ。ですから、お願いです、お父様。この通りです」

 そう言って、エリザベートは、父の腕に、自分の額を、こつんと押し付けた。 ヴィルヘルムの、巨大な体から、深い、深い、ため息が漏れた。それは、諦めと、困惑と、そして、どうしようもない愛情が、複雑に混じり合った音だった。

「……分かった」

 絞り出すような声に、エリザベートは、ぱっと顔を上げた。その顔には、計算された「喜色」が、満面に浮かんでいる。

「本当ですの!? お父様!」

「勘違いするな。わしが、認めたわけではない。ただ、陛下にご判断を仰ぐ、その機会だけを、取り計らう、というだけだ。おそらく、陛下も、わしと同じ意見だろうがな」

 苦虫を噛み潰したような顔で、そう言い放つ父。 だが、エリザベートにとっては、それで十分だった。いや、それ以上の、完璧な勝利だった。 第一関門、突破。 彼女は、父の腕をぎゅっと握りしめると、満面の笑みを浮かべた。その笑顔は、もはや、悪役令嬢のそれではなく、ただ、父の愛を勝ち取った、一人の娘の、無邪気な輝きに満ちていた。

 その輝きの奥で、長谷川梓の意識が、冷たく、次の戦いの算段を始めていることなど、もちろん、この無骨な父親が、知る由もなかった。

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