【前編】終章

 あれから、季節は一つ巡った。

 リヒトハーフェン領には、実りの秋を告げる、穏やかで澄んだ風が吹いている。


 エリザベート・フォン・リヒトハーフェン――今や、王都の誰もがその名を敬意と少しの畏怖を込めて口にする「海鮮男爵」は、領地の港を見下ろす丘の上に立っていた。

 その瞳に映るのは、半年前とはまるで違う、故郷の姿だった。

 かつては、日に数隻の漁船が寂しげに出入りするだけだった港は、今や、王国中から集まった大小様々な商船のマストで、林のように埋め尽くされている。活気ある船乗りたちの声、荷馬車の車輪の音、そして、新しく建てられた加工場から漂う、食欲をそそる香ばしい匂い。

 街には、新しい服を着た子供たちの笑い声が溢れていた。


(――KPIで言えば、領内総生産(GDP)は前年比300%増、失業率は5分の1、住民の幸福度調査も…きっと、うなぎ登りね)


 前世の長谷川梓であれば、そんな無味乾燥な数字でこの光景を評価しただろう。

 しかし、今のエリザベートの胸を満たしていたのは、そんな分析ではなく、ただ、温かい、どうしようもないほどの達成感だった。


 彼女は、丘を下り、街の中心へと向かった。そこには、かつての古い倉庫を改装した、レンガ造りの美しい建物が建っている。『当主代行エリザベート直轄工房 "青の工房"』だ。

 中に入ると、子供たちが、今や一端の職人の顔つきで、真剣な眼差しで魔導具や保存液の生産に取り組んでいた。

「あ、エリザベート様!」

 最初に彼女に気づいたのは、あの気弱だった少女、ティーナだった。今や、彼女はこの工房の若きリーダーとして、仲間たちから厚い信頼を寄せられている。

 子供たちが、一斉に駆け寄ってくる。その笑顔には、もう飢えも不信の色もない。自分たちの手で未来を創り出す、誇りと自信が輝いていた。


 王都の事業も、軌道に乗っていた。

 レオンハルトが領地で全体の生産管理を行い、王都では、監督下にあるクラウディアが、その商才を遺憾なく発揮して、フランチャイズ網の拡大を驚異的な速度で進めている。先日届いた手紙には、ビジネスライクな報告に混じって、たった一言、「あなたから、学ぶことは、まだ多いようです」と、彼女らしい、素直ではない感謝の言葉が綴られていた。


 全てが、順調だった。

 その日の午後、エリザベートは、久しぶりに、自室のテラスで穏やかなティータイムを楽しんでいた。

 セバスチャンが淹れた、完璧な紅茶。厨房の料理長が、彼女のために特別に作った、領地の果物をふんだんに使った焼き菓子。

 前世の彼女が、夢にまで見た、穏やかで、満たされた時間。


(――たまには、こういうのも、悪くないわね)


 そう思って、彼女がカップに口をつけた、その時だった。

「エリザベート様! 緊急のご報告です!」

 息を切らして、レオンハルトが駆け込んできた。その手には、王家の紋章よりも厳重な、特殊な封蝋が施された書簡が握られている。それは、エリザベートが、万が一のために南の国境に設置した、私設の情報網からの特級伝書だった。


 エリザベートは、静かにカップを置くと、その封を切った。

 滑らかな羊皮紙の上に並べられた、簡潔な暗号文。その内容に目を通すうちに、彼女の顔から、穏やかな笑みが、すっと消えていった。


「…何と?」

 レオンハルトが、心配そうに問いかける。

 エリザベートは、書斎の壁にかけられた、王国全土地図の前に立つと、リヒトハーフェン領の、さらに南。国境線を接する隣国――クレスタ共和国――の一点を、指先でなぞった。


「クレスタ共和国で、原因不明の大規模な小麦の疫病が発生した、と」

「疫病ですと!? それは、お気の毒な…」

「それだけではないわ。報告によれば、収穫量は例年の十分の一以下にまで落ち込み、既に各地で食糧を求める暴動が頻発。共和国政府の統制も、揺らぎ始めているそうよ」


 レオンハルトは、事の重大さを理解しながらも、まだ、それが対岸の火事であるかのように言った。

「それは一大事ですが、我々に、今すぐ何かできることが…」


「レオンハルト」

 エリザベートは、地図から目を離さずに、静かに、しかし、有無を言わせぬ響きで言った。

「国境沿いで、食糧危機が起きる。これが、何を意味するか、分からない?」


 食糧を求める、大量の難民の発生。国境警備の緊張。治安の悪化。そして、何よりも――。

(食糧という、最も根源的な市場(マーケット)が、崩壊し、そして、再構築されようとしている…!)

 それは、人道的な危機であると同時に、あまりにも巨大な、そして危険なビジネスチャンスでもあった。


 セバスチャンが、主君の尋常ではない雰囲気を察して、静かに尋ねた。

「お嬢様…我々は、どう動くべきなのでしょうか」


 エリザベートは、ゆっくりと振り返った。

 その瞳に宿っていたのは、もはや、一介の事業家の光ではない。

 国家の、そして、人々の未来を見据える、真の指導者(リーダー)の光だった。


「どうやら、私たちの次の仕事は、ただ美食を届けるだけでは、済まないようね」


 彼女の呟きは、これから始まる、より大きく、そして困難な物語の、静かな序章だった。

 エリザベート・フォン・リヒトハーフェン――海鮮男爵の戦いは、まだ、始まったばかりである。


(前編・了)

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