第十四章:蝕む者たち

 リヒトハーフェン領の朝は、規律と熱気に満ちていた。

『青の工房』では、子供たちが、今や見習い職人としての自覚に満ちた顔で、朝礼を行っている。工房のリーダーとなったティーナが、その日の生産計画を、はきはきとした声で皆に伝えていた。その光景は、エリザベートがこの地に灯した、希望の光そのものだった。

 彼女は、午前中、その工房の運営と、伝統ギルドとの交渉準備に、全ての時間を費_やした。そして、夜。


 世界が歪むような不快感と共に、王都の安宿の一室に転移したエリザベートは、息を整えるのももどかしく、お忍びの姿「リーザ」へと変わる。今宵は、アルフレッドの背後にいる貴族を探るため、イザベラが手配した、秘密の会合が待っていた。

 昼は領地の未来を創る改革者。夜は王都の闇を探る密偵。

 彼女の心身は、この過酷な二重生活によって、蝋燭のように、両端から、確実に削り取られていた。


 その、静かな浸食に、最初に気づいたのは、老執事のセバスチャンだった。

 彼が、エリザベートの異変を感じ取ったのは、王都から戻った、ある朝のこと。書斎で夜を明かした彼女の顔色が、病的なまでに青白い。目の下には、化粧では隠しきれない、深い隈が刻まれている。

(…お嬢様は、何かを、我々に隠しておられる)

 その忠誠心と、父性愛が、彼に、ある決断をさせた。

「――例の件、どうなった」

 セバスチャンは、数日前に王都へ送った密偵を、人気のない廊下で呼び止めた。アルフレッドを金で黙らせる、という、彼が独断で進めた計画。

 しかし、密偵から返ってきた報告は、セバスチャンの希望を、無慈悲に打ち砕いた。


「…申し訳ございません、セバスチャン様。完全に、裏目に出ました」

 密偵は、青い顔で、事の顛末を語った。

 アルフレッドは、金を受け取った。しかし、彼はそれを懐に入れる代わりに、王都の広場の噴水の上で、高々と掲げてみせたのだという。

『見よ、これが貴族の誠意だ!リヒトハーフェン家は、過去の罪を謝罪する代わりに、金で私の口を塞ごうとしてきた!これが、かの『海鮮男爵』の、やり方なのだ!』と。

「…なんと…」

 セバスチャンは、絶句した。

「アルフレッドは、その金を、自らの活動資金とし、今や、貧しい者たちの間で、一種の英雄のように扱われております。『腐った貴族に、一矢報いた男』として…。もはや、彼を止められる者は…」

 良かれと思っての行動が、最悪の形で、敵に塩を送る結果となってしまった。

 セバスチャンは、己の愚かさを呪い、その場に、崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。この失敗を、どう、主君に報告すればいいのか。


 その数日後。エリザベートは、伝統工芸ギルドの長老たちとの、二度目の聴聞会に臨んでいた。

 彼女は、前回の反省を踏まえ、彼らの技術を、自らの事業に組み込むための、具体的な提携案(アライアンス・プラン)を、いくつも提示した。

 しかし、ギルド長のヴァレリウスは、腕を組んだまま、厳しい表情を崩さなかった。


「…お嬢様。そのご提案、確かに、魅力的ではございます。ですが、我々が、本当に懸念しておりますのは、金の問題だけではございません。あなた様が、本当に、我々のような古くからの者たちを、対等なパートナーとして、扱ってくださるのか、という点です」

「…と、申しますと?」

「王都から、よからぬ噂が、我々の耳にも届いております。アルフレッド、という名の男の話を。…聞けば、お嬢様は、学園時代、邪魔な平民を、無実の罪で陥れたことがあるとか。…我々も、お嬢様にとって、いつか『邪魔』になった時、同じように、切り捨てられるのではないか。その疑念が、我々の心を、支配しておりますのだ」


 アルフレッドの毒が、ここまで。

 エリザベートは、背筋が凍るのを感じた。クラウディアの攻撃よりも、遥かに、厄介な攻撃。ビジネスではない。人の心に直接作用する、信用の破壊工作。

 交渉は、振り出しに戻った。


 その夜。疲れ果てて自室に戻ったエリザベートを待っていたのは、一枚の、王家の紋章が輝く、公式な召喚状だった。

『――エリザベート・フォン・リヒトハーフェンに命ず。来月執り行われる、王宮主催の収穫祭において、その晩餐会の総責任者を務め…』

 それは、最高の栄誉。そして、彼女の敵全てが集う、最高の処刑台。

「…そう。招待状、というわけね」

 彼女は、召喚状を、静かにテーブルの上に置いた。

「祝宴への、じゃない。――決戦の地への、招待状が」

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