第十三章:昼の領主、夜の密偵

 その日から、エリザベートの、二つの戦いが始まった。

 昼間、彼女は「領主代理エリザベート」として、領内の問題解決に奔走した。

 最初の聴聞会は、困難を極めた。

 応接室の空気は、張り詰めていた。向かい合って座る、頑固な老人たちの視線が、槍のようにエリザベートに突き刺さる。

「――お嬢様。あなたは、我々を、見捨てるおつもりか」

 ギルド長のヴァレリウスが、低い声で言った。

 エリザベートは、静かに頭を下げた。

「いいえ、マスター・ヴァレリウス。そのつもりは、毛頭ございません。私の計画に、あなた方への配慮が欠けていたこと、深くお詫びいたします」

 その、潔い謝罪に、長老たちの表情が、わずかに和らぐ。

「ですが」と、エリザベートは続けた。「私は、あなた方の伝統を、過去のものにするつもりもない。むしろ、その素晴らしい技術に、新しい『市場』と『付加価値』を与えたいのです。例えば…」

 彼女は、レオンハルトに合図し、一枚のスケッチを広げさせた。そこに描かれていたのは、ギルドの銀細工師が作ったであろう、見事な彫刻が施された、フォークとナイフだった。

「これを、『海鮮御膳』公式のカトラリーとして、王都の、いえ、いずれは王国中の富裕層に販売するのです。あなた方の織物は、店の内装に。陶器は、専用の食器として…」

 交渉は、困難を極めた。長老たちの不信感は、根深い。しかし、エリザベートは、一つ一つの懸念に、具体的なデータと、情熱をもって、粘り強く応え続けた。

 数時間に及ぶ議論を終え、書斎に戻った時、彼女の身体は、鉛を飲んだかのように重かった。

 そして、夜。

 月の光も届かない、完全に密閉された自室で、エリザベートは、重い身体を引きずるように、部屋の中央に立った。

 扉に、幾重にも鍵をかける。

 そして、目を閉じ、意識を集中させた。

(――飛べ)

 思い描くのは、王都の安宿の、あの狭く、カビ臭い一室。壁のシミの形、床板の軋む音、窓から見える、隣の建物のレンガの色。

 次の瞬間。

 ぐにゃり、と。世界が、歪んだ。

 内臓を、見えない巨大な手に掴まれ、裏返されるような、強烈な吐き気。全身の骨が軋み、血が逆流するような、圧倒的な不快感。

 これが、転移魔法の『コスト』だった。

「…ぅ…っ!」

 次に目を開けた時、彼女の足元は、リヒトハーフェン邸の豪華な絨毯ではなく、王都の宿の、硬く、冷たい木の床に変わっていた。

 エリザベートは、その場に膝をつき、しばらくの間、荒い呼吸を繰り返した。額には、脂汗が滲んでいる。

 しかし、休んでいる暇はなかった。

 彼女は、壁にかけてあった、質素なフード付きのケープを掴むと、再び、夜の闇へと、その身を投じた。

 商人の娘、「リーザ」としての、もう一つの戦いが、彼女を待っていた。

 マルタン商会の、薄暗い倉庫の片隅。

 エリザベートは、マルタンと、お忍びで駆けつけたイザベラからの報告を、厳しい顔で聞いていた。

「――やはり、黒幕がいたのね」

「ええ」と、イザベラが頷く。「金の流れを追ったわ。その多くが、領地の主産業が牧畜である、グロスヴァルト侯爵家や、王国一の酒造地帯を治める、フォン・ベルク伯爵家といった、『保守派』の重鎮たちよ。彼らは、あなたを、自分たちの市場を破壊しかねない、最も危険な『異端者』として、恐れているの」

「それだけではないわ」と、イザベラは、さらに眉間の皺を深くして続けた。「彼ら、アルフレッドを、次の収穫祭で、民衆の代表として『証言』させるつもりよ。『悪役令嬢エリザベートの、過去の罪』を、国王陛下と、全ての貴族たちの前で、告発させるために」

 それは、クラウディアとは全く質の違う、陰湿で、しかし、極めて効果的な攻撃だった。

 ビジネスの成功を、過去の罪で、個人の倫理観の問題へと、すり替える。

 エリザベートは、唇を噛んだ。

「…ありがとう、二人とも。貴重な情報よ。対策を考えましょう」

 彼女は、気丈にそう言ったが、その心身が、既に限界に近いことを、誰の目にも明らかだった。

 深夜、再び、領地の自室へと転移した時、エリザベートは、立っていることすらできず、その場に崩れ落ちた。

 二度の転移は、彼女の体力を、限界まで奪い去っていた。

 這うようにして、ベッドにたどり着き、泥のように、意識を手放す。

 睡眠時間は、毎日、わずか数時間。

 夜明けと共に、また、「当主代行エリザベート」としての、過酷な一日が始まるのだから。

 窓の外で、夜明け前の、最も深い闇が、世界を覆っていた。

 その闇の中で、エリザベートは、一人、問いかける。

(――体は、いくつあっても足りない)

(――時間も、信頼できる仲間も、なにもかもが、足りない)

 その小さな呟きは、誰にも聞かれることなく、静かな部屋に、虚しく響いた。

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